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◆ 第1章

6. 捕縛されまして、運の尽き 前

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 美果が働いている夜の店に翔がやってきた日から、約十日。翔はあれから一度もLilinを訪れていない。

 接待で連れて来られただけで最初から自分の意思でやってきたわけではないのだから、もう『さやか』として会うことはないだろう……という美果の予想は、当たっていたようだ。

 それに夜の仕事だけではなく、昼間に天ケ瀬百貨店で掃除の仕事をしているときも翔に遭遇することはない。

 だがそもそも、彼は本社の営業本部長。毎日のように店舗へ足を運んでくるわけではないので、なかなか会わないのは当たり前といえば当たり前である。

(すごく怖かったけど、会わなかったら全然問題ないもんね)

 と、安堵の息を零しながらフロアとバックヤードを繋ぐスタッフ専用出入口の扉を開ける。そこから従業員用の休憩室に向かうつもりでいた美果だったが、ふと扉を開いてすぐの場所に、フロアへ出ようとしている男性が立っていることに気がついた。

 通行の邪魔をしてしまった、と考えつつ慌てて横へ避ける。ついでにちゃんと目を見て謝罪をするつもりだったが、視線をあげて相手の顔を見た瞬間、思わず悲鳴が出そうになった。

「……!? っ――!」

 突然叫び出す怪しい人になりたくなくて、理性と根性をフル動員させてどうにか絶叫を押さえこむ。

 しかし制服の一つである帽子の鍔を下げて顔を隠すという、無意識の行動までは止められない。おかげでさわやかな笑顔で「お疲れさまです」と声をかけてきた相手――偶然店舗の視察に来ていた天ケ瀬翔の軽やかな挨拶に、ほんの一瞬だけ反応が遅れてしまう。
 しかも。

「おしゅかれさまです……っ」

 噛んだ。必要以上に翔の視界に居続けたり記憶に残ったりする前にさっさと立ち去ろうとしたのに、平静を装うどころか動揺のあまり思いきり噛んでしまった。

 その舌足らずな言葉と動揺する姿は翔の目にも不審に映ったらしく、黙り込んだ彼の真横を通過する瞬間、手首をぱしっと掴まれた。

「君、ちょっと」
「えっ、な、なに……っ!?」

 掴まれた腕をグイッと引っ張られた瞬間、先日きつく睨まれて『どうなるかぐらいわかるだろ』と警告を受けたことを思い出す。

 翔の言葉を思い返すと身体が勝手に硬直する。あのときも迫力がある声と表情のせいで、稀代のイケメンからの壁ドンという状況にときめくことすらできなかった。そのぐらい、怖かったのだ。

 だからこの場からもすぐに離れたかったのに、視線からも腕を掴む力からも逃れられず、帽子の鍔をクイッと持ち上げられて顔をばっちり確認されてしまう。

 美果の素顔を確認した瞬間、翔が一瞬息を飲んだ気配がした。

「……やっぱり。お前、あのときのキャバ嬢だろ」
「え……あ、あの……」
「どっかで見たことあると思ったら、うちの店かよ」

 バレた。バレていた。

 確信こそ持てていなかったようだが、やはり翔は美果の存在に違和感を抱いていたらしい。あの夜『どこかで会ったことがあるか』と聞かれたときから何か感づいているのかもしれないと思っていたが、案の定彼は美果の素性を疑っていたようだ。

(終わった……沈められる……)

 東京湾に。

 どうしよう、泳ぐのはあんまり得意じゃないんだけれど、と動揺と恐怖のあまり的外れなことを考えていると、さらに腕を引っ張られて再び壁に追い詰められた。

 壁ドン二回目。だが前回と同様、全くときめかない。

 それどころか何を言われるのだろうと身構えるあまり、顔も上げられない。下げた視界の端に映る翔の革靴から、互いの身体の位置が近いことはわかるが、翔の表情は一切わからない。以前と同じ冷たく低い声が、緊張で身を固くする美果を探り始める。

「余計なことは言ってないだろうな?」
「な……なんのことでしょうか……?」
「なんのこと? しらばくれても無駄だ」

 ため息混じりの質問に質問を返すと、翔がムッとした表情で美果を責めてきた。その口ぶりは裏社会の取引現場を目撃してしまった相手を尋問するかのよう。どうしてだろう、美果は何も悪いことをしていないのに。

 沈黙する美果に対し、翔が大失態を犯したように天井を仰ぐ。

「はぁ……最悪だ。まさか委託の清掃員に見られるとは」
「あ、あの……?」
「いいか、とにかく余計なことは言うなよ」
「……」

 翔の態度に――だんだん、腹が立ってきた。

 まず翔の言っている『余計なこと』の意味がわからない。何か知られたくないことがあるのは把握できるが、それが何を示しているのかがわからなければ、気をつけようもない。

 さらに美果には翔の気分を害するつもりなんて一切ないのに、あたかも美果が翔の秘密を他人に触れ回るような言い方ばかりされている。

「お前さえ変なことを言わなきゃ……」
「あの!」

 なぜ他者の秘密を口外するという疑いをかけらなければならないのだろう。美果はただ普通に仕事をしたいだけなのに、なぜいつやって来るのかもわからない翔に怯えなければならないのだろう。

 そう思ったら、無性に苛立ちが膨れ上がってきた。

「その余計なこととか、変なことって、一体なんなんですか?」
「……は?」

 偉そうに指図される筋合いはない。

 もちろん翔は本社の営業本部長なのだから、実際に偉い人なのはわかっている。しかしだからといって、ちゃんと仕事をしている美果を仕事とは関係のないことで叱責する権利まではないはずだ。翔の勝手な想像で美果の行動を決めつけ、先回りして必要以上に注意されるなんて、絶対におかしい。

 そう思ってしまったら『一言言い返してやりたい気持ち』が『ただ平和に仕事をしたいと思う気持ち』をほんの少し上回った。否、平和に仕事をしたいからこそ、今ここで自分の意思をしっかりと示しておくべきだと思った。

「天ケ瀬本部長が何を口止めしたいのか、私には意味がわかりません。貴方は何を知られたくないんですか?」

 だから平和な日常のために、せめてその『知られたくないこと』『秘密にしてほしいこと』がなんなのかぐらい教えてほしい。なにもわからない状態では『絶対に言いません』と約束することすら出来ないのだから。

 美果の反撃に目を丸くする翔だったが、数秒ののちに我に返ると、また眉間に皺を寄せて不機嫌な表情になった。

 相変わらず造形は見惚れるほどに美しいが、その反動のせいか怒りを露わにした表情はやっぱり冷たくて怖い。ビジュアル系極道、と言われたら納得してしまいそうだ。もちろんこれ以上彼の機嫌を損ねたくはないので、それこそ余計なことを言うつもりはないけれど。

 翔が、はぁ、と盛大なため息を吐く。
 それから、

「お前、馬鹿じゃないと思ってたが、やっぱり馬鹿なのか?」

 と失礼すぎる言葉を吐き捨てる。

 至極面倒くさそうな表情の翔だったが、それでも美果に説明してくれる気にはなったらしい。もう一度小さく息を吐くと、むうっとする美果に対して「いいか」と短い前置きを零す。

「俺はいずれ、天ケ瀬グループの〝すべて〟を背負うことになる。本社の社員だけじゃなく、店舗で働く従業員やアルバイト、お前みたいな委託の業者、取引先――その家族。そう遠くないうちに、俺はこの天ケ瀬に関わるすべてに対しての責任を負うことになるんだ」
「……」

 翔の真剣な説明に、ごくりと息を飲む。

 確かに、それはそうだろう。組織の頂点に立つ者は、その規模と比例するように数多くの人生も背負うことになる。他人の人生を背負う覚悟がない者に、大きな会社を継ぐことは到底不可能だ。

「上に立つ人間は良くも悪くも周りに注目される。必要以上に関心を向けられて、他人からの善意も悪意も全部一人で受け止めなきゃならない。まして老舗の百貨店……古くから守り続けてきたイメージが何よりも重視される。業界からも顧客からも、な」

 ぽつりぽつりと、小さな声で――けれどはっきりと語るその口調は、彼の秘めた決意のように思えた。

 美果を含めた周りの者は、翔を『御曹司』『跡取り』と十把一絡げに扱うが、その裏に隠された責任の重さや苦労、辛さや孤独は、きっとのうのうと生きている一般人には計り知れない。経営のことは元より、天ケ瀬グループの御曹司である彼が背負っているものの大きさなんて、美果には何もわからないのだ。

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