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◆ 第2章
19. 宝物の隠し場所 後
しおりを挟む父は地球上の美しい風景を一枚の写真に収めるために世界中を旅していた。あらゆる国や地域の山や海や森に空気のように溶け込み、大自然の息遣いを感じるような素晴らしい写真をひたすら撮り続けた。
「中でも、ハワイの海と空の写真はどれも本当に綺麗でした。一枚一枚がさざ波の音が聞こえてきそうなほど輝いていて、今にも景色が動き出しそうなほど生き生きとした写真ばかりだったんです」
美果も父に色んな写真を見せてもらったが、中でもハワイの海の写真は別格だった。
太平洋の東に浮かぶアメリカ合衆国に属する楽園、ハワイ諸島。父の撮った写真の中は何もかもがきらきらと輝いていて、空と海の境界線がどこまでも美しかった。
朝焼けの穏やかな海辺も、キラキラ光るセレストブルーの水面も、白い浜辺と強い日差しのコントラストも、夕陽が沈むグラデーションも、星が零れ落ちてきそうな夜の渚も、まるで違う惑星の景色のよう。
自分が知っている海とは違う。〝楽園〟の名に相応しい絶景の数々は、幼い美果の心を強く惹きつけた。
「いつか私も、美しい空と海を自分の目で見てみたい。父の残したこのカメラで、ハワイの海を撮ってみたい」
「……」
「別に、プロのカメラマンになりたいわけじゃないんです。ただ父が――両親が愛していた景色を自分の目で見て、自分の肌で感じて、自分の手で写真に残したい。夢というより、憧れかもしれません」
母が難病を宣告されたのは美果が小学校高学年のとき。その母はいつも、父の写真が病室に届く瞬間を心待ちにしていた。
『お母さんも新婚旅行でハワイに行ったことがあるのよ。元気になったら、梨果と美果も一緒に行こうね』
そう語った母の照れ顔が、今まで見たどんな表情よりも可愛らしくて眩しかった。
『美果。父さんと一緒に三百六十五枚分のハワイの写真を撮ろうか。美果と父さんが撮った写真を毎日眺めてたら、きっと母さんも元気になれるよ』
そうはにかんだ父の笑顔は、これまで見たどんな表情よりも凛々しくて格好よかった。
結局、闘病中の母より先に父が逝ってしまい、さらに母も後を追うように儚くなった。
だが父との約束を諦めていなかった美果は、その後も必死に勉学に励んで四年制大学の国際学部に進学した。強い憧れは希望に変わり、ハワイの伝統や文化、歴史や言語を学ぶことでいつかこの地に関わる仕事が出来たら、と思うようになったのだ。
しかし美果の気持ちは姉の梨果にことごとく踏みにじられた。
父との約束も大切だったが、静枝のことを思うと借金の返済が最優先だった。美果は結局、大学中退の道を選ばざるを得なくなった。
けれど本当は、諦めていない。
美果の夢と約束は、まだ潰えていなかった。
「カメラのケースに、私のパスポートを入れてあるんです」
「ん?」
「今はまだ難しいですけど、いっぱい働いて、お金を貯めて、いつか自分で夢を叶えたい。そのための決意表明代わりでしょうか。私がいつかハワイに行くときはこのカメラも一緒ですから、同じ場所に入れておけば絶対に無くしませんし、忘れません」
姉の借金を清算して自分のためにお金を使えるようになったら、今度こそ父との約束を叶えたい。一度でもいいから『楽園』に行ってみたい。
このパスポートは、美果が夢を叶えるための宣誓書だ。せっかく取得したのだから、有効期限である十年以内に一度ぐらいはハワイへ行きたい。もしその時が来たらこのカメラも絶対に一緒なのだから、と、あえて自分の決意をカメラのバッグに隠しているのだ。
「だから、このカメラを売ることだけは絶対にしたくないんです」
「……そうか」
美果の話を聞いた翔の返答はごく短いものだった。
けれど美果の考えや想いを酌み取ってくれたらしく、向けられた微笑みはいつになく優しげだった。
「わかった。カメラはこの家に置けばいい。空き部屋の好きな場所を使って構わないから」
「あ、ありがとうございます……!」
翔の言葉に、父のカメラの安全が保証されたことに安堵する。これで美果が不在の間に梨果が勝手に売却してしまう可能性は、ほぼなくなったと言っていいだろう。
ちなみに天ケ瀬家には、立ち入り禁止の部屋がない。小説やドラマでよくある『この扉だけは開けてはいけない』的な場所は一切存在せず、今いるこのリビングも、翔の広いベッドルームも、ゲストルームや物置部屋も、美果は出入り自由だ。というより、その部屋を整理整頓して清潔を保つことが美果の仕事である。
どこに置かせてもらおうか、とりあえず物置部屋でいいかな? と考え込んでいると、ふと翔がカメラのバッグを指さした。
「ところでお前、カメラなんて扱えんの?」
「え?」
「いや、ハワイで写真を撮りたいのはいいけど、そんな高いカメラすぐ使えるもんなのかと思って」
翔の疑問に一瞬瞠目するが、それに関しては心配無用だ。
「撮れますよ。いつかのときのために、多少は勉強して練習してるので」
「へえ」
父が生きていた頃の美果はまだ幼かったので、父から直接カメラの知識や写真撮影のノウハウを学べたわけではない。
だから同じような写真を撮れる自信はないが、一応年に数回はメンテナンスを兼ねてカメラをバッグから出しているし、家の周囲を撮影して遊ぶこともある。よって一応、写真を撮ることぐらいは出来る。
翔が感心して頷くのでエヘン! と胸を張りたい気分になった。だが彼がふと放った言葉は、美果にはまったくの予想外だった。
「じゃあ俺のこと撮ってみろよ」
「……? え……?」
――翔を、撮る……?
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