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◆ 第1章

8. キラキラの後ろ側 前

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「フロアの北側は来客用のスペースで普段は使わない場所だから、専門の清掃業者を入れてる。お前が掃除するのはこっちの南側、俺の生活スペースだ」
「な、なるほど……?」

 翔の説明に一応は頷いたが、本当は全然納得していない。

 それはそうだろう。見上げるだけで首が痛くなりそうなほど高く、足を踏み入れるのも躊躇うほど豪華で、一人ではエントランスすら通過できないほどセキュリティが堅牢なマンションの上階ワンフロアが、すべて翔のものだなんて。最上階じゃないからと言われても、使っているのは半分だけだと言われても、それなら大丈夫ですね! となるはずがない。

(私は馬鹿です……高額報酬に目が眩んだ愚か者です……)
 
 今になって激しく後悔している。仕事中に急に捕縛されたせいで判断力が働かなかったとはいえ、『報酬に十万円支払うから俺の家の掃除をしてほしい』との言葉に安易に乗ってしまったことを。

 それでも引き受けてしまったからにはやるしかない、とこうして清掃の仕事の休暇日に翔のマンションを訪れてはみたが……

「き、きたない……!」

 想像以上に物で溢れた部屋に、ついポロリと本音が出てしまう。

 せっかく東京湾沈没ルートを回避したというのに、うっかり本当のことを口にしてしまっては山林生き埋めルートに突入するかもしれない。

 慌てて自分の手で自分の口を塞ぐと、隣にいる翔の表情をちらりと確認する。だが聞こえていなかったのか、それとも聞こえていてスルーしたのか、翔は部屋の案内をそのまま続けてくれた。

 どうやらきらきら御曹司、掃除が大の苦手らしい。リビングには服が脱ぎっぱなし、乾いた洗濯物は畳まず置きっぱなし、家電の周りは埃が被りっぱなし。さらに投函される広告なのか、それとも仕事の資料なのかわからない紙類があちこちに散乱放題。ゴミ箱もゴミであふれ返っている。

 幸い自動洗浄と抗菌機能が働いているためかトイレや洗面所はさほど汚れていないが、戸棚には絶対にもう使っていないだろう歯ブラシが何本も刺さっているし、脱衣所の床には使用済みの洗顔料やシャンプーの容器が転がっている。

(トイレットペーパーの芯、トイレの窓枠に並べる必要ある?)

 ゴミ箱に捨てればいいだけなのに、とため息を吐く。

「あの、なんで脱いだ服を床に置くんですか?」

 部屋の案内が一通り終わったようなので、片付けに取りかかる前に訊ねてみる。すると美果の質問に瞠目した翔が、不思議そうな表情で首を傾げた。

「ソファに置いたら座れなくなるだろ?」
「ソファに置かずに洗濯籠に入れて下さいよ」

 美果と翔は、そもそも掃除や片付けというものの概念が異なるらしい。一応ツッコミは入れたがそれ以上のアドバイスはやめておいた。きっと、するだけ無駄だ。

 倉庫の戸棚を開けると洗剤やスプレー、雑巾やスポンジといった掃除用具が一通り揃っていたので、それらを引っ張り出すと持ってきたエプロンを身に着ける。

 なぜかほとんど綺麗なキッチン以外は全ての部屋に掃除が必要なので、これは根気のいる作業だ。

 リビングに散らかった服を洗濯機の中に放り込んで床にスペースを作ると、片っ端から紙類の仕分けをしていく。

 翔はその様子をじっと眺めるだけで、特に手伝うわけではない。もちろん美果は掃除の対価をもらうことになっているので、彼が手を出さないこと自体は一向に構わない。

 だが作業の様子をずっと見られているのは気になる。なんだか、ここ最近の仕事中に監視されているときと同じ感覚だ。

「天ケ瀬部長、一人暮らしなんですよね?」
「ん?」

 翔の観察するような視線にどうにも集中力を削がれるので、どうせならばと気になっていたことを質問する。

「こんなに広い部屋、必要ですか?」
「狭いと息が詰まるだろ」
「……」

 きっぱりと言い切った翔の言葉に黙り込んでしまう。

 数日前に翔から事情を聞いたとき、美果は彼の生き方を『息が詰まりそうだ』と思った。完璧を目指す姿は強くて凛々しいが、彼が背負う重圧と責任はあまりにも大きく、自分を偽る姿は少しだけ寂しそうだと感じていた。

 だが翔本人は、自身の生き方よりも狭い空間に物理的な息苦しさを感じるらしい。感覚が違うわけだ、とひとり納得する。

「そういえばお前、なんで仕事二つも掛け持ちしてるんだ?」

 美果が雑談をしながらでも手を動かせることに気づいたのか、翔がふとそんな質問をしてきた。

 翔が美果個人に興味を持つとは思ってもいなかったので、少しだけ意外だと思いながらも、先に彼の認識を否定する。確かに美果は二つの仕事をする姿を翔に見られているが、実はそれだけではない。

「二つじゃなくて、三つです」
「は……?」
「早朝に新聞配達のアルバイトをして、終わったら清掃のお仕事、少し休憩したら夜はキャバクラで働くサイクルです」

 美果の説明を聞いていた翔の表情がどんどん曇っていく。死にもの狂いで働いているという美果の申告に、同情でも憐みでもなく単純に『理解が出来ない』という表情だ。

「それ、いつ寝てるんだ?」
「夕方ですね。あとは、シフトが入ってない時間に寝だめしてます」
「……道理でいつも顔色が悪いわけだ」

 はじめて会話をしたときのことを思い出したのだろう。そういえば紳士服専門店の男性に仕事の邪魔をされたとき、表情を確認した翔に『顔色が悪い』と指摘されていたのだった。

 美果の様子をちゃんと覚えている事実に驚く反面、いつも顔色が優れないことまで観察されていたことは少し恥ずかしいと思う。

 キャバクラの仕事のときは比較的厚いメイクをしているのでどうにでも誤魔化せるが、清掃の仕事中はナチュラルメイクだ。そのせいで体調まで見抜かれているなんて。もっとちゃんとしなければ……と内心反省していると、翔が更に質問を重ねてきた。

「なんでそんなに働く必要があるんだ?」
「……」

 それは仕事を三つも掛け持ちしている、と聞けば、誰もが当然のように持つ疑問だろう。

 本当は、答えたくなかった。

 自分の状況を言葉に出して再認識したくないし、天ケ瀬グループの御曹司という恵まれた環境に身を置く彼に、このみじめな状態を知られたくない。隠せるものなら、隠したままにしておきたかった。

 けれど視線を上げて翔と見つめった瞬間に思い出す。

 無理強いして聞き出したわけではないが、美果は彼の本音を知っている。彼がなにを背負い、なにを思い、なにを覚悟して天ケ瀬グループを導いていこうとしているのかを、今の美果は理解しているのだ。

 本当は彼も本音を覆い隠していたかったはず。自分の本性や本来の姿を誰にも知られずにいたかったはずなのだ。

 しかし美果は偶然にも――いや、『平和な日常を継続したい』という感情だけで、彼の気持ちを聞き出してしまった。翔の秘密を暴いてしまったのだ。

 ならば美果も本当のことを話さなければフェアじゃない。

 もちろん真実を報告する義務はないが、不思議と翔になら話してもいいと思えた。彼に自然と心を許せたことが、自分でも少しだけ意外だった。

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