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◆ 第1章

3. 夜のお仕事

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 天ケ瀬百貨店東京で夕方までの勤務を終えた美果は、一旦帰宅して二時間ほど仮眠を取ると、すぐに次の職場へ出勤する。

 都内屈指の繁華街・六本木の一角に店を構えるクラブ『Lilin』はいわゆる『キャバクラ』である。しかし大きな会社やテレビ局といった有名企業が多いためか、どの店で働く女性も美しく気品があり、来店する客側も穏やかで紳士的な人が多い。

 美果が勤務するLilinでも当然のように性的な触れ合いや悪戯は厳禁で、所属するキャバ嬢が嫌がることをした場合はどんな客でも容赦なく退店を促される。そのため一応は水商売であるものの、美果としては比較的安全な環境で仕事が出来ていると思っている。

 いや、安全な仕事だと思っていた。
 今日この夜を迎えるまでは。

「いらっしゃいませ、Lilinへようこそ……」

 いつも指名を入れてくれる常連客・上山かみやまの席に近づいた美果は、そこにいた人物の姿を見て思わず凍りついた。

(あ、あっ……天ケ瀬御曹司さまぁ~……!?)

 突然出現した天ケ瀬御曹司こと天ケ瀬翔に、思わず後退りしてしまう。なんでここに……!? と口にしそうになった言葉をすんでのところで飲み込むと、どうにか頑張って笑顔を浮かべる。

「よ、ようこそお越し頂きましたぁ。本日もご指名いただきありがとうございます~」

 挨拶とお礼を口にすると、美果の困惑に気付いていない四十代後半の常連客・上山がうんうんと頷いた。明るく気さくな上山の表情を確認すると、妙な緊張感を覚えながらその隣におそるおそる腰を下ろす。

 一緒に席についてくれた後輩のキャバ嬢はやってきた翔の美貌にずっと釘付けになっている。だが美果は変に緊張してしまい、どうにも視線を上げられない。

 視線を斜め下に落としたまま上山と彼の部下の小野田おのだ、そして翔の飲み物を用意していると、ふと男性たちが雑談を始めた。

「天ケ瀬くんのおかげで我が社は来季も安泰、本当にありがたい話だ」
「さぁさぁ、天ケ瀬部長。ここはうちが持ちますから、どんどん飲んで下さいね」
「ああ、はい……ありがとうございます」

 人の良さそうな笑顔を浮かべる翔と、上機嫌に翔を持ち上げる上山と小野田の会話内容から、美果が働く店に彼が突然現れた理由を理解する。

(な、なるほど……接待かぁ)

 営業本部長である翔は、三十一歳という若さで天ケ瀬グループの取引先を決定するという重大な権限を持っている。天ケ瀬百貨店と契約したい企業にとっては、翔を持ち上げて優遇することは業績に直結することと同義で、それはおそらく上山と小野田にとっても例外ではないのだろう。

 上山は飲食業界の重役で小野田はその腹心だと聞いているが、会社員というのもなかなか大変な仕事なのだろう。

 と、感心している場合ではない。今の美果に、人の心配をしている余裕などないのだから。

(……バレてないよね?)

 内心びくびくしながら、平静を装ってグラスにシャンパンを注ぎ続ける。

 天ケ瀬百貨店東京で清掃の仕事をしているときの美果は、白いポロシャツにベージュのズボン、髪をまとめて指定の帽子とエプロンを身に着けただけのごくごく地味なスタイルだ。正直自分でも、一緒に働いている五十代後半のおばさまと見分けがつかないと思っている。

 しかしキャバレークラブで働くときのはまったくの別人。背中まである髪を少しだけ巻いて後ろに流し、ぱっちり持ち上げたつけまつ毛にきらきらアイシャドウとつやつやリップのお嬢様風メイク。水色のドレスは肩が少し露出しているものの、膝丈のふんわりとしたシルエットが可愛い清楚系。

 自分で言うのもなんだが、どう考えても清掃の仕事中とはまったく別の人間に変身している。

「上山さま、お飲み物どうぞ」
「おお、ありがとう。さやかちゃんは気が利くねぇ」

 さらに名前も、本名とは異なるものを名乗っている。これは美果に限らず他のキャバ嬢も同じで、プライバシー保護や防犯のために個人情報を極力出さないようにすべき、というのが店の方針だ。

 上山の言葉に翔がピクリと反応する。

「さやかちゃん?」
「はい♡」

 声を掛けられたので、内心『う……』とたじろぎつつ、どうにか満面の笑みで振り返る。

 さらに夜の仕事をしているときの美果は、話し方や振る舞いまで普段とは全く別の人物を装っている。美果自身、元々前向きで明るい性格だと思ってはいるが、Lilinに勤務している時間はそれ以上に愛想が良くて愛嬌があって気が利いて、とにかく笑顔を絶やさない明るさを心掛けているのだ。

 ついでに少々、客に媚びるような猫なで声も出している。真顔で「は?」というときの顔が本気で嫌そうに見えて面白すぎるから、少しやりすぎなぐらいぶりっ子しとけ、というのが店長命令である。

 だから擬態は完璧。まして今朝たまたま数分話しただけで、本来ほとんど接点のない美果の顔を覚えているはずがない。

 そう思っていたのに、翔の疑問の表情はますます深まっていく。何かを、疑っているように。

「……どこかで会ったことあるかな?」
「え~? どこででしょうか~?」

 翔の不思議そうな声を聞いて背中に変な汗をかきつつ、もう一度にこりと笑顔を返す。

 もちろん美果は悪いことをしているわけではない。清掃会社であるクリーンルーム高星では副業を禁じられていないし、夜に別の仕事をしていることはしっかりと申請している。だから翔に知られたところで問題はないが……それでもやっぱり知られたくない。

 面倒なことは避けたい。特に美果が副業までしてお金を稼ぎたがっている事情は知られたくない。翔のような大企業の御曹司で、社会的に成功している人に美果の事情は絶対に理解できないと知っているから。

「天ケ瀬さまは天ケ瀬百貨店の部長さんなんですよね~? じゃあお店で会ったことあるのかなぁ♡」
「さやかちゃん、天ケ瀬部長は本社にお勤めなんだから、お店で会うことはないと思うよ?」
「あ、そっか。私ったらかんちがーい!」
「……」

 だから多少やりすぎなぐらい、天然っぽくて明るく親しみやすいキャラクターを装う。もちろん自分でもかなり痛いし寒いな、とは思っている。だがこれはこれで客には受けがよかったりするので、今はもうこのスタイルを貫くしかない。

 それに隣に座っている後輩なんて、美果よりももっと手の込んだ演技で客に接している。もちろんお互いにそれを知っていても指摘しないし関知しないのがここでのマナーだ。人にはそれぞれ仕事のやり方があるし、手を変え品を変え来客に居心地の良い時間を味わってもらうのがキャバ嬢の仕事。日々の疲労や苦労から客を癒すのが、ここで働く女性たちの役目なのだ。

「そっか、変なこと聞いてごめんね」
「いえいえ、大丈夫ですよ~」

 そしてその演技や気遣いに気づいてしまっても、あえて気づかないフリをするのが紳士のたしなみである。品のない客や意地悪な客だとわざわざ指摘してくることもあるが、六本木というこの街では無粋な言動を繰り返す男性は異性にも同性にもモテないものだ。

 翔が引いてくれたことを感じて胸を撫で下ろすと、いつものように上山の言葉巧みなトークとそれにツッコミをいれる小野田の軽快なやりとりが始まる。

 美果も翔も後輩のキャバ嬢も二人のやりとりに終始笑っていたが、ちらりと見た翔の目の奥にはどこか冷めた印象があった。


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