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◆ 第2章

15. 大好きな人のために 後

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 そう思って翔の言葉を受け流すが、なぜか翔は不機嫌になってしまう。美果の言葉が面白くない、とでも言いたげだ。

「……秋月」
「はい?」
「……いってきます」
「? いってらっしゃいませ……?」

 翔は何かを言おうとして口を開いたが、結局出てきた言葉は出発の挨拶だけだった。

 基本的に外面がよく礼儀正しい翔だが、すでに本性を知っている美果には一切の遠慮がなく、いつだって好きなことを思いついたままに言い放つ。

 だから意見を口にせず口を噤むのは珍しいと感じたが、すでに仕事へ向かった翔が言いかけた台詞の答えなど、探したところで見つかるはずがない。

「さてと、やりますか!」

 それより、美果は今日も天ケ瀬家の家事を確実にこなさなければならない。

 天ケ瀬百貨店本社に勤める社員の標準的な勤務時間は午前九時から午後五時半まで。ただし一般的な勤務形態と異なる美果は、二時間の前倒しと十五分の時間外労働で午前六時四十五分から午後三時半までが勤務時間となっている。

 朝から翔を起こして朝食を摂らせ、仕事に送りだすと食器洗いと洗濯をして、人が少ない時間帯のうちに買い物に出かける。戻ってきて一時間のお昼休憩をとると、洗濯物を取り込んでアイロンをかけ、家中の掃除を済ませて夕食を作り、お風呂の湯沸かし予約をセットする。

 これを午後三時までにすべて終えることが一日の仕事――つまり、美果には翔の言葉の意味を考えてのんびりとしている暇などないのだ。



   * * *



「おばあちゃん」
「あらあ。久しぶりねぇ、美果ちゃん」

 家政婦の仕事を終えた美果は、祖母・静枝が入所する介護付き有料老人ホームを訪れていた。

 この施設は静枝が自らこだわって決めた終の棲家であるが、家からここへ来るためには電車で一時間以上を要してしまう。ゆえにここ数か月ほどまったく顔を出せておらず、お互いに顔を合わせるのは静枝の言うようにかなり久しぶりだ。

 談話室のダイニングに腰を下ろすと介護職員が二人分のお茶を入れてくれた。美果は温かい湯飲みで少し冷えた手を温めながら、静枝にそっと苦笑いを浮かべた。

「ごめんね、ちょっと来れない日が続いちゃって」
「いいのいいの。美果ちゃんも忙しいんだから」

 静枝は美果が仕事で忙しいことを把握しているらしく、にこにこと笑って手を横に振ってくれる。

「あら、でも今日は顔色がいいわね」
「あ、うん……」

 美果の顔を覗き込んだ静枝が意外そうに目を丸くする。その表情が珍しく嬉しそうだったので、

(おばあちゃんにも心配かけちゃってたんだ……だめだなぁ)

 とこれまでの生活を改めて反省した。

 静枝も美果が忙しいことは理解しているが、その理由が梨果の作った借金返済のためで、しかもその借金が自分名義であることまでは把握していない。足が悪いこと以外には特に不調のない祖母だが、高齢であることを考えればやはりショックを与えるような情報は耳に入れるべきではないだろう。

 それは言わないようにするとして、美果は今日、静枝に報告しておきたいことがあった。

「おばあちゃん。事後報告になっちゃってごめんなさいなんだけど……実は私、転職したの」
「あら、そうなの? お掃除の会社は辞めちゃったのね?」
「うん。って言っても、やってることはまたお掃除なんだけどね」

 間違ったことは言っていない。食事や洗濯や買い物もしているが、掃除もしているのだから。

 だがここで『天ケ瀬百貨店という大きな会社の秘書課に所属となった』といえば、それはそれで静枝の混乱を招くに違いない。

 ということで、ここは曖昧な表現で許してもらうことにする。

「美果ちゃんが元気でいてくれるなら、なんだっていいわ」

 いつものように朗らかに微笑んでくれる静枝に「うん」と照れ笑いを浮かべる。美果は両親のことももちろん大好きだったが、それと同じぐらい祖母の静枝のことも大好きだった。忙しい父と入院の多かった母に代わり、美果と梨果を大切に育ててくれたのはいつも彼女であった。

 だから元気でいてほしい。一日でも長く健康に生きてほしい。

 そんな美果の願いの上に、まさかの要望がのしかかってきた。

「あとは嫁のもらい手が見つかってくれればいいんだけどね」
「ウッ……」

 どストレートな祖母の願望に思わず変な声が出てしまう。無邪気な笑顔で痛いところを突いてくるのがこの祖母である。

 もちろん美果も、自分が結婚適齢期であることは理解している。だが、結婚というものは、相手がいなければ出来ないのだ……って、これ今朝も思った気がするのだけど。

「美果ちゃんより、梨果ちゃんの方が先かしら」
「……。」
「そういえば、梨果ちゃんは元気?」

 姉妹を同じように可愛がってくれた静枝だ。当然、梨果の話題が出ることも覚悟はしていた。

 だが美果は、この質問に関しては五年前から毎回のように言葉を詰まらせてしまう。無理にでも笑いたいと思っているのに、相手がキャバクラ店に来る客だったら適当にあしらうことも出来るのに、静枝には上手く笑えている自信がない。

 それではだめだと、思うのに。

「どう、かな……。最近、連絡取ってないんだ……」
「そうなの? まぁ、梨果ちゃんも忙しそうだものね」

 美果がどうにか絞り出した言葉を聞いた静枝が、少しだけ寂しそうに頷いた。

 その表情を見て思う――やはり彼女には絶対に知られてはいけない。美果にも梨果にもたくさんの愛情を注いでくれた静枝が、この現実を知ってショックを受けないはずがない。

 静枝は夫である祖父が残してくれたお金でこの施設に入所し、受給している年金を利用料に充てることで今の生活を継続している。足りない分と臨時のイベント費などは美果が補填しているが、秋月家の面々が金銭面で貧困しているという認識は一切ないのだ。

 梨果の状況は決して知られてはいけない。知れば心穏やかに過ごせているこの施設を出て、足が悪いのに無理にでも自宅で過ごして、浮いた年金を梨果に渡そうとするだろう。

 夫に先立たれ、息子と嫁を失い、その二人に代わってこれまで美果たち姉妹を育ててくれた静枝が、今さらそんな悲しみや苦しみを味わう必要はない。美果はただ、大好きな静枝に楽しく過ごしてほしいだけなのだ。

「それよりおばあちゃん、欲しいものある?」

 これ以上梨果の話題を続けていると、余計なぼろが出てしまいそうで怖い。だから自然な形で話題をスライドする。

「もうすぐ誕生日でしょ? 私、何かプレゼントがしたいの」
「まぁ、ありがとう。嬉しいわ。……でもね、私には美果ちゃんが元気でいてくれることが、一番のプレゼントなのよ」
「……おばあちゃん」

 静枝がにっこりと微笑む姿を見て思う。
 
 美果はやっぱり、歳を取っても可愛らしい祖母のことが大好きだった。

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