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◆ 第2章
23. 近付く距離 後
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家政婦業務をこなす夕方までの間、美果は時折外を眺めては雨足が遠退くことを期待していた。だが外の状況はますますひどくなるばかり。
「うーん……雨やっぱりすごいなぁ」
今日はここ数日の中でも特にひどいかもしれない。関東の梅雨といえば比較的勢いの弱い雨が長くだらだらと続くイメージだったが、ここ数年はバケツをひっくり返したような激しい雨が長時間続くことも珍しくなくなってきた。
今日はその厄日らしく、正午頃から雨足がどんどん強まり、今はまさに集中豪雨の真っ只中。気象情報アプリを確認すると雨雲の動きが悪く、あと数時間はこの状態が続くとの予報が表示されている。
「これはバスもダメかなぁ……」
美果は翔のマンションまで電車で通勤しているが、豪雨の日は電車もバスも遅延するし、利用客はいつもより多くなるし、車内も蒸れるので空気が悪い。
場合によっては駅の構内が冠水したりバス停が雨漏りしたりすることもあるし、普段なら三十分ほどの通勤時間に三時間以上を要することもある。
マンション近くのスーパーとの往復はどうにか可能だったが、帰宅は大変だなぁ、と考えながらシチューに使う野菜を刻んでいると、玄関でオートロックが開く音がした。
さらにガチャッと扉が開く音がしたので、包丁を置いて手を洗うと、廊下へ顔を出す。
「ただいま、秋月」
「えっ、翔さん!?」
するとそこで、髪が少し濡れた状態の翔が靴を脱いでいた。
パタパタとルームスリッパを鳴らしながら翔に近付き、帰宅してきたという翔のビジネスバッグを受け取る。
「おかえりなさい。早いですね?」
「ああ。予定していた商談先に向かってたんだが、この雨のせいで延期になったから、今日はもう帰ってきた」
現在の時刻は午後二時すぎ。いつもより格段に早い帰宅時間に他の仕事はいいのだろうかと思ったが、疑問の表情に気がついた翔が「誠人が雨の日に何回も運転するのを嫌がったからな」と教えてくれた。
部長クラスの翔は、本来送迎が必須な立場ではない。だが現社長の長男であり、将来的には天ケ瀬グループの後継となる身だ。毎朝確実に起こして出勤させる必要性もあることから、幼なじみであり秘書である誠人が使命感を持って翔の運転手も努めているらしい。
とはいえ、さすがの彼も豪雨の日の度重なる運転は嫌がったようだ。
「今、夕飯を作っていたところです」
「じゃあ今日は出来たてが食えるな」
着替えのために自室へ向かう翔に家事業務の進捗を伝えると、翔が振り返って笑顔を見せた。
その何気ない表情までが驚くほどに美形で、美果の心臓がドキリと跳ねる。見返り美人って男の人にも使える表現なのかなぁ、とぼんやり考えてしまう。
「お……お風呂の準備もしますね!」
一瞬だけボーッとしてしまったが、翔の表情に見惚れてはいられない。
さすがに夕食の時間にはまだ早いが、この後もう外出しないのならばすぐにお風呂に入るかもしれない。美果はいつも家政婦業務の最後にお風呂の湯沸かし予約をしていくので、今はまだお湯張りが完了していないのだ。
「別に雨に当たったわけじゃないから、風呂は後でいい」
慌てて浴室へUターンしかけたが、翔は特に急がなくていいと仰せだ。
「それよりお前、この雨で帰れるのか?」
ふとした問いかけに振り向くと首を傾げる翔と目が合ったので、そのままピタリと動きを止める。どうやら翔は、この豪雨のせいで美果が帰宅できないのではないかと心配してくれているらしい。しかし心配は無用だ。
「帰れますよ。多少濡れると思いますし、電車もバスも遅延してるかもしれませんが、一応動いてるはずなので」
大なり小なり遅延や不便はあるし、帰宅に時間はかかってしまうかもしれないが、気象情報アプリや運行情報アプリによると公共交通機関は止まっていない。今のところは。
ただいつもより帰宅ラッシュの時間がずれ込みそうだから急いだほうがいいかも、と思っていると、翔が意外な提案をしてきた。
「泊まっていけば?」
「……え?」
「部屋は余ってるし、来客用の布団もあるだろ」
美果の動きが止まる。泊っていけば? の意味も、部屋は余ってる、の意味も咄嗟にはわからなくて。
突然の提案に廊下のど真ん中でぽかんと口を開けると、美果の様子を見た翔がにやりと笑った。今朝と同じ、美果をからかうような表情で。
「まあ、俺のベッドで一緒に寝てもいいけどな」
「!?」
さらに衝撃的な誘い文句が続いたので、つい変な声が出そうになる。その声を抑え込むように、翔のビジネスバックを胸の前でギュッと抱きしめる。
「い、いえ……大丈夫です!」
「ん? 女子が泊まるには足りないものが多いか?」
美果は翔の提案を固辞したが、彼は首を傾げるばかり。しかも美果の心配とはまったく違う問題点を理由として挙げられる。そういうことではなくて。
(翔さん、モテるんだろうな……)
その顔を見ていて、ふと思う。
清掃の仕事をしていた頃はもちろんのこと、この家で家政婦をするようになってからも翔の浮いた噂なんて一度も聞いたことがない。美果にも隙を見せないよう注意しているだけかもしれないが、女性を連れ込んでいたこともなければ、出張以外で外泊をする姿も見たことがないのだ。
結婚をしたくないという話は聞いていたが、まさか恋愛も一切しない、というわけではないだろう。だがあっさりと「ベッドで一緒に」と口にするところを見れば、彼が女性の扱いに慣れているのは明白だ。もちろん、翔がさぞモテるだろうことも容易に想像できる。
それに今はそのつもりがなくても、いずれは結婚を考えなければならない時がくるはずだ。
黙り込んだ美果の様子に、翔が首を傾げる。まさか美果が自分の恋愛について考えているとは思ってもいないだろう翔は、少し不思議そうな表情だ。
意外な言葉を聞いたせいでつい翔の恋愛事情に思考が飛躍してしまったが、それより今は彼の説得だ。
「そうじゃなくて……あの、タクシーを呼べば濡れずに帰ることもできますので」
気持ちは有難いが、本当に帰れないほどではない。とにかく彼の提案は不要であると説明したい美果だったが、その一言に翔がムッとした表情になった。
「業務命令。いいから泊まっていけ」
「で……でも、あの」
「明日送ってやるから」
「え、ええ!?」
一体何が彼の気に障ったのだろう。美果がこの豪雨で風邪を引くかもしれないと心配して親切に提案してくれたのに、それを断ってしまったからだろうか。
否、翔は親切を断られたからと言って不機嫌になるほど狭小な人ではないはず。いつも相手の意見や言い分を尊重してくれるし、美果の話もちゃんと聞いてくれる。なのにどうして、今日に限ってこうも強情なのだろう。
(え……泊まるって……ほんとに?)
確かに明日は土曜日で休暇のため、翔も一日在宅予定と聞いている。しかしどうせ車で送ってくれるのなら、今日のうちに送ってくれればいいのに。と思ったが、疲れて帰って来たばかりの翔にそんな図々しいお願いまでは出来ない。
翔の中で美果の宿泊は決定してしまったようで、明確な返答を待たず着替えのためにクロゼットルームに向かっていく彼に、どんな言葉をかければいいのかもわからない。
美果は翔のビジネスバッグを抱きしめたまま、高鳴る心音を必死に押さえ込んだ。
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