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◆ 第2章
27. これは恋人契約ですか? 後
しおりを挟む三石が美果の抵抗をねじ伏せるように強い力でぐいぐい腕を引っ張り始める。これはもう、カートで轢いても正当防衛ということで許してもらえる状況だろう。
翔さん、ごめんなさい! と心の中で謝罪してショッピングカートのグリップを握った美果だが、その直前に背後から大きな声が聞こえた。
「美果!」
「――え……?」
呼ばれて振り返った視線の先にいたのは、愛車の運転席から降りてきた翔だった。呼びかける声はもちろん彼のもの。焦った表情でこちらに近付いてくるのも、間違いなく翔本人だ。
「私の恋人から手を離して下さい」
「え、しょ、翔さん……!?」
近付いてきた翔の顔は、これまで見たどんな表情よりも怒りに満ちていた。その美しく整った造形が苛立ちに歪む様子に冷たい印象を覚えて固まってしまう。その怒りが自分に向けられているわけでは無いとわかっているのに、それでも正直、かなり怖い。
しかし美果は恐怖に震えることよりもまず、びっくり仰天してしまう。
(いま、私の名前呼んで……っていうか、恋人……?)
翔から名前を呼ばれたことと恋人だと宣言されたことに驚いて、訂正の言葉も忘れてしまう。どんどんとこちらへ距離を詰めてくる翔の顔を唖然と見上げることしか出来なくなる。
「聞こえなかったのか? 俺の美果に触るなと言ったのですが?」
翔は溢れ出る怒りを抑えることもせず、美果の手首を掴んでいた三石の腕を捻じって強引に引き剥がした。彼が「痛ぇっ」と悲痛な声をあげたので本当に痛そうだと思ったが、美果はそれとは別の状況に震えてしまう。
(翔さんんんん……!? だいぶキャラブレしてますけどーっ!?)
自分のことを俺と言ったり私と言ったり、敬語になったり普段通りになったり怒り口調になったり。
他人に対してはきらきら御曹司で完璧な王子様を演じてきたはずなのに、その人物像とキャラ設定が完全に崩壊している。美果が嫌がっていると気付いて慌てて助けてくれようとしたのだろうが、あまりにも動揺しすぎではないだろうか。
自分の喋り方や態度の乱れに気付いていないのか、握った手に力を込めた翔が三石を通路へ放り投げる。彼は急な解放にバランスを崩してよろめいたが、転倒したのかどうかを確認する前に美果の視界が翳った。
「え……」
三石に掴まれていた腕を翔に掴み直され、そのまま彼の胸の中に抱き寄せられる。直後に感じた翔の香水の香りは、少しウッディでほんのりとスモーキーで、驚くほど甘くて爽やかだ。
思わず胸が高鳴る。その緊張感ごと、美果を離さないとでもいうように強く抱きしめられる。視界を埋め尽くされるように翔の胸と腕に包み込まれると、驚きと恐怖に竦んでいた身体からようやく力が抜けていった。
「なんだよ、結婚するから辞めたのかよ」
二人の様子を見ていた三石が、手の平を返したように冷たい声を出した。その口調はまるで美果に裏切られたような口ぶりである。
もちろん美果がLilinを辞めた理由は結婚ではない。だが三石は完全に勘違いをしたようで、
「女ってほんとそうだよな。信じらんねぇ」
と大声で捨て台詞を吐くと、逃げるようにスーパーの中へ消えていった。
昨晩の豪雨に匹敵するほどの大嵐に見舞われた二人は、数秒そのまま抱き合っていた。だが人目に気づいたのか、ふと力を緩めた翔がようやく美果を解放してくれる。
「大丈夫か、秋月。怪我は?」
「あ、はい……大丈夫です」
翔の問いかけにガッツポーズを作って元気よく答えると、彼もほっと安堵の表情を見せてくれた。
もちろん美果だけではなく買ったばかりの食材も無事だ。直前までショッピングカートを押し付けてやろうと思っていたので、せっかく買った米の袋が破れてその辺一帯がお米だらけになる可能性もあったが、駆けつけた翔がその二秒前で助けてくれたのでどうにか事なきを得た。
翔が美果の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。無事でよかった、と態度で示してくれる翔に照れてしまうが、実は先ほど、これよりもっと照れる状況になっていた。
「……名前」
「ん?」
「いえ、名前で呼ばれたなぁ、と思って……」
咄嗟に恋人のフリをするという選択をした翔の判断は、正解だった。身体を張って美果を守ろうとする姿を見た三石は、二人を固い絆で結ばれた恋人同士だと勘違いしたらしい。きっと自分には分がないと悟ったからこそ、サッと身を引いてくれたのだろう。
けれど名前で呼ぶのは、いくらなんでもサービスがすぎる。そこまでされると美果も照れてしまう。
そう思っていると、翔がフッと笑みを浮かべた。そしてそのまま身を屈めて、正面に立った美果の耳元に顔を寄せる。
翔が、なにかを囁く。
「いい名前だよな、『美果』って」
「え?」
「美しい果実、だろ? ……美味そうだ」
美味そうだ、と呟いた声がいつになく艶めいていて、美果はびくっと身を強張らせてしまう。どくんと飛び跳ねた心臓が突然高速回転し始める。
美果が硬直していると、耳の傍にあった翔の唇が離れた。けれど完全に離れたわけではなく、ほんの少し顔を引いた翔と至近距離で見つめ合う。
――お互いの視線が深く濃く絡む。
「どんな味か気になる……食ってみたい」
「え、しょ……翔さん!?」
冗談……にしてはあまりにも本気すぎる。
翔の目は先ほどの三石と同じぐらい……いや、彼よりもよほど鋭く、声も甘く低く、美果の肩に触れる指先は服越しだというのに焼けるほどの温度を帯びている。
本気で美果を誘うように、本気で喰いつくしたいと望んでいるような表情に、また背中がぞくりと震える。けれど先ほどと違って嫌悪感は一切なく、むしろその言葉と澄んだ瞳に引き寄せられていく。
〝本気〟に誘い込まれて、〝本気〟にさせられる――
「冗談、は……やめて下さい」
「……」
美果が絞り出すように懇願すると、翔が纏っていた空気がフッと立ち消えた。
どうやら美果をからかうのは止めてくれたらしいが、ちらりと盗み見た彼は少しだけつまらなさそうな表情をしていた。
* * *
車に荷物を運び込んでショッピングカートを片付けると、まっすぐにマンションに向かう。助手席に乗り込んだ美果もシートベルトを締めたが、車が発進してスーパーの敷地を出てすぐに、翔が意外なことを訊ねてきた。
「なあ、秋月ってモテんの?」
右手で車のハンドルを握り、左手で空調の設定を変える姿はごく自然だ。片手間に訊ねる声にも表情にも真剣な気配は感じられない。
「さっきみたいに言い寄られること、多いのか?」
さっきみたいに、というのは、下心が満載の輩から迫られることだろう。けれどそれと恋愛としての意味でモテることは、別な気がする。
もちろん美果はこれまでの人生で異性にモテた経験はなかったが、素直に認めるのもなんとなく悔しい。認めればああやって下心だけで近付いてくる輩にしか相手にされないと言っているようなものだ。まあ、実際にその通りなのだけれど。
「さあ、どうでしょうね」
「……」
美果としては上手くはぐらかしたつもりだった。だが数分経過してから目だけを動かしてちらりと翔の姿を確認すると、黙り込んでしまった彼の表情は想像以上に暗かった。
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