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◆ 第4章

24. 優しい夫のお迎え

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「柏木さん、ちょっといい?」

 同じ秘書課の尾崎晴香に声をかけられたので、ビールのグラスに口をつけようとしていた動きを止めて顔を上げる。

 本日は新しく配属された社員の新人歓迎会を兼ねた、秘書課の定期交流会だ。

 年度が変わる前後は自社でも取引先でも経営体制や重役の顔ぶれが変わる場合が多く、秘書たちも皆、多忙を極める。そのため支倉建設の秘書課では四月とゴールデンウィークを避け、毎年五月の中旬頃に遅めの歓迎会を兼ねた課内の飲み会を実施しているのだ。

 場所は大型ショッピングモールの屋上で催されているビアガーデン。全員が出席するとテーブルは四つないし三つに分かれてしまうが、時折席を移動しながら各々の上司の愚痴を酒の肴にして盛り上がるのが、毎年の恒例となっている。

 屋上の人工芝生に並べられた丸テーブルの上には、大手ビールメーカーから直接卸されてくる生ビールと、新鮮な焼きたてソーセージと、定番のおつまみ。やや大きめの音量で周囲に響くロックナンバー。多少の雨も日差しも避けれる大きなパラソル。――夏が近づく気配を感じる。

 ビアガーデンの開放的な雰囲気が好きな七海は、例年と同じく今年の新人歓迎会にも参加していた。だが開始から二時間が経とうというところで、本日の幹事である晴香から意外なお願いをされた。

「落とし物を拾ったんだけど、これ、総合案内所まで届けてくれないかしら?」

 晴香のお願いに「え?」と首を傾げる。
 視線を下げると、彼女の手にはネコのキーホルダーがついた鍵が握られている。

(なんで私が……?)

 本日は晴香の他にもう一人、女性の後輩秘書も幹事となっている。だからもし不測の事態が起きたとしても原則幹事の二人で対処すべきだし、仮にどちらの手が塞がっていたとしても、七海に落とし物の届け出役を頼む必要はないと思う。確かに七海は晴香の一つ年下の後輩だが、飲み会には秘書課に所属する社員が、ほぼ全員いるというのに。

 そもそも、ビアガーデン内で見つけた落し物はビアガーデンの運営スタッフに渡せばいいのではないか。わざわざショッピングモール内の総合案内所まで届ける必要が感じられない。

「私、二次会の準備をしなきゃいけないから、忙しいの」

 しかし七海の顔を覗き込む晴香の表情はやけに高圧的だ。むっとした表情をされると、嫌だと言い出しにくくなってしまう。確かに彼女の言う通り、幹事はそろそろ一次会を締める準備と二次会を視野に入れた行動を開始し始めてもいい頃合だ。

「尾崎さん、いいわよ。私が行ってきてあげるから」

 晴香の顔を見上げて固まっていると、ふと同じテーブルに座っていた先輩の茅島裕美が席から立ち上がった。それを見て同じ席に座っていた智子が、

「いいえ、私が」

 と立ち上がる。

 その瞬間、七海は完全にこの流れが『茶番』であると理解した。

 そういえば席を移動するという恒例の流れが自然すぎて失念していたが、いま七海と同席している彼女たちは、つい数週間ほど前に七海に地味な嫌がらせをしてきた――と思われる――メンバーだ。

 さらに同じテーブルに座っている七海より後輩の秘書が『いいえ、私が』と言い出さないところにも作為的な意図を感じる。この中で一番年下の彼女が『ここは私が』と言い出してしまえば、一番年下の彼女が行かざるを得なくなってしまうからだろう。きっとこの三人から口裏を合わせるよう、事前に言い含められているのだ。

(……ばかばかしい)

 にこにこと笑顔を浮かべているが、目が一切笑っていない裕美の表情からすべてを察する。

 おそらく彼女たちは七海を除け者にする間、七海の悪口で盛り上がるつもりなのだろう。その時間を確保するためにビアガーデンの運営スタッフではなく、わざわざ遠いショッピングモールの総合案内所まで行かせようとしているのだ。

「わかりました。私が行ってきます」

 あえて裕美の思惑に乗るべきか、あえてビアガーデンのスタッフに落とし物を届け出てすぐに戻って来るべきか、と逡巡する。だがすぐに、彼女たちの戯れに大人しく付き合うこと自体が、あほらしいと思えてきた。だからすぐに、諦める。

 晴香が発見したという落とし物の鍵を受け取り、そっと席を立つ。

 ちなみに秘書室長の潮見は、最初に注文したビールを一杯を飲み終えるとそのまま帰宅するのがお決まりとなっている。女性の話にはついていけないし、上司がいないほうがいいだろう、という彼なりの配慮らしい。

 よってこの場を離れることを申告しなければならない相手もいない。いるとすれば今日の飲み会の幹事である晴香ぐらいだが、そもそも彼女に頼まれた用事で席を立つのだ。報告の必要などあるはずがない。

 屋上階と屋内フロアを繋ぐエスカレーターを乗り継いで一階まで降りると、総合案内所の受付カウンターに向かう。『わざわざお届け下さりありがとうございました』と微笑む受付嬢に落とし物の鍵を届け出れば、七海のミッションは完了だ。

 ついでなのでモール内のお手洗いにも寄る。二つの用を済ませるとたっぷり十五分ほどの時間がかかったので、その間好き放題に七海の話をすれば彼女たちの気も少しは紛れるだろう。

 と安易に考えていた七海は、屋上のビアガーデンに戻った瞬間、ひとり絶句した。

「……え? うそ。みんなどこ……?」

 先ほどまで秘書課のほぼ全員がいたはずのビアガーデンから、見知った顔がひとつもいなくなっている。四つの席はすでに空になり、なんなら後からやってきた別の男性グループが七海のいたテーブルを陣取り、「美味い」「やっぱり生ビール最高!」と楽しそうに盛り上がっている。

 慌てた七海はショルダーバッグからスマートフォンを取り出すと、登録してある『尾崎香澄』に急いで電話発信する。六回のコール音がぷつっと途切れた瞬間に、

「尾崎さん、あの……! 戻ってきたら皆さんいないんですが……!」

 と訊ねたが、スマートフォンの向こうから聞こえた彼女の声は、ひどく冷めた様子だった。

『当たり前でしょう。もう二次会の場所に移動してるんだもの』

 電話越しにあっけらかんと告げられた言葉に、一瞬声を失う。その台詞でようやく『悪口を言うために不要な要件を言いつけられた』のではなく『置いてけぼりにするために不要な要件を言いつけられた』のだと気づいたが、今となってはもう後の祭りである。

「あの、では私は、どこに行けば良いですか……?」

 悲しいのか悔しいのか呆れているのかもわからない微妙な感情のまま訊ねると、晴香が「え?」と不思議そうな声を発した。

『やだ、柏木さん二次会に参加するつもりだったの? あんまり遅いから参加したくなくて、勝手に帰っちゃったのかと思った』

 晴香のわざとらしい台詞に、言葉にできない不快感と苛立ちが募る。

 今日は二次会にも参加すると事前に伝えていたし、落とし物の届け出場所に屋上から片道数分かかる総合案内所を指定したのは晴香のほうなのに、まるで七海が自分勝手な行動をしたような言い方だ。これでも一応、一次会の時間内に戻って来れるように考えて行動していたのに。

「そ、そんなに遅かったですか? 落とし物を届けて、ついでにお手洗いに寄っただけですけど……」
『あら、具合悪いの?』

 それでも一応は先輩、しかも彼女は今日の場を取り仕切る幹事だ。実際、時間がかかったのは七海のせいでもあると考え直して冷静に返すと、それを聞いた晴香がなぜか声のトーンを上げて七海の言葉に便乗してきた。

『それなら無理しない方がいいわね。どうぞお大事に』
「え……ちょ……っ」

 急に会話を打ち切るような台詞を告げられ、一方的に通話を終わらされた。焦った七海は制止の言葉をかけようとしたが、接続状況を確認するために耳からスマートフォンを離して画面を確認すると、既に通話終了の文字が表示されている。

「……幼稚園児か」

 思わず苛立ちの言葉が溢れてしまう。だが真っ暗になった画面を見つめていると、だんだん苛立ちよりも呆れと虚無感の方が大きくなってくる。

(また、置き去りにされちゃった)

 数か月前の嫌な光景を一瞬だけ思い出す。けれどその悲しく苦しい脳内映像の中に、すでに決別した男性の表情までは浮かんでこない。七海の心に定着せずあっという間にどこかへ消えた思い出の代わりに、笑顔で手を差し出してくれる将斗の姿が思い浮かんだ。

(あと八か月……七か月かぁ)

 五月も下旬となった今、『終わり』のタイムリミットはもうすぐ折り返しを迎えようとしている。

(年末に将斗さんと離婚して、社長秘書を交代……もしくは別の部署に異動したらちょっとは落ち着くはずなんだけど……)

 将斗との『偽装溺愛婚』計画は約一年。これが終われば二人の夫婦関係は解消され、現在の非常に面倒くさい状況にも終止符が打たれるはずだ。

 契約が満了した際には将斗の秘書を辞し、担当する上司の変更か部署異動を願い出るつもりでいる。もし希望が通らない場合は支倉建設を退職することも考えているが、いずれにせよ将斗と離れさえすればこの状況からは開放されると考えている。

 社長である将斗と突然結婚したことで、七海は多方面から様々な興味や関心を向けられてきた。だがこれほどまでに強い負の感情を未だに向け続けてくるのは、秘書課に在籍する一部の女性秘書たちだけである。

 だがこれについてはあまり深く掘り下げないことにしている。考えたところで彼女たちの考えを正確に把握することはできないし、知った所でどうにもできないのだから。

 ふう、とため息をついて、顔を上げる。

 飲み会は終了してしまったので、もう飲み放題のサービスを受けることは出来ない。だが自分でお金を払って単品でビールを味わうことはできる。

 どうせ二次会には合流できないし、合流したとしても今日は一次会で帰ると言っていた新野佳菜子もいないだろうし、今さら楽しいお酒を飲めるはずがない。だったらもう、自由に楽しくお酒を飲んでもいいだろう。

「せっかくだから、高いビール飲んじゃおっと」
「それなら、俺と家で飲むか」
「ふわぁっ!?」

 一人で二次会を楽しもうと考えていた七海の後ろで、突然低い声が響いた。誰かに話しかけられると思っていなかった七海がびくぅっと飛び上がって裏返った声を出すと、頭上からくすくすと笑い声が聞こえてくる。

 その人物の正体を視認する前に、背中から回ってきた腕に身体を抱きしめられた。

「ま、将斗さん……? どうしてここに?」
「んー? 七海を二次会に行かせたくないから、早めに迎えにきた」

 ぎゅう、と七海を抱きしめてくる将斗に、若干呆れた気持ちになりながら問いかける。すると七海を抱きしめて髪に頬を擦り寄せてきた将斗が、周囲の様子を確認して不思議そうな声を出した。

「なんで一人なんだ? もう終わったのか?」

 将斗の問いかけに再び身体が跳ねる。

 現在の七海が秘書課で受けている扱いや置かれている状況については、出来れば将斗の耳には入れたくはないと思っている。知れば必ず心配するし、もしかしたら自分が偽装結婚を持ちかけたせいで七海が不遇に遭っていると誤解するかもしれないからだ。

 今の職場での状況は七海が適切に対処できなかった結果なので、将斗が気に病む必要はない。だから彼に仔細を話さなくても済むように、七海は今この場に一人きりでいる状況も、すべて自分が招いたものだと言い訳した。

「えっと……お手洗いに行ってぼーっとしてる間に、置いてかれちゃいました」
「なんだ、そそっかしいな」

 将斗は七海の言葉をちゃんと信じてくれたらしい。少し身体を離して横から七海の肩を抱くと、頭をぽんぽんと撫でてくれた。いつもスーツ姿の彼がたまに見せるカジュアルかつナチュラルな私服姿に一瞬どきんと緊張する。

「普段はしゃんとしてるのに、たまにぼんやりしてることあるよな。誘拐されないか心配になるよ」
「私を誘拐する人なんて、います?」
「いるだろ、目の前に」

 七海の問いかけに、将斗がにこりと笑顔を零す。
 
「車で来たから荷物増えてもいいぞ。食品売り場 した で酒とつまみ買って、家で一緒に飲み直そうか」

 そう言って七海の手に指を絡めてぎゅっと繋いでくる将斗の横顔を、ぼんやりと見つめる。

 今は仕事の時間じゃないのに。
 職場や仕事の関係者が見ているわけでもないのに。
 七海は一人でも、帰れたはずなのに。

 優しい笑顔で『俺と二次会な』と微笑む姿に、直前まで感じていた悲しさや悔しさや苦しさがすべて空気に溶けて消えていく。

 ほら、と七海のバッグを持ってくれて、反対の手を繋いでくれる彼の笑顔がやけに眩しく見えて、七海はそっとミュールの先に視線を落とした。

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