10 / 87
◆ 第1章
10. 小さな夢をみて 前
しおりを挟む「それにしても想像以上の状況だな。俺も面倒な立場だと思って生きてきたが、お前の方がよほど過酷だ」
「そ、そうですか?」
翔の言葉を聞いて改めて考えてみると、確かに過酷な状況かもしれない。自分と身内の話で、しかも姉の借金が発覚してから約四年間ずっと働き詰めだったせいで感覚が麻痺していた。だがこれが他人だったら、美果も歪だと思うだろう。
それでも辛くて苦しくて逃げ出したい、と悲観したり思い詰めたことはない。
(私には夢があるから……お父さんとの約束があるから、頑張れる)
美果にはたった一つだけ、小さいけれど大切な夢があった。この苦しい状況にある美果の心を支えているのは、幼い頃に父と交わしたとある約束だった。
カメラを手に世界中を飛び回りながらも闘病中の母を愛し支え、美果と梨果にたくさんの愛情を注いでくれた父の夢を引き継ぐ――その目標があった美果はどんなに苦しい状況でも弱音を吐かなかったし、梨果を許すことも出来た。大好きだった父の笑顔を思い出すと、辛さを忘れることも出来た。
「飯はちゃんと食ってるのか?」
「え……?」
懐かしい父の姿を思い浮かべていると、ふと翔にそんな問いかけをされた。疑問の声に気づいて、はっと我に返る。
いけない、仕事中だった。
「はい、一応は」
食事は人の身体を作る大切な要素だ。たった一時間の寝る時間さえないほど忙しくても、食事は数分から数十分あれば済ませられる。量は少なく質素だし、天ケ瀬百貨店の地下食品売り場に並んでいるようなお高い惣菜は滅多に口に出来ないが、それでも食事だけはちゃんと摂るよう心がけている。
「そうか、えらいな」
「あ、ちょ……!」
美果が頷く様子を見た翔が、突然頭をわしゃわしゃと撫でてくる。ちょっと乱暴。けれど笑顔で子犬を褒めるような撫で方をされると、なんとなく照れて俯いてしまう。
職業柄、これまでにも異性に触れられることは何度かあった。だが過去に経験してきた触れ合いとはぜんぜん違う。下心がなく自然な笑顔で美果を褒めてくれるのは、父以外では翔が初めてだった。
(この人、やっぱりすごいモテるんだろうな……)
見ていればわかる。
完璧に整った外見、美しい立ち振る舞い、素晴らしい家柄と肩書、優しい性格――は偽りかもしれないが、別に本当の彼も他人を踏みにじって蔑むような悪人ではない。むしろの素の翔だって、他人の身を案じて辛さを理解し、努力を褒めてくれるという人情に溢れる人柄だ。
老舗百貨店や夜の六本木に勤めていれば『いい男』に出会う機会が多い。もちろんもう少し年齢を重ねた人ならば外見にも中身にも大人の色気を感じられる男性はいる。しかし翔のように若くて未婚であるにも関わらず、ここまですべてが完璧な存在はかなり珍しいと思う。
「そういえば、結婚がどうとかお話されてましたよね?」
自分の頭の中に浮かんだ『未婚』という単語で、ふと思い出した。
そもそも翔と急接近することになったきっかけは、美果が彼の秘密を知ってしまったから。翔が思う『秘密』は『素の話し方をしている自分、完璧じゃない姿』であり、話していた『内容』ではなかったようだが、断片的に思い出してみると結婚という言葉を口にしていた気がする。
美果の言葉を聞いた翔が、それまで頭を撫でていた手を止めてハアと嫌そうなため息をついた。だがそれは質問をした美果に対する感情ではなく。
「仕事が忙しくて、私生活が乱れがちなんだよ」
「……」
確かに翔は『完璧』だが、その大部分を占めるのは表向きの姿だ。外での身だしなみには細部まで気を遣っていても、普段生活している住まいの状態はお世辞にも綺麗とは言い難い。
その理由は忙しくて家の掃除にまで手が回らないせい……ということにしておこう。
多分元からずぼらな性格で単に掃除が苦手なだけだと思うが、翔はその姿も他人には知られたくないらしい。だからこそ、口が堅く信頼できそうな美果が掃除の相手として選ばれたのだ。
「この惨状を見たお袋が、嫁を用意したと言い出して」
翔の母親は息子の生活環境をある程度把握しているらしく、ずぼらな――ではなく、忙しい翔を傍で支える存在が必要だと考えているらしい。それは確かに一理ある。
「じゃあご結婚されるんですね。おめでとうございます!」
「しねーよ。勝手に祝うな」
嫁という単語が出てきたので翔が結婚を決めたのだと思い、顔の前で小さな拍手をしながら祝いの言葉を述べる。しかし苛立った様子の翔に思いきり否定されてしまった。
「俺は自分の生活空間に他人がいる、ってのが嫌なんだよ」
「え……じゃあ結婚出来ないじゃないですか」
「だからしないって言ってるだろ」
憮然とした様子でそっぽを向く姿を見て、すっかりと忘れ去っていた電話の様子を思い出す。
あの電話の相手は翔の『本来の姿』を知っている人物で、結婚をすすめてくるような人物――そう、翔の母親だったのだ。しかも接待を受けている最中に席を外してまで電話を受けるということは、翔も簡単には逆らえない存在なのだろう。
「ものすごい勢いで勧めてくるから、俺も困ってるんだ」
しかし母の望みに反し、翔には結婚願望がないという。それどころか、他人を自分の家に入れることすら苦手だと言うのだ。
(あれ……?)
ならばどうして、美果は今この家に入ることが出来ているのだろう。記憶が間違っていなければ、翔は『家政婦も要らない』と言っていたはずなのに。
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
427
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる