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◆ 第1章

9. キラキラの後ろ側 後

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「お金が、必要なんです」
「お金……?」

 チラシを仕分ける手が自然と止まる。翔との間に依頼と報酬の約束がある以上、本来なら勝手に手を休めることは許されない。だが美果の動きが止まっても翔は何も言わなかった。

 美果の手は動かなくなったが、口はちゃんと動く。

「私、二歳年上のお姉ちゃんがいるんですけど」
「……病気なのか?」
「ああ、いえ……その、むしろ逆というか……ある意味では病気というか」

 お金が必要で、姉がいる、といえば、普通はそう考えるのかもしれない。高額な医療費がかかる姉妹のために献身的に働いて、どうにか治療代を稼ぐというドラマのような状況を思い浮かべるのが一般的なのかもしれない。

 だが違う。
 美果の姉は、真逆なのだ。

「浪費家なんです、信じられないぐらい」
「は?」

 美果の端的な説明に、翔が驚愕の表情で間抜けな声を出す。その感情豊かな仕草を見ていると、情けなさのせいで笑えてきてしまう。

「私、お父さんとお母さんがいなくて。今の家族は足が悪くて施設に入っているおばあちゃんと、どこで何をしているのかわからないお姉ちゃんだけなんです」

 今の美果にとって『身内』と呼べる存在は二人だけ。

 頭は比較的はっきりしているが足が悪くて一人では自由に動けない、心優しい大好きな祖母の静枝しずえ。そしてろくに働きもしないのに好きなものを好きなだけ買っては、男の元を自由に渡り歩いている姉の梨果りか。この二人の存在が、美果を取り巻く金銭事情、生活環境や労働状況に直結している。

「中学のときに父が事故で亡くなってるんですけど、そのときに下りた保険金は難病を患っていた母の治療費に充ててしまって。その母ももう他界してしまったんですが、母は保険に入ってませんでしたし、父の保険金ももう残ってません……」

 美果が中学一年生のとき、プロのカメラマンとして世界中を飛び回っていた父が交通事故で亡くなった。家族のために生命保険に加入していた父はいくらかのお金を残してくれたが、そのほとんどが進行性の難病を患っていた母の治療費に消えてしまった。

 美果も少しでも母の力になりたくて新聞配達のアルバイトを始めて援助したが、美果の高校入学とほぼ同時に母も父の元へ旅立った。

 もちろん両親を失った美果も悲しみに暮れた。しかし大学受験を控えていた姉、梨果の方が精神的に堪えたらしい。荒れた気持ちを整えられず受験に失敗した姉は、それまでの辛さの反動のように贅沢ばかりするようになってしまった。

 しかも高校卒業時にちゃんと就職したはずなのに、いつの間にか仕事を辞め、そのうちまともに連絡を取ることすらできなくなった。

「だから今は、おばあちゃんの施設利用料の補助と、お姉ちゃんが作った借金を返すことに必死で……」
「待て待て、おかしいだろ。姉が作った借金は姉が返すべきじゃないのか?」
「そう、なんですけど……」

 翔の言いたいことは十分わかる。静枝が入所している施設利用料はともかく、梨果の借金は美果の責任ではない。姉が遊んで作った借金は姉が返すべきというのは当然の意見だ。けれど。

「実はお姉ちゃんの借金、おばあちゃん名義のクレジットカードなんです。だから法律的には、おばあちゃんが借金してることになってて……」

 祖母の静枝は、夫である美果の祖父が亡くなってからも自分の金銭は自分で管理していた。そのため息子である美果の父の『便利だぞ』との薦めを受けて、いくつかのクレジットカードも所持していた。

 梨果はそれに目をつけたらしい。静枝の施設入所の慌ただしさに乗じていつの間にかカードをくすねた梨果は、美果がまったく関知していないうちにとんでもない金額を使い込んでいたのだ。

「心配をかけたくなくて、お姉ちゃんの借金のことはおばあちゃんに言ってないんです。だからお姉ちゃんが返せないなら、私が返すしか……」
「……」

 こんな情けなくて恥ずかしいこと、本当は翔には知られたくなかった。美果に落ち度がないとはいえ、身内が抱える金銭の問題など誰にも知られたくないに決まっている。

 けれどこれが、美果が三つもの仕事を掛け持ちする本当の理由だ。

「そのカード、ちゃんと解約したのか」
「残債が多いので、今はまだ解約してないです。でも姉からは全部取り上げました」
「……そうか」

 翔もこの状況を案じてくれたらしい。一番最初にすべき『元を断つ』という対処法は講じていると告げると、ほっと安堵のため息をついた。

「普段は縁遠いですけど、親戚になにをしているのかと聞かれたときのことを考えて、社会保険と福利厚生がしっかりしている清掃会社に就職しました。ただそれだけじゃ足りないので、夜はキャバクラのお仕事を……」
「さっき言ってた、新聞配達ってのは?」
「中学の頃からアルバイトをしていたので、その流れでずっと続けてて……」
「はあ?」

 翔の質問にぽつぽつと答えると、それまで神妙な表情をしていた翔が突然怒りに満ちた声を出した。びくっとして顔を上げると、チラシの前に座り込む美果の隣で仁王立ちになった翔が、怒りに満ちた表情で美果を見下ろしていた。

 下から見上げてみると本当に足が長いな……と呑気なことを考えている場合ではなく。

「お前、やっぱり馬鹿なのか? そこは真っ先に切って、寝るか楽に稼げる別の仕事の時間に充てるべきだろ」
「だ、だって……! 新聞屋さんのご夫婦にはずっとお世話になってるんですよ!?」
「義理で腹が膨れるか!」

 確かに新聞配達のアルバイトは、曜日や天候に関わらず毎日決まった時刻に必ず新聞を届けなくてはならない仕事である。だがその大変さに引き換え、労働できる時間が短く仕事に対する報酬の単価も低い。つまりまったく稼げない仕事なのだ。

 ならば翔の言うとおり、その時間は別の使い方をした方が有意義だと言える。いくら中学生のときから十年も雇ってもらい随分世話になっているとはいえ、社会人になった今も続けているのはあまりにも効率が悪い。

「お前、馬鹿なのか頭がいいのかどっちなんだ。非合理的にもほどがあるぞ」

 翔が怒りを通り越して呆れたように美果を詰るので、ついついむっとしてしまう。

 だが翔は頭ごなしに美果のやり方を否定したかったわけではないらしい。彼は彼なりに、美果の身を心配してくれているのだ。

 その証拠に責めの言葉と表情をしまい込んだ翔は、美果の前にしゃがむと心配そうに顔を覗き込んでくる。いつものきらきらでも尊大な様子でもない、珍しく悲しげな表情だ。

「……身体も売ってるのか?」
「いえ、それは絶対にしません」

 翔がぽつりと問いかけてきた言葉は、即座に否定する。

 彼は美果が『最終手段』ともいうべき道に足を踏み入れているのではないかと考えたようだが、それだけはしないと決めている。美果の身体は、正真正銘清らかなままだ。

「天国の両親やおばあちゃんが悲しむことだけは、絶対にしないって決めてるので」
「そうか、いい心がけだな」

 美果の答えに、翔が安心したように微笑む。その表情は演技や義理などではなく、美果の決意を知って心の底から安堵する彼の本心のように思えた。

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