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◆ 第3章

18. それは愛になる前の

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「……将斗さん?」
「!?」

 隣で眠っていた将斗の身体がもぞもぞと動いたので、最初は寝返りを打ったのだと思った。だが暗がりの中に起き上がった将斗は、七海の前髪を撫でるとそのままベッドから出て行こうとする。不思議に思った七海が名前を呼ぶと、声をかけられた将斗の身体がびくっと飛び跳ねた。

「なんだ、起きてたのか」
「……寝つけなくて」
「そうか」

 就寝の挨拶をしてから体感で十五分ほどの時間しか経過していない。だから将斗も寝ていた七海を起こしたのではなく、七海がまだ眠れていなかったと気づいたのだろう。

 将斗の予想を肯定するように呟くと、彼が小さく息を零した。

「ちょっと用足してくる。けど遅くなるだろうから、先に寝ててくれ」

 日付が変わるまであと少しというこの時間から仕事をするとも考えにくい。それにスマートフォンを持たずにベッドから出ようとしていたので、トイレに行くのだろうと予想はできた。

 だから七海も受け流そうとしたが、将斗の『遅くなる』との台詞に気づくと、気にしなくていいことが気になり始めた。

「大丈夫ですか? お腹壊しました?」
「いや……ああ、うん。まあ、そんなところだ」
「お薬飲みます?」

 急な腹痛に見舞われるのは誰にでも起こりうること。まして今日の夕食は、将斗お手製のやや味と脂が濃い中華料理盛り合わせだった。

 常備薬を飲むなら薬箱を用意しようと考え、シーツに肘をついて上半身を起こし、ベッドライトに手を伸ばす。

「待て、七海……!」

 将斗に名前を呼ばれるとほぼ同時に周囲がパッと明るくなる。暗闇に目が慣れていたせいかライトをやけに眩しく感じる。まばゆい光を感じながらゆっくりと視線を上げてみると、片足を床についた状態でベッドに膝立ちになった将斗が、こちらを見下ろしていた。

 ライトに手を伸ばした姿勢のまま、七海の動きがぴたりと止まる。

 見るつもりはなかった。あえてそこを確認したわけでもない。だがベッドの周りが明るくなった瞬間、偶然にも七海の視界の真ん中に将斗のルームパンツの中心部が映り込んだ。そのせいでふっくらと盛り上がっているそこの状態も、ばっちり視認できてしまう。

 空気が静かに、停止する。

「将斗……さん?」
「っ……」

 驚いた七海が緊張の声を絞り出すと、将斗が息を呑む音が鼓膜を震わせた。

 しかしそのまま沈黙すればさらに気まずくなると察したのだろう。ベッドから完全に脚を下ろして七海にくるりと背を向けた将斗が、言い訳も諦めたようにぽつりと呟く。

「……気にしなくていい。生理現象だ」

 将斗が零した台詞にはいつもより高い熱が混ざっている気がした。だが背を向けられてしまったので、表情までは確かめられない。

「そういう訳だ。腹は壊してないから、心配しなくていい。七海は先に寝て……」
「あの……。……私じゃ、だめですか?」

 七海を残して寝室から出て行こうとする将斗のシャツの裾を掴んで、ぎゅっと力を込める。服を掴まれたせいで歩き出し損ねた将斗が、そのままぐっと黙り込んだ。

 七海が絞り出すように紡いだ言葉の意味を察したらしい。上半身だけでこちらに振った将斗は、驚きと困惑と照れを織り交ぜたような微妙な表情をしていた。

「私、将斗さんにお礼がしたいんです。将斗さんにたくさん慰めてもらったぶん……お返しが、したくて」

 ベッドに上半身を起こしたまま将斗の服を掴む七海の顔も、きっと赤く染まっているだろう。ベッドランプがオレンジ色なので一見わかりにくいとは思うが、顔に熱が集中しているのは七海も自覚している。

 それでも出した言葉を引っ込めるつもりはなく、将斗の反応を探るように彼の眼をじっと見つめる。

「私じゃ、お礼にならないでしょうか……?」
「……っ」

 将斗には心の底から感謝している。だから七海は、お礼がしたかった。

 落ち込む七海の身体を抱きしめ、涙に濡れる目尻を優しく拭い、頭と頬を撫でて落ち着かせてくれる将斗に恩返しがしたかった。〝妻を愛してやまない夫〟を演じてくれる将斗のために、七海も〝夫を支えて癒せる妻〟になりたかった。

 二か月前の初夜のときも似たような気持ちを抱いていた。だがあのときの感情とは少しだけ違う。

 窮地を救ってくれたから恩返しがしたいのではない。禁欲を強いるのが申し訳ないから応じるのではない。身体を差し出すことで両親の立場や会社のイメージを守りたいという正義感でもない。

 それよりも、七海はただ将斗に――

「だめだ」
「!」

 七海が考えごとをしている間に将斗が導き出した答えは、明確な拒否だった。短い言葉で七海の提案を撥ね退ける将斗に、心臓がスッと冷える心地を味わう。

「そう……ですよね。……申し訳ありません」
「あ、いや、違うぞ!? だめだというのは、七海が悪いという意味じゃない」

 七海の動揺を察知したのか、ハッと我に返った将斗が手を伸ばして七海の頬を包み込んできた。

 大きな手が直接触れた瞬間、身体がぴくっと反応する。だが将斗にゆっくりと肌を撫でられて髪を梳かれると、それだけで刹那の不安はすぐに忘れられる。じんわりと優しい温度に、一瞬だけ感じた凍えるほどの不安が溶けて消えていく。

「俺だって抱けるものなら抱きたい。本当は毎週でも……毎晩でもいい」
 
 熱を含んだ視線のまま将斗の長い指が七海の頬や髪を撫で続ける。しかし優しい指遣いや言葉とは裏腹に、彼の瞳はどこか苦しげだ。

「けど、今夜はだめだ」
「なぜですか……?」
「佐久の態度に腹が立ちすぎて、頭に血がのぼってる。怒りのせいか感情をコントロールできない。今、七海に触れられたら、きっと歯止めが利かなくなる」
「!」

 将斗が己の中に渦巻く感情をひとつずつ噛み砕いて、女性である七海にも男性の心と身体の連動が理解できるよう、丁寧に説明してくれる。

 慎介の言動に苛立ちと苦しみを覚えて振り回されたのは、将斗も同じだったらしい。しかもその怒りや苦悩の情は、彼の場合は下腹部に強く表出するようだ。

 将斗の男性的な身体反応に言葉を失う。苦笑した将斗はそんな七海の頬から手を離すと、頭をぽんぽんと撫でて「大丈夫だ、一人で処理できる」と呟いた。

「七海の気持ちはまだ落ち着いてないだろ? そんな状態で今の俺を受け入れたら、あとで後悔するぞ」
「そんなことは……」

 将斗が七海を頼らずとも自分の昂りを自分で処理できるというのは、確かに事実なのだろう。だが七海が苦しいとき将斗はいつも寄り添って優しく頭を撫でてくれるのに、将斗がこうして苦しんでいても七海は何もしてあげられない。

 将斗は屈託のない笑顔で『夫婦だろ?』と言ってくれるが、その関係に甘えているのはいつだって七海だけ。『偽装夫婦』の恩恵を受けているのは、結局七海だけなのだ。

「ほら、いいから寝てろ」

 七海の肩を押してベッドに横たえると、布団をかけてまた頭を撫でてくれる。その笑顔にぼんやりと見惚れつつ、心の中は別の感情に占拠される。

(……さみしい)

 将斗の優しさが七海の胸を強く締めつける。七海の気持ちを最優先してくれる懐の深さに、本当はただの秘書でしかない七海をここまで心配してくれる将斗の人のよさに、むしろ強い寂しさを感じてしまう。

 七海と将斗は偽りの夫婦だ。あと十か月後には終わりを迎える期間限定の関係である。決して『本物』にはなれない――その『現実』が、七海の心に別の『真実』を教えてくれる。

(違う、私……)

 七海と将斗は偽りの夫婦で、いつか終わりを迎える関係である。本物じゃないことは最初からわかっていたはずなのに、七海は今『寂しい』と思ってしまった。

 けれどきっと、それすら

「……ごめんなさい」
「? ……七海?」

 小さな声で謝罪の言葉を紡ぐと、将斗の動きがぴたりと止まる。彼に醜い感情を知られるのが怖くて、布団の中にもぞもぞと潜り込む。

 確かに寂しいと思う気持ちもある。将斗が自分を頼ってくれないことも、この穏やかな関係がいつか終わりを迎えるという事実も、七海の胸を締めつける大きな要因である。

 けれどその可愛らしい感情の裏には、どうしようもなく醜い感情が隠れていた。自らの無意識の言葉や行動の下に浅ましい感情が潜んでいることに気づいた七海は、今すぐここから消えてしまいたい気持ちになった。

「ごめんなさい……私……」
「ん?」
「将斗さんを……利用しようと、しました」
「……は?」

 七海の告白に将斗が不思議そうな声を出す。その音の低さを耳にした七海は、布団のさらに深くへ身を隠すように身体を丸めて、そっと声を震わせたる。

「狡いことを考えてしまったんです。可愛いげがない、女性として魅力がない、と言われたことが悲しくて……」
「……七海」
「将斗さんに必要としてもらえたら、その自信を取り戻せるかも、って……」
「……」

 七海の告白に将斗がそっと黙り込む。シン、と静寂が満ちるベッドルームに、七海の心臓の音だけが響いている気がする。

 そう――無意識だった。自分でも気づかないうちに、辛い感情や記憶を頭の中から追い出そうとしていた。

 その結果、将斗の身体の反応を利用することを『お礼』という大義名分にすり替えようとした。彼の欲望の発散に寄り添うことで、間接的に自分の自尊心を満たそうとした。

 確かに慎介に与えられた傷はそれほど深く大きいのかもしれない。でもそれは将斗の優しさを利用していい理由にはならない。失った自信を取り戻すために、将斗の誠実さに便乗していいはずがないのに。

 これでは慎介のしていることと何も変わらない。人の優しさや好意につけ込んで、埋められない心の隙間を満たすために他人を利用しようとするなんて。将斗は怒りの感情に苛まれているせいで……七海のせいで眠れぬ苦しさを味わっているのに、それを発散するときに自分を頼ってくれない『敗北感』を『寂しさ』にすり替えるなんて。

「……わかった」

 次から次へと溢れ出る後悔に震えていると、将斗がぽつりと何かを頷いた。それから布団の中に丸まった七海の身体を、布の上からポンポンと優しく叩いてくれる。

「ごめんな、七海。俺は『傷つけたくない』なんて自分のエゴを押し付けて、七海の気持ちを無視していた」
「……まさと、さん?」
「こんな状態で触れれば、途中で止まれなくなると思った。ただでさえ傷付いてる七海を、今度は俺が傷つけると思った。そんなの、自分次第でどうにでもコントロールできるはずなのにな」

 将斗の穏やかな声が布団の中の七海の元へ届く。高級羽毛を使用しているため温かく軽い寝具の中が、将斗の優しさと思いやりで満ちていく。

「七海は悪くない。狡くないし、俺を利用しようとしてるわけじゃない」

 後悔の念に苛まれる七海の身体を布団越しにさすっていた将斗が、その掛け布団をそっと剥ぎ取って表情を確認してくる。

 普段は結い上げている髪に将斗の指先が再び触れた瞬間、身体がびくっと強張った。だが将斗に触れられるのが嫌なわけではない。

「こっちを向いてくれ、七海」

 穏やかな声に希われた七海は、丸まっていた状態から顔を上げて正面を向き、将斗とじっと見つめ合った。

「あぁ……七海はやっぱり、美人で優しくて一生懸命な――俺の可愛い妻だ」
「将斗、さん……」

 オレンジ色の淡い灯りの中で微笑む将斗に見惚れてしまう。もちろん将斗は顔も整っていると思うが、それ以上に心が高潔だ。

 こんなにも醜い七海の心を知っても、こんなにも卑怯な七海の考えに気づいても、これほどまでに優しい笑顔を向けてくれる。

 こんな人が他にいるのだろうか。将斗との縁が切れたあと、七海は彼のような男性とまた巡り合うことができるのだろうか。支倉将斗という男性を知ってしまった後で、七海は誰かを好きになれるのだろうか。

 七海の横髪を一筋掬った将斗が、そこにそっと口づけを落とす。髪の先まで愛おしいと言わんばかりの触れ方に、ざわついていた心のノイズが静かに薄れて凪いでいく。

「俺のお願い、聞いてくれるか?」

 髪に口づけたままの将斗が、視線だけで七海の心を捉える。恋慕のようでありながら捕食するような鋭さを含む眼に釘付けになっていると、ゆっくりと近付いてきた将斗の唇が意外な要求を囁いた。

「七海を抱きたい。今夜、すぐに」
「!」

 将斗の要望に驚いてパッと顔を上げる。すると再び目が合うが、今度の将斗は先ほどより少し困った表情を浮かべていた。

「卑怯なのは俺の方だ。弱ってる七海につけ込んで、自分を責める七海にエゴを押し付けて、まだ苦しい気持ちが晴れてない七海に手を出そうとしてる」

 七海に言い聞かせるような説明の羅列に、口を開けて呆然と言葉を失う。次々と紡がれる言葉はあくまで『将斗の都合によるもの』で、『七海のせいではない』と主張するのだから。

「だから俺のせいにしていい。利用したなんて思わなくていい。七海は今夜、悪い夫にそそのかされただけだ」
「そんな、違います……私が」

 七海の負担を軽くしたいのか、将斗が〝今夜〟の責任のすべてを被ろうとする。そんな将斗に『違う』と必死に首を振る。

 将斗のせいではない。将斗は悪い夫ではないし、七海はそそのかされたわけではない。最初に不躾な提案をしたのは七海の方だ。だから将斗が責任を取る必要なんてない。

 ベッドの上に乗り上げてき将斗が、七海の身体を包む羽毛布団を完全に剥ぎ取る。そのままシーツの上に膝立ちになって七海を見下ろす視線に、鼓動がどくりと甘い音を立てる。

 心臓の中を砂糖の塊が転がっているような甘くて苦しい感覚のまま将斗を見つめ返すと、将斗がふと表情を緩めてにこりと微笑んだ。

「? 将斗さん……?」
「いや……俺たちは、難しく考えすぎてるな、と思って」

 ほんの数秒前までは頑なに『自分が責任を取る』と言い続けていた将斗だが、ふとした瞬間に態度が軟化する。この押し問答には終わりがないと気がついたのだろう。しかし次に彼が呟いたのは、やっぱり『七海のせいではない』という主張だった。

「夫婦なんだ。お互いの気持ちが高まったら、セックスだってするだろ?」
「!」

 ストレートな言葉とその露骨さを払拭する優しい笑顔が、七海の心を軽くする。急に現実を見せつけられた気がして身体がかあ、と熱を持つのに、その熱い感覚すら今の二人にはちょうど良い温度に思える。

「利用してるわけじゃない、ずるいわけでもない、責任なんかない。俺たちは夫婦として触れ合うだけ――ただ愛し合うだけだ」

 愛し合う、だなんて偽装夫婦にはそぐわない。それは恋をして、お互いを想って、本物の愛を育んできた二人だけが使う言葉だ。

 そう思うはずなのに、不思議と違和感は覚えないし、否定の気持ちも芽生えない。それに自分で口にした言葉にはにかむ将斗を見ていると、七海の心もぽっと温かくなる。身体が少しずつ火照っていく。

「それなら七海も、文句はないだろ?」
「……はい」

 優しい問いかけにそっと顎を引く。

 将斗はそうやって、七海の不安を『夫婦の営み』に変えてくれる。自然な感情と自然な流れ、当たり前の関係や当たり前の行為にしてくれる。その気遣いにまた救われて癒されている。

「七海」
「将斗さ……ん」

 七海の頬を撫でていた将斗の指が顎の先を持ち上げ、そのままじっと見つめ合う。

 見慣れたはずの上司の顔が、雄の本能と強い色香を含んだ男性らしい表情に変貌していく。けれど七海を組み敷いて一方的に欲をぶつけようとする気配は感じられず、むしろ七海を大切にしたいと主張しているように思える。

「七海が怖がることや痛がることは、絶対にしない。優しく抱くから」

 ただの思い込みかもしれない。そう思う前に七海の考えは肯定されて、唇が優しく触れ合う。さらに将斗の首に腕を回そうと手を伸ばした直後、背中と頭に大きな手が回ってきてふわりと優しく抱きしめられる。

 すべての波長が合うように、不思議なほどにタイミングが揃う。キスする瞬間も、抱きしめ合う動きも、目を閉じる速度も、最初から二つで一つだったようにぴたりと同調する。

 相性が良すぎる。
 ――そう錯覚してしまうのは、きっと七海の気のせいではなかった。

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