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◆ 第2章

20. 透明なレンズの中で 前

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「どうした? 撮れるんだろ?」

 思いがけない提案に固まっていると、翔がにやりと口角を上げた。その微笑みに一瞬背中がぞくりと震える。

 ソファの背もたれに身体を預け、肘かけに頬杖をつき、長い脚を組んで美果を見下ろす笑顔は尊大かつ挑発的だ。雇用主であり年上である翔が、家政婦の美果を意のままに操ろうとするのは当然かもしれない。だがからかうような仕草には、ほんの少しムッとしてしまった。

「いいですよ、じゃあ撮りましょうか?」

 夢を見ているだけで実力が伴っていないと思われたくなくて――本当の意味で美果の気持ちを認めてもらいたくて、あえてその挑発に乗ることに決める。

 正座から膝立ちになってテーブルに近付くと、黒いカメラバッグのジッパーを開けて中から一眼レフカメラを取り出す。最後に手入れをしたのは半年ほど前だが、その時にバッテリーをフル充電にしているので、数枚の撮影なら可能だろう。

「ちょっと待っててくださいね、カメラの設定するので」
「設定?」
「写真を撮る前に色々調整が必要なんですよ。レンズもつけなきゃいけないですし、適正サイズとか、色や光のバランスとか、ピントの合わせ方とか」

 一眼レフカメラで写真を撮るときはレンズを装着しなければならないし、撮影モードや細かい設定をする必要もある。インスタントカメラやポラロイドカメラのようにただファインダーを覗いてボタンを押せばいいわけではなく、綺麗な写真を撮るためには被写体や環境に合わせた細かい調整が必要なのだ。

 いや、そもそもこのカメラは、美果が中学生のときに亡くなった父が使っていたカメラである。あれから十年以上が経過しているので、当然最新式のカメラほど機能が充実しているわけではない。

 ただ写真を撮るだけならばスマートフォンに内蔵されているカメラアプリを使ったほうがよほど綺麗に撮れるような代物なのだ。

 カメラの設定と調節を済ませると、一度ファインダーを覗いてみる。これで上手く撮れるかどうかは実際に撮影してみないとわからないが、とりあえず初期設定としてはこんな感じだろう。

「いいですか? 撮りますよ」
「ああ」

 設定したカメラを翔の方へ向ける。相手に許可を貰って撮影をする状況を『学生の修学旅行に引率するカメラマンみたい』と思ったが、ささやかな妄想はファインダーを覗き込んだ瞬間にすべて吹き飛んだ。

 思わず呼吸が止まりそうになる。
 否、息をすることさえ忘れてしまう。

 翔の微笑む姿は魔性の色香を秘めた王様のようだ。リラックスした自然な姿は優雅で品があるのに、どこか相手を威圧するような風格さえ感じられる。

 ソファに身体を預け、長い脚を組んで、肘をついてじっとこちらを見つめられると心臓がドキリと飛び跳ねる。全身が甘やかな震えを生むほどに、彼の姿はただただ魅惑的だった。

(かっこいいなぁ、ほんと)

 整った顔立ちと恵まれた身体。その身を包むスーツも天ケ瀬百貨店に入る一流テーラーのオーダーメイド品。静止していれば完璧な王子様である翔の姿をフレームの中央に捉える。

 見ているだけでドキドキしてしまう。ファインダー越しに一方的に見ているのは美果のはずなのに、至近距離で見つめ合っているように錯覚してしまう。

 翔の時間を独り占めしている。まるで彼の恋人になったような不思議な気分を味わいながらシャッターを切る。

 ――カシャ、と高い音が広いリビングに響いた。

 緊張の一瞬を終えると、ようやく小窓から顔を離す。すぐに再生モードにして撮った写真を確認した美果は、思わずほうっと感嘆の息を吐いた。

(芸能人みたい……このまま商品のポスターに使えそう)

 最初に抱いたのは少し間抜けな感想だった。だが嘘や偽りではなく、それが美果の素直な感情だった。

 これなら『スーツの広告です』と言われても、頬杖をついた左の手首から少しだけ見えている『時計の広告です』と言われても十分に納得できそうだ。

「どうだ?」
「え、えっと……まぁまぁですかね……?」

 液晶モニターに釘付けになっていると、組んでいた足をほどいて前のめりになった翔にそう問いかけられた。

 咄嗟に『美果の写真の腕』を訊ねてきたのか『被写体である自分の映り具合』を訊ねてきたのかを判断できず曖昧な返事をすると、「なんだそれ?」とくすくす笑われてしまった。なんだか今夜は、翔も楽しそうだ。

 撮影した画像を見せるために液晶モニターを彼の前へ向けると、

「へえ、案外綺麗に撮れるもんだな」

 と感心された。

 声が少し弾んでいたので彼も満足したのだろう。まだまだ勉強も練習も必要な美果の写真でも喜んでくれるならば、彼の挑発に乗って撮影した甲斐があったのかもしれない。

 なんて浮かれていると、またも翔から意外な提案をされた。

「秋月、俺にも撮らせろ」

 翔の言葉に一瞬動きが停止する。ゆっくりと顔を上げて翔の目を見ると、そのまま首も傾げてしまう。

「え……何を撮るんですか?」
「お前を」

 端的に告げられてもやはり少しの間は理解が出来なかったが、数秒が経過してからようやく彼の望みを察する。

「見てたら俺もやってみたくなった」

 どうやら翔も、父のカメラで写真を撮ってみたくなったらしい。誰かが使っているものを自分も使ってみたくなるなんて小学生か! と思ったが、悪い気分にはならなかった。

 むしろ、美果が撮ったたった一枚の写真で彼がカメラや写真の世界に興味を持ってくれたのならば、こんなに嬉しいことはない。幼い時に父の写真をみた美果が興味を持つきっかけも同じだったので、なおさら翔の言葉を嬉しく思った。

 いいですよ、と短い返事と共に翔にカメラを手渡す。一眼レフカメラは本体も重たいしレンズを装着するのでさらに重量を感じるが、受け取った翔は重さよりもカメラに興味津々の様子だった。

「どうすればいいんだ?」
「それほど難しくないですよ。この小さい窓を覗いて、右上の黒いボタンを押せばそのまま撮影できるので」

 いくら天ケ瀬百貨店グループの御曹司といえど、インスタントカメラやデジタルカメラで写真を撮ったことぐらいはあるだろう。撮影設定などを細かな調整の必要はあるが、写真撮影の基本的な手順は一緒だ。

 ソファに座ったままカメラの持ち方を確認した翔がファインダーを覗く。その翔に、

「じゃあ撮るぞ」

 と声を掛けられたので、緊張しながら「はい」と返事をする。

 返事をしてから、ふと先ほど自分が撮影したときの状況を思い出した。

 ファインダーを覗けば、視界は撮影しようとしている被写体のみになる。つまり美果がそうだったように、撮影するまでの数秒間翔の視界には美果しか映らないことになる。

 そう考えると途端に申し訳ない気持ちになってくる。しかも夜になっても凛々しいスーツ姿を保っている翔とは異なり、美果はストレッチパンツにTシャツという家事がしやすい格好で、とてもお洒落な装いとは言い難い。

 撮った写真をプリントアウトするわけではないので、美果の姿が記録されるのはカメラの中にあるSDメモリだけ。それでももう少しましな格好のときに撮ってもらえばよかったと思う。

 せめて髪の毛を一度ぐらい撫でて直しておけばよかった。こんなくたびれた姿が翔の目に映っているのかと思うと、それだけで申し訳なさを通り越して猛烈に恥ずかしくなってくる。

「……可愛いな」
「え?」
「いや……ほら、動くなって」

 緊張と後悔のあまりどこを見ていいのかわからず挙動不審になっていると、不意に翔が何かを呟いた。

 表情や動きには出していないつもりだったが、動揺のあまりつい怪しい動きをしてしまった。だから一瞬、それを指摘されたのかと思った。

 美果は聞き返そうとしたが、首を傾げた瞬間にパシャ、とシャッターが落ちる音がした。


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