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◆ 第4章
22. 強い風当たり
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最近、ふとした瞬間に今夜の夕飯は何にしようかと考えることが多くなった。
七海は辛い食べ物が苦手だが、将斗には好き嫌いが一切ないらしく、作るものは何でも残さず食べてくれる。さほど料理が得意というわけでもなく腕前もレパートリーも平凡の極みだというのに、将斗はいつも手料理を褒めて喜んでくれる。だから七海も積極的に新しい献立を探して、食事のことを真剣に考えるようになった。
将斗に料理を振る舞う機会が以前よりも増えたのは、年度が変わったこの四月から、柏木家を出て将斗のマンションで同居するようになったから。これまでの『週末だけ将斗のマンションで共に過ごす』状態から『夫婦として将斗と一緒に暮らす』状態になったのだ。
七海が将斗との完全同居に踏み切った理由は二つ。
一つは慎介から七海を守り、傷ついた心を癒し、七海を大切に扱ってくれる将斗に対して、少しでも恩返しがしたかったから。
一緒に住むことで彼に生まれるメリットといえば家事の負担が軽減できることぐらいだが、逆に七海にできることもそれぐらいしか思いつかないので、だったら彼の生活面を最大限にサポートしたいと思った。
もちろんそれだけで将斗に受けた恩をすべて返せるとは思っていないが、日々を少しでも快適に過ごしてもらえるのなら、不慣れな家事もできるだけ頑張りたいと思えた。
そしてもう一つの理由は、将斗の傍にいると不思議と気持ちが落ち着くこと、安心感が得られることに気がついたからだ。
悪戯をされたりからかわれたりすると、むっとすることはある。勤務時間中に仕事関係者の前で愛妻アピールをされると心臓に悪いと思うこともある。
けれど普段の関係は穏やかで、二人で過ごす時間はいつも和やかで、将斗が隣にいると安心して眠れる。平日の夜に実家で過ごす時間に物足りなさを感じる一方、週末将斗と過ごす時間にはなんとなく満たされていて気分がいい。
これが将斗が最初に言っていた『相性がいい』ということなのかもしれないと思えば、この偽装結婚の時間をより多く共有することも悪いことではないと思えた。
もちろん将斗や両親が同居に難色を示したらすぐに引っ込めるつもりだったが、将斗と家族で食事に行った際に相談のつもりで口にした提案は、思いのほかあっさりと認められた。少し拍子抜けするほどだった。
そんな経緯があって今まで以上に将斗と過ごす時間が増えた七海だったが――
「あれ……?」
愛用している三色ボールペンのうち、一番よく使うインクのペン先を確認して首を傾げる。一見するといつもと変わらないシルバーピンクの細いボールペンだが、実際にペンを走らせてみると色は黒ではなく緑、しかもなぜかやけに太い。
おかしい、と思ってデスクの端に寄せていたメモ帳を手繰り寄せると、隣をノックして出てきた別のインクでぐるぐる円を描いてみる。だがこれも普段使わない一.〇ミリの赤インク、もう一つも一.〇ミリの青インクである。
七海の肩が、がくりと落ちる。
(な、なんて地味な嫌がらせ……!)
七海が愛用しているペンは、一番よく使う〇.五ミリの黒インクの他、〇.三ミリの黒インクと〇.三ミリの青インクで構成された、カスタム式の三色ボールペンである。
ペン本体も中身のインクも近くの文房具店で購入したごくありふれたものだが、自分が使いやすいデザインとインクを自由に組み合わせることが出来るので、学生時代から好んで使い続けている。一応、他人に宛てる手紙や文章、贈り物の宛名には筆ペンや万年筆を使うようにしているが、自分用のメモや急いでいるときの走り書きには慣れたペンが手に馴染んで使いやすい。
だがまさか、そのペンの中身が勝手に入れ替えられるなんて。折角使いやすくカスタムしていたものを、使わないものに改変させられるなんて。
(人の持ち物を細工したり壊したりするのは、さすがにちょっと……)
私財を投じて用意したものか、会社から支給されたものかどうかは関係ない。七海が普段使っているものに――七海のデスクやその周りにあるものに、本人の許可なく触れるのはいかがなものかと思う。まして中身のインクを勝手に変えてしまうなんて、嫌がらせにしても度が過ぎている。
こんなくだらない嫌がらせや悪戯をしても、七海と将斗が離れるわけではないのに。二人の間に〝契約〟が存在する以上、周りがどんな方法で介入をしたところで関係は変わらないのに。
ずいぶん地味で手の込んだ嫌がらせをするものだ、とため息をつきながら、シルバーピンクのペン本体から使わないインクを引っこ抜く。
(っていうか、元のインクどうしたんだろ……)
インクがどこかに付着しないよう、外した替え芯をティッシュペーパーの上に載せながらきょろきょろと周りを見回す。
おそらく捨てられてしまっただろう。新しく買わなきゃ……と考えながらデスクの一番上の引き出しを開いた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「……あるじゃないの」
外したインクが、置いてある。
しかも『緑/一.〇ミリ』と書かれた替え芯のパッケージの中に戻してある。どれもインクが半分以上減っているので間違いなく七海が使っていたものだとわかるが、勝手に捨てるのは悪いと思ったのか、インクが付着しないように配慮された状態で置かれている。
「ふ、ふふ……んふ……っ」
なんだか、急に笑えてきた。
嫌がらせが律儀すぎる。それによく考えてみたら、この嫌がらせをした相手は七海の様子を観察して、七海が使っているペンのメーカーを把握し、別のインクをわざわざ文房具店で購入してきて、七海が席を外しているうちに中身を入れ替えた、ということだ。情熱を注ぐ箇所を大幅に間違えている。
本来なら悲しむか怒るべきはずなのに、おかしさのあまり笑いがこみ上げてくる。だが秘書室内に人が多いこの場で笑ってしまえば、今度は『馬鹿にしてる』と捉えられて嫌がらせがエスカレートするかもしれない。そうと思うとあまり大っぴらに笑うこともできない。
むしろこの笑いを耐えることの方が新手の嫌がらせなのでは、と考えながら肩を震わせていると、秘書室の扉がコンコンとノックされた。
音に気づいて室内にいた全員の視線が入り口に集中する。その扉がガチャ、と開いた直後、秘書室の空気がざわっと乱れた。
「柏木」
「? えっ……社長!?」
秘書室にやってきたのは将斗だった。
名前を呼ばれた七海は席を立つと、慌てて将斗の傍へと駆け寄る。
「どうなさいました?」
「さっき持ってきてもらった資料、二〇二〇年のだった」
「!」
将斗の指摘に表情が強張る。
(嘘……? 今朝確認したときは、二一年のだったのに……)
七海はつい先ほど、社長の承認が必要な書類と確認に必要な資料をまとめて将斗に引き渡したばかりだ。彼がその確認作業をしている間に七海は次の作業の準備をする予定だったのに、まさか将斗に渡した資料が間違っていたなんて。
やってしまった……と自分の失態を猛省する七海だったが、すぐに『違う』と直感する。
もちろん七海が間違えた可能性もゼロではない。だが出勤して朝礼前に資料を用意したときは、間違いなく二〇二一年のものだった。ファイルの背表紙に貼られた『二〇二一』のシールが剥がれかけていたので、後で直さなきゃ、と思ったのをちゃんと覚えている。
その後一度社長室に向かい、将斗の今日のスケジュールを確認して共有した後、朝一番の会議に将斗を送り出した。そして彼が会議に出席している時間を使って来週の出張の準備と備品の補充をしていたが、その間秘書室のデスク上に用意したものは一切移動させていない。七海が誤って資料を交換してしまう可能性は、限りなく低い状況だった。
やられた、と思うが、今は文句を言っても仕方がない。その場で将斗に深く頭を下げる。
「たいへん申し訳ございませんでした。すぐに正しいものをお持ちします」
「急がなくていいぞ」
先ほどのボールペンのことからも、いやがらせ犯の『七海を困らせたい』『七海が失敗する姿を見たい』という熱意はひしひしと感じる。だが将斗に迷惑をかけたいとまでは思っていないだろう。ならば間違えた資料も七海のデスク回りか、秘書室内のどこか……探せばすぐに見つかる場所にあるはずだ。
と、そこまで考えた七海が別の違和感に気づく。
おそるおそる将斗の顔を見上げる。
「社長、どうして直接こちらに? お電話を頂けましたらすぐにお伺いしましたのに」
「電話ならしたが、繋がらなかったぞ?」
「え……?」
将斗があっけらかんと呟く言葉に、今度こそ全身の血の気が引く。焦った七海は自席に駆け寄りデスク上にある電話の受話器を取ってみるが、耳に押し当ててもツー音もツーツー音も聞こえない。回線が繋がっていない証拠だ。
そんな馬鹿な、と思いながら電話機の周囲を確認して、驚愕の事実に辿り着く。
「線が、抜けてる……」
そんなことが起こるはずはない。電話線を繋ぐLANコードのコネクタには本体から簡単に抜けないようツメがついていて、多少引っ張ったり電話機の位置がずれたりしたぐらいで、ケーブルが外れることはない。わざと抜かない限り絶対に起こりえない事象に気づき、再び『やられた』と頭を抱える。
先ほどは『将斗が困らない』範囲の嫌がらせに留まっていると思っていたが、その自信もなくなる。仕事中に連絡がつかない秘書など、上司を困らせる存在でしかない。――『使えない』存在でしかない。
「スマホにも繋がらないしな」
「……申し訳ありません。昨日、充電を忘れていたみたいで」
しかも繋がらないのは固定電話だけではない。
七海が勤務時間中に使用している仕事用のスマートフォンやタブレットは、毎日会社を出る前に充電器に戻すことを徹底している。にもかかわらず、今日に限って出勤してみるとどちらも充電器から外された状態になっていた。
おそらく一晩中何かの動画を流しっぱなしにしていたのだろう。いつものように朝礼後に確認したところ、充電が完全に切れてまったく使えない状態になっていることに気がついた。
落胆する七海の呟きに、ふはっと吹き出した将斗が『それは朝も聞いた』と笑い出す。
「線だけじゃなく、気も抜けてるんじゃないか?」
「申し訳ございません」
「冗談だ。いつも無理させてる俺も悪い」
ありえない失態の連続に落ち込む七海だったが、それを見てくつくつと笑う将斗が、ふと意味深な台詞を零した。
「今夜は少し控えるか」
「!」
将斗がぽつりと呟いた言葉に一瞬空気が止まった直後、秘書室内にどよめきが広がった。楽しそうな表情の将斗と異なり、秘書室内にふんわりと照れくさい空気が流れる。七海は一人青褪めるしかない。
(してないっ……! 昨日はなにもしてないでしょう! お願いですから誤解を招くようなこと言わないでください!)
心の中で大絶叫する七海をよそに、『仕事以外でも無理をさせている』と匂わせる将斗は、どこまでも楽しそうだ。そのまま表情を緩めて「仕方ないな」と息をつくと、次は
「柏木、今日は社長室で仕事しろ」
と驚きの要求をしてくる。
「連絡つかないんじゃ、不便だろ?」
「だ、大丈夫です。線は戻しましたし、端末ももうすぐ使えるようになります」
朝礼後に気づいてすぐ充電を開始していたので、スマートフォンやタブレットももうすぐフル充電になる。もちろん完全に充電されていなくても一日堪えるぐらいまでならチャージが完了しているので、あとはもう『連絡がつかなくて困る』状況には陥らないはずだ。
だが将斗には提案を引っ込めるつもりなどないらしい。
「今日、来客の予定は?」
「ご、ございません」
「それなら社長室にいてもいいだろ。ほら、仕事道具持って上がってこい。ついでにお茶淹れてくれ」
「……。……かしこまりました。すぐにお持ちします」
これ以上は言っても無駄だ。将斗は七海と会話をしながらも部屋の奥にいる秘書室長の潮見に目配せし、しかも潮見も将斗の意見に合意するよう頷いている。
元より七海に決定権はない。諦めて同意を示すと将斗が楽しそうな微笑みを残して秘書室を出て行くが、七海は頭痛が止まらない。
はあ、とため息をついて俯いた後は、もう顔を上げられなくなる七海だった。
七海は辛い食べ物が苦手だが、将斗には好き嫌いが一切ないらしく、作るものは何でも残さず食べてくれる。さほど料理が得意というわけでもなく腕前もレパートリーも平凡の極みだというのに、将斗はいつも手料理を褒めて喜んでくれる。だから七海も積極的に新しい献立を探して、食事のことを真剣に考えるようになった。
将斗に料理を振る舞う機会が以前よりも増えたのは、年度が変わったこの四月から、柏木家を出て将斗のマンションで同居するようになったから。これまでの『週末だけ将斗のマンションで共に過ごす』状態から『夫婦として将斗と一緒に暮らす』状態になったのだ。
七海が将斗との完全同居に踏み切った理由は二つ。
一つは慎介から七海を守り、傷ついた心を癒し、七海を大切に扱ってくれる将斗に対して、少しでも恩返しがしたかったから。
一緒に住むことで彼に生まれるメリットといえば家事の負担が軽減できることぐらいだが、逆に七海にできることもそれぐらいしか思いつかないので、だったら彼の生活面を最大限にサポートしたいと思った。
もちろんそれだけで将斗に受けた恩をすべて返せるとは思っていないが、日々を少しでも快適に過ごしてもらえるのなら、不慣れな家事もできるだけ頑張りたいと思えた。
そしてもう一つの理由は、将斗の傍にいると不思議と気持ちが落ち着くこと、安心感が得られることに気がついたからだ。
悪戯をされたりからかわれたりすると、むっとすることはある。勤務時間中に仕事関係者の前で愛妻アピールをされると心臓に悪いと思うこともある。
けれど普段の関係は穏やかで、二人で過ごす時間はいつも和やかで、将斗が隣にいると安心して眠れる。平日の夜に実家で過ごす時間に物足りなさを感じる一方、週末将斗と過ごす時間にはなんとなく満たされていて気分がいい。
これが将斗が最初に言っていた『相性がいい』ということなのかもしれないと思えば、この偽装結婚の時間をより多く共有することも悪いことではないと思えた。
もちろん将斗や両親が同居に難色を示したらすぐに引っ込めるつもりだったが、将斗と家族で食事に行った際に相談のつもりで口にした提案は、思いのほかあっさりと認められた。少し拍子抜けするほどだった。
そんな経緯があって今まで以上に将斗と過ごす時間が増えた七海だったが――
「あれ……?」
愛用している三色ボールペンのうち、一番よく使うインクのペン先を確認して首を傾げる。一見するといつもと変わらないシルバーピンクの細いボールペンだが、実際にペンを走らせてみると色は黒ではなく緑、しかもなぜかやけに太い。
おかしい、と思ってデスクの端に寄せていたメモ帳を手繰り寄せると、隣をノックして出てきた別のインクでぐるぐる円を描いてみる。だがこれも普段使わない一.〇ミリの赤インク、もう一つも一.〇ミリの青インクである。
七海の肩が、がくりと落ちる。
(な、なんて地味な嫌がらせ……!)
七海が愛用しているペンは、一番よく使う〇.五ミリの黒インクの他、〇.三ミリの黒インクと〇.三ミリの青インクで構成された、カスタム式の三色ボールペンである。
ペン本体も中身のインクも近くの文房具店で購入したごくありふれたものだが、自分が使いやすいデザインとインクを自由に組み合わせることが出来るので、学生時代から好んで使い続けている。一応、他人に宛てる手紙や文章、贈り物の宛名には筆ペンや万年筆を使うようにしているが、自分用のメモや急いでいるときの走り書きには慣れたペンが手に馴染んで使いやすい。
だがまさか、そのペンの中身が勝手に入れ替えられるなんて。折角使いやすくカスタムしていたものを、使わないものに改変させられるなんて。
(人の持ち物を細工したり壊したりするのは、さすがにちょっと……)
私財を投じて用意したものか、会社から支給されたものかどうかは関係ない。七海が普段使っているものに――七海のデスクやその周りにあるものに、本人の許可なく触れるのはいかがなものかと思う。まして中身のインクを勝手に変えてしまうなんて、嫌がらせにしても度が過ぎている。
こんなくだらない嫌がらせや悪戯をしても、七海と将斗が離れるわけではないのに。二人の間に〝契約〟が存在する以上、周りがどんな方法で介入をしたところで関係は変わらないのに。
ずいぶん地味で手の込んだ嫌がらせをするものだ、とため息をつきながら、シルバーピンクのペン本体から使わないインクを引っこ抜く。
(っていうか、元のインクどうしたんだろ……)
インクがどこかに付着しないよう、外した替え芯をティッシュペーパーの上に載せながらきょろきょろと周りを見回す。
おそらく捨てられてしまっただろう。新しく買わなきゃ……と考えながらデスクの一番上の引き出しを開いた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
「……あるじゃないの」
外したインクが、置いてある。
しかも『緑/一.〇ミリ』と書かれた替え芯のパッケージの中に戻してある。どれもインクが半分以上減っているので間違いなく七海が使っていたものだとわかるが、勝手に捨てるのは悪いと思ったのか、インクが付着しないように配慮された状態で置かれている。
「ふ、ふふ……んふ……っ」
なんだか、急に笑えてきた。
嫌がらせが律儀すぎる。それによく考えてみたら、この嫌がらせをした相手は七海の様子を観察して、七海が使っているペンのメーカーを把握し、別のインクをわざわざ文房具店で購入してきて、七海が席を外しているうちに中身を入れ替えた、ということだ。情熱を注ぐ箇所を大幅に間違えている。
本来なら悲しむか怒るべきはずなのに、おかしさのあまり笑いがこみ上げてくる。だが秘書室内に人が多いこの場で笑ってしまえば、今度は『馬鹿にしてる』と捉えられて嫌がらせがエスカレートするかもしれない。そうと思うとあまり大っぴらに笑うこともできない。
むしろこの笑いを耐えることの方が新手の嫌がらせなのでは、と考えながら肩を震わせていると、秘書室の扉がコンコンとノックされた。
音に気づいて室内にいた全員の視線が入り口に集中する。その扉がガチャ、と開いた直後、秘書室の空気がざわっと乱れた。
「柏木」
「? えっ……社長!?」
秘書室にやってきたのは将斗だった。
名前を呼ばれた七海は席を立つと、慌てて将斗の傍へと駆け寄る。
「どうなさいました?」
「さっき持ってきてもらった資料、二〇二〇年のだった」
「!」
将斗の指摘に表情が強張る。
(嘘……? 今朝確認したときは、二一年のだったのに……)
七海はつい先ほど、社長の承認が必要な書類と確認に必要な資料をまとめて将斗に引き渡したばかりだ。彼がその確認作業をしている間に七海は次の作業の準備をする予定だったのに、まさか将斗に渡した資料が間違っていたなんて。
やってしまった……と自分の失態を猛省する七海だったが、すぐに『違う』と直感する。
もちろん七海が間違えた可能性もゼロではない。だが出勤して朝礼前に資料を用意したときは、間違いなく二〇二一年のものだった。ファイルの背表紙に貼られた『二〇二一』のシールが剥がれかけていたので、後で直さなきゃ、と思ったのをちゃんと覚えている。
その後一度社長室に向かい、将斗の今日のスケジュールを確認して共有した後、朝一番の会議に将斗を送り出した。そして彼が会議に出席している時間を使って来週の出張の準備と備品の補充をしていたが、その間秘書室のデスク上に用意したものは一切移動させていない。七海が誤って資料を交換してしまう可能性は、限りなく低い状況だった。
やられた、と思うが、今は文句を言っても仕方がない。その場で将斗に深く頭を下げる。
「たいへん申し訳ございませんでした。すぐに正しいものをお持ちします」
「急がなくていいぞ」
先ほどのボールペンのことからも、いやがらせ犯の『七海を困らせたい』『七海が失敗する姿を見たい』という熱意はひしひしと感じる。だが将斗に迷惑をかけたいとまでは思っていないだろう。ならば間違えた資料も七海のデスク回りか、秘書室内のどこか……探せばすぐに見つかる場所にあるはずだ。
と、そこまで考えた七海が別の違和感に気づく。
おそるおそる将斗の顔を見上げる。
「社長、どうして直接こちらに? お電話を頂けましたらすぐにお伺いしましたのに」
「電話ならしたが、繋がらなかったぞ?」
「え……?」
将斗があっけらかんと呟く言葉に、今度こそ全身の血の気が引く。焦った七海は自席に駆け寄りデスク上にある電話の受話器を取ってみるが、耳に押し当ててもツー音もツーツー音も聞こえない。回線が繋がっていない証拠だ。
そんな馬鹿な、と思いながら電話機の周囲を確認して、驚愕の事実に辿り着く。
「線が、抜けてる……」
そんなことが起こるはずはない。電話線を繋ぐLANコードのコネクタには本体から簡単に抜けないようツメがついていて、多少引っ張ったり電話機の位置がずれたりしたぐらいで、ケーブルが外れることはない。わざと抜かない限り絶対に起こりえない事象に気づき、再び『やられた』と頭を抱える。
先ほどは『将斗が困らない』範囲の嫌がらせに留まっていると思っていたが、その自信もなくなる。仕事中に連絡がつかない秘書など、上司を困らせる存在でしかない。――『使えない』存在でしかない。
「スマホにも繋がらないしな」
「……申し訳ありません。昨日、充電を忘れていたみたいで」
しかも繋がらないのは固定電話だけではない。
七海が勤務時間中に使用している仕事用のスマートフォンやタブレットは、毎日会社を出る前に充電器に戻すことを徹底している。にもかかわらず、今日に限って出勤してみるとどちらも充電器から外された状態になっていた。
おそらく一晩中何かの動画を流しっぱなしにしていたのだろう。いつものように朝礼後に確認したところ、充電が完全に切れてまったく使えない状態になっていることに気がついた。
落胆する七海の呟きに、ふはっと吹き出した将斗が『それは朝も聞いた』と笑い出す。
「線だけじゃなく、気も抜けてるんじゃないか?」
「申し訳ございません」
「冗談だ。いつも無理させてる俺も悪い」
ありえない失態の連続に落ち込む七海だったが、それを見てくつくつと笑う将斗が、ふと意味深な台詞を零した。
「今夜は少し控えるか」
「!」
将斗がぽつりと呟いた言葉に一瞬空気が止まった直後、秘書室内にどよめきが広がった。楽しそうな表情の将斗と異なり、秘書室内にふんわりと照れくさい空気が流れる。七海は一人青褪めるしかない。
(してないっ……! 昨日はなにもしてないでしょう! お願いですから誤解を招くようなこと言わないでください!)
心の中で大絶叫する七海をよそに、『仕事以外でも無理をさせている』と匂わせる将斗は、どこまでも楽しそうだ。そのまま表情を緩めて「仕方ないな」と息をつくと、次は
「柏木、今日は社長室で仕事しろ」
と驚きの要求をしてくる。
「連絡つかないんじゃ、不便だろ?」
「だ、大丈夫です。線は戻しましたし、端末ももうすぐ使えるようになります」
朝礼後に気づいてすぐ充電を開始していたので、スマートフォンやタブレットももうすぐフル充電になる。もちろん完全に充電されていなくても一日堪えるぐらいまでならチャージが完了しているので、あとはもう『連絡がつかなくて困る』状況には陥らないはずだ。
だが将斗には提案を引っ込めるつもりなどないらしい。
「今日、来客の予定は?」
「ご、ございません」
「それなら社長室にいてもいいだろ。ほら、仕事道具持って上がってこい。ついでにお茶淹れてくれ」
「……。……かしこまりました。すぐにお持ちします」
これ以上は言っても無駄だ。将斗は七海と会話をしながらも部屋の奥にいる秘書室長の潮見に目配せし、しかも潮見も将斗の意見に合意するよう頷いている。
元より七海に決定権はない。諦めて同意を示すと将斗が楽しそうな微笑みを残して秘書室を出て行くが、七海は頭痛が止まらない。
はあ、とため息をついて俯いた後は、もう顔を上げられなくなる七海だった。
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