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◆ 第5章
32. 予覚 ~妻の恋心~(将斗視点)
しおりを挟む言葉には魂が宿る。言霊というやつだ。たとえ嘘であったとしても、一度でも声に出してしまえば、それはいずれ大きな力を持って元の場所へ戻って来る。
将斗はその言霊の力に期待した。七海に『将斗さんが好き』と言わせれば、自分で口にした言葉が巡り巡って七海の元へ戻り、彼女の心が本当に将斗に向かうことを願った。
七海の弱い場所を責め立てながら、望む言葉を言わせようとする自分の腹黒さに呆れつつ――けれどそれで彼女が手に入るのなら構わないとも考えた。それがずるいとも、卑怯だとも思わなかった。
だが将斗は結局、七海に嘘をつかせてまで『好き』と言わせることを直前で取り止めた。腰を揺らして七海を啼かせることも止め、お互いに気持ち良かったはずの行為を強引に中断した。
理由は至ってシンプルだった。七海に嘘をつかせてまで『好き』と言わせる必要がなくなったからだ。
快楽に溺れながら将斗の身体に手を伸ばし、首に腕を絡ませて必死に抱きついてきたときの七海の表情は、将斗が何度も妄想して幾度となく夢に見た『自分に恋に落ちた七海の姿』だった。
顔を赤く染めて、熱に浮かされた表情で将斗をじっと見つめ、音にならないまでも唇が『すき』と動いたのを間近で確認した瞬間、将斗は七海の心を完全に手に入れたと確信した。
だからあの場で『言わせる』ことを止めた。
過去の恋人たちにはそれほどでもなかったはずなのに、将斗に対してだけ異様にガードが固い。そんな七海に『あの時は言わされただけなので』という理由を与えたくなかった。七海に逃げ道を作ってしまうと、彼女が自分の恋心を認めて自分から『好きです』と言ってくれる日がまた遠退く気がしたのだ。
もちろん、本当は聞きたかった。七海の口から愛の言葉を聞きながら一緒に果てることが出来れば、これ以上ない快感を得られるはずだった。
けれどここでちゃんと我慢ができれば、七海が自ら『好き』と言ってくれたときに、この何十倍も何百倍も深くて強い幸福を感じられるだろう。だからあの場では、なけなしの理性をかき集めてどうにか踏みとどまった。
ただし極限の我慢の代償に自分でも引くほど険しい顔をしている自覚があったので、七海をうつ伏せにして自分の顔を見せないようにはしたけれど。
「社長」
コンコンとノック音が聞こえたので返事をすると、一声かけてから入室してきた七海が将斗に向かって会釈する。
秘書としての七海は身だしなみも姿勢も完璧に整っていて、いつ見ても惚れ惚れするほど美しい。この女性が自分の妻になったのだと思うと、その度に心の中で舞い上がってしまう。露骨に浮かれると七海が怪訝な顔をするので、最近はあまり顔には出さないようにしているが。
「お車の手配が整いました。十五分後にエントランス前と伝えてありますので、準備を終えましたら下に降りましょう」
「ああ、さんきゅ」
「みのり不動産は駐車場がありませんので、運転手には離れた場所で待機して頂きますね。商談が終わりましたら、紀本さんに直接連絡をお願いします」
「ん。わかった」
七海の説明を受けながらジャケットに腕を通す。
季節は九月初旬。実際はまだ上着が要らないほど暖かい気温だが、取引先に出向くのに上着を着ないわけにはいかない。しぶしぶネクタイを締め直していると、入り口に立ったままの七海が、手にしていたタブレット端末を操作しながら「それと……」と別の用件を伝えてきた。
「晴凛大学建築学部の高倉教授から、年末に開催される講演会の案内が来ておりました」
「いつ?」
「十二月二十三日ですね。土曜日です」
「ならいいや。不参加の連絡しておいてくれ」
「かしこまりました」
七海の報告を聞いてすぐに己の意思を伝えると、彼女もタブレットを操作しながら淡々と返答してきた。が、その動きが途中で止まる。
「よろしいのですか? 高倉教授、会長の親しいご友人なのでは?」
鏡の前で身だしなみのチェックをしていた将斗の傍に近付いてきて、少し声量を落として問いかけてくる。この確認は『秘書』としてではなく、将斗の『妻』としての確認らしい。
その配慮を微笑ましいと思いつつ、将斗の返答は「別にいい」の一言だった。
「クリスマス前だろ。七海と過ごしたい」
「!」
将斗が自分で確認したわけではないが、先ほどの七海の言葉が本当なら、今年のクリスマスイブは日曜日だ。愛する妻と過ごすクリスマスの週末を、さほど興味のない長話に使うつもりはない。
「それに、柏木家に挨拶に行かなきゃな」
しかも将斗には、ただ七海と聖夜を過ごすだけには留まらない大事な用件もある。去年、七海と急遽結婚したときもクリスマスシーズンだった。ということは、七海の両親と約束した『期限』の時期がやって来るのである。
「約束の一年だ。七海の両親に、七海との結婚を継続するつもりだと伝えなきゃいけないだろ?」
「……」
将斗の明確な宣言に、七海の動きがぴたりと停止する。わかりやすく困惑するその様子に、内心苦笑いしてしまう。
「もし……そのときになっても、私があまり乗り気ではなかったら……?」
将斗に対してツンデレな態度をとることが多い七海だが、彼女は意外と素直な性分だ。考えていることは顔に出やすいし、疑問の表情の直後にそれを率直にぶつけてくる。その正直さが七海の美点だと知っている将斗だが、内容には少なからず衝撃を受けた。
将斗は七海の表情や行動、言葉や仕草から、彼女の考えていることをある程度読み取ることができる。だから将斗が『好きだ』と言葉にして明確に思いを伝えて以来、明らかに自分を意識しているとも――本当は彼女も自分と同じ気持ちであると、心のどこかで確信していた。
なのにここにきて『乗り気ではなかったら』という仮説。一応、言葉は選んでいるようだが、それは『嫌だ』という意思表示なのでは? と思ってしまう。
七海の心の中に恋の気持ちが芽生えているのは間違いない。恋する女性の表情はいつだってきらきらと煌めいていて、花のように可憐で、見惚れるほどに美しい。七海の様子を誰よりも注意深く観察している将斗が、そのわかりやすい変化を見逃すはずがない。
(まさか七海が好きなのは、俺じゃない? 他に好きな奴がいるのか……?)
ならば当然、七海の中にいる相手は自分のはずだった。自分以外が七海の心の中にいるとは――結婚して、明確に気持ちを伝えて、絶対に手放す気はないと伝えているにも関わらず、他の相手がいるなんて信じたくはない。認めるつもりもない。けれど……
(いや、違うな)
将斗と目が合った七海が、一瞬惚けたような顔をする。その後ふと我に返ってそっと顔を背ける。そんな一連の仕草を見ていた将斗は、自分の予覚が誤りではないと確信する。
七海の心の中にいるのは、間違いなく将斗だ。他の相手なはずがない。
仮に七海が別の相手を想うようなことがあれば、その人物は力ずくでねじ伏せて、物理的にも社会的にも七海の前から消えてもらうつもりだ。が、そんな相手は存在しないと将斗にはわかる。
(自覚がない、のか)
どうやら七海には、将斗が好きだという自覚がない。これまで四年以上将斗の秘書を務めてきたせいか、『上司に恋愛感情を抱くこと』に普通の恋愛よりも高いハードルを感じているらしい。
無意識のうちに分厚く頑丈なバリケードを張って、ビジネスパートナーと不埒な関係にならないことを徹底している。だから将斗に対する恋愛感情を自分でも認識できずにいる。七海が有能な秘書であるがゆえの弊害だ。
つまり素直になるとか、好きだと言わせるとか、それ以前の問題なのだ。慎介から受けた傷はかなり癒えているように見受けられるし、それ自体はいい傾向だと思うが、将斗に対する感情云々はまた別問題なのである。
ということは、まずは七海の認識を改めるところからスタートさせなければならないだろう。
半年で諸問題をすべて片付けられて、本当によかったと思う。あれ以上慎介との決別、そして秘書課内での立ち位置や職場環境の問題が長引いていたら、七海の『恋心』を変えて自覚させる時間が足りずに、一年の期限を迎えてしまうところだった。そう思えば、猶予があるだけ手の尽くしようがある。
「七海。何度も言うが、俺は絶対に離婚するつもりはない」
「え? ……っと?」
「期限がきても七海が俺を好きになってくれてないなら、柏木家には延長を願い出るだけだ」
選択肢は偽装結婚の延長か本物の夫婦として婚姻関係を継続するかの、二択のみ。終了というカードはない。――将斗がはっきりとした口調で宣言したことの意味は、ちゃんと伝わったらしい。
七海が頬を薄紅色に染めて俯く姿を見て、頭の中で考えていた作戦がすべて弾け飛んだ。代わりに『かわいい』の四文字が脳内の九十九パーセントを占拠する。
「ちょ、社長……! まって、時間! 時間です!」
「少しだけだ、我慢しろ」
困惑する七海を捕まえてぎゅっと抱きしめると、腕の中の七海が突然喚き出した。その抵抗すら威嚇する子猫のようで可愛いと思ってしまう。
取引先の訪問時間なんて、正直どうでもいい。もう行くのやめてもいいだろうか……ダメか。だめだよな。
「ああ、でも……自分の気持ちを隠さなくていいのは、楽だな」
「え?」
「『好きだな』と思ったときに『好きだ』と言えて、『あぁ、可愛いな』と思ったときに『可愛い』と言えるのが楽……というより、こんなに嬉しいものなんだな、と思って」
七海の身体を抱きしめたまま、今の気持ちと考えを語る。将斗としては本心を素直に伝えたつもりだったが、対する七海の返答は「やめてください! 髪が乱れます!」と的外れな抗議だった。だから、その返答が可愛いんだって。
「もう! 将斗さんの意見は十分わかりましたから、仕事中はやめてください!」
「そうだな、善処する……だからあと三十分だけ……」
「善処、の意味! 辞書引いて下さいっ!」
おそらくもう五分もしないうちに一階のエントランスに社長専用車が到着するだろう。だが仕事中に『将斗さん』と呼んでくれたことが嬉しすぎて、表情が緩む。もう仕事どころではない。
それに前途多難な課題だと思っていたが、ここ最近、七海は仕事中のじゃれあいを『愛妻アピール』と言わなくなった。それだけで将斗の気持ちが伝わっているようにも、大きな進歩のようにも思える。
あと少し。将斗の気持ちが通じた今――将斗の『言霊』が七海の心に効力を発揮し始めたのなら、もう少しで彼女を完全に手に入れられるはず。
「残り四か月……か」
七海に自分の恋心を認めさせるまで。将斗への感情を自覚してもらうまで。
早く完全に落ちてほしい。心から『好きだ』と伝え合える関係に……七海と本物の夫婦になれるまで、あと少しだ。
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