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◆ 第3章

16. 威嚇と慰め

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「社長……なんで……?」

 逞しい腕に包まれたまま首だけで後ろへ振り向いて、将斗の顔をじっと見上げる。

 ここが社内であることを考えると、本当は将斗の腕から逃れて適切な距離を保つべきだ。しかし彼の腕にはかなり強い力が込められていて、逆に将斗の存在に安心したのか七海の足からは完全に力が抜けている。支えがないと立っていられない気がしたので振りほどきはしなかったが、困惑の声は隠せなかった。

 七海の問いかけに、一旦慎介から目を離した将斗が「ん?」と首を傾げる。

「スマホ繋がりっぱなしだろ」
「え? あ……っ」

 将斗の指摘に面食らう七海だったが、言われてハッと視線を下げると、確かに左手に握ったスマートフォンは通話状態のままだった。少し動かすだけで明るくなる画面には通話時間を示す数字が表示され、見れば七分を経過している。

 そういえば買い物ついでに他に欲しいものは? と尋ねようとした直前で慎介に話しかけられ、その動揺から電話を切るのも忘れていた。

 ということは、つまり――

「全部聞いてた」
「っ!」

 将斗の声がまた急降下したことに気がつき、背中がびくりと震える。仄暗さを含んだその声が自分に向けられたものではないと理解していても、怒りや不機嫌を隠さず相手を威嚇する将斗の様子に全身で緊張する。

 ほど良く筋肉がつき身長も高い将斗は、その体格の良さから相手に威圧感を与えてしまうことも少なくない。だからこそ滅多に怒りを露わにすることはなく、本人も温和な態度で接することを心がけているようだが、それゆえに感情を隠さず怒りを示されると本能的に身が竦む。

 相手の心を縛って制御することで優位に立とうとする慎介とは違う。圧倒的な力の差と生物としての格の違いを見せつけられているようで、恐怖とはまた違う畏怖の感情を抱いてしまう。

「これ以上七海を傷つけるのはやめてくれ、佐久」

 将斗に名前を呼ばれた慎介の肩がビクッと跳ねる。

 これまでの会話を将斗に聞かれていたことを、彼も認識したのだろう。忙しなく左右へ泳ぐ目の動きを見るに、自分は何を口走っただろうか、七海にどんな言葉をかけただろうか、と必死に思い返している素振りだ。

 そんな慎介の様子を見た将斗が、ふと七海のお腹に回した腕の力を緩めて七海の身体を解放してくれる。

「七海はもうおまえのものじゃない」
「! 社ちょ……っ」

 だが完全に解放されたわけではなく、七海の身体をくるりと返すと今度は正面からすっぽりと抱きしめられる。将斗の胸板に左の頬と耳を押しつける格好になった七海は慌てたが、ぎゅっと力を込められると逃れることも抵抗することもできなくなった。

「七海は、俺のものになった」

 将斗の宣言に心臓がどくんと大きく高鳴る。
 鼓動が少しずつ速度をあげていく。

 ただしその中に嫌悪感や苦しさは含まれない。ただひたすら緊張して恥ずかしくなってしまうだけの、甘だるい心音だった。

 将斗が強調する『俺のもの』との言葉を脳内で反芻して、ふと気がつく。将斗は七海を後ろからではなく正面から抱きしめることで、慎介の視界から七海を隠し、同時に七海の視界に慎介が映らないようにしたのだろう。それが将斗の『辛いものは見なくていい』という優しさのように思えて、思わず泣いてしまいそうになる。

「佐久が七海を傷つけるつもりなら容赦しない。退職すればそれで終われるなんて甘い考えが、俺に通ると思うなよ」
「っ……」

 怒鳴らなくてもよくわかる。将斗が慎介に向ける声には怒りの感情が含まれている。その音を誰よりも近くで聞いた七海は、将斗の胸に縋りついたまま色んな意味で緊張する。

「傷つけるだなんて、そんな俺は……」
「七海は何度も『聞きたくない』『止めて』と言っただろ」

 ただの注意にしては本気すぎる怒りのオーラを放つ将斗に、さすがの慎介も焦ったらしい。慌てたように二人から距離を取り始めるが、スマートフォン越しにすべての会話を聞いていた将斗に曖昧な言い訳は通用しない。青褪めた様子で一歩ずつ後退する慎介に、将斗の容赦ない追及は続く。

「なのに佐久は、七海の制止を一度も聞いてやらなかった。最初から最後まで、自分のことしか考えていない」
「そ、それは……その……」
「おまえは謝罪して楽になりたいのかもしれない。自分の口から七海に説明することで、許されたと思いたいのかもしれない」

 七海を抱きしめたまま慎介を叱責する将斗に、『なるほど、そうだったんだ』とひとり納得する。

 自分のことなのにどこか現実感がなく他人事のように思うのは、慎介に投げつけられた心ない言葉から、『今すぐ逃げ出したい』と強く思うがゆえの防衛反応なのかもしれない。逃げたくても逃げられない状況から目を背けるために心をシャットダウンしたせいで、心と身体が正常に動いていない気がする。

「けどその利己的な考えが七海をこんなにも傷つけてる」

 七海の心と思考がぼんやりと霞がかっているぶん、将斗が慎介をきつく叱ってくれる。力強い腕と声に包まれた七海は密かに安堵していたが、対する慎介はどこまでも自己中心的だった。

 本当に、自分はこの人のどこが好きだったのだろうと不思議に思うぐらいに。

「七海は強い女性です。傷つくような可愛げがあったら、俺は……!」
「もういい」

 なおも捻じ曲がった主張を繰り返そうとする慎介に、とうとう将斗の我慢が限界を迎えた。

 たった四文字の音を発しただけなのに、二月の底冷えする気温がさらに急激に低下する。氷点下の空気を感じてガバッと顔を上げると、七海を抱きしめる将斗の額に薄く青筋が浮かんでいた。

 誇張ではなく本当に血管が切れそうなほどの怒りを感じているらしい将斗に、七海の安心感が一瞬で吹き飛ぶ。咄嗟に「まずい」と思う。

「七海の良さに気づこうともしない奴とは、価値観が合わない。これ以上話しても時間の無駄だ」
「社長……っ!」

 口調こそ冷静だが、声も表情も纏う空気もどす黒い怒りで満ちている。このままでは将斗が慎介に殴りかかってしまうのではないかと思い、将斗のワイシャツとスーツを必死に掴んで制止する。

 しかし七海が想像するよりも、将斗はずっと理性的だった。慎介に掴みかかりそうな気配はあるものの、細身の彼を体格のいい将斗が殴ってしまえば怪我をさせかねないと理解しているらしく、実際には手を出す様子は見受けられない。

 ただし言葉の通り、これ以上話し合うつもりもないようだ。

「俺は七海と違ってそこまで優しくない。佐久の一方的な独り言を大人しく聞いてやるほど暇じゃないし、寛大でもない」
「……」
「だから二度と七海の前に現れるな。次におまえが七海の視界に入ったら、俺は今度は本気で殴ってしまうかもしれない」
「ちょ……!」

 会話の終わりを告げる台詞を聞いて安堵しかけた七海だったが、将斗が並べた言葉が、二度と現れるな、視界に入るな、殴る、と穏やかじゃないフレーズばかりで、一瞬ぎょっとしてしまう。

 騒ぎを聞きつけて集まり出した人々に過激な発言を聞かれたくない、そのワードは企業のトップである将斗が口にすべきではない、と慌ててしまう。

 しかし七海と同じように慎介に対する感情の一切をシャットダウンすると、将斗も彼への興味をすぐに失ったらしい。慎介から視線を外し、代わりに七海の方へ向き直ると、顔を覗き込んできてにこりと優しい笑顔を浮かべる。

「疲れたな、七海。帰ろうか」
「しゃ、社長……社内ですので名前は……」
「ん? もう仕事は終わっただろ?」

 将斗が慎介の存在を無視して七海に頬をすり寄せてくるので、思わずあわあわと取り乱す。

 退社する人や残業前の腹ごしらえをする人、コンビニエンスストアの中にいる別の会社の人たちの視線まで集め始めている。もちろん怒り狂う発言よりはましだと思うが、今ここで愛妻アピールや溺愛アピールは必要ないのに。

 それでも七海に抱きついたまま離れようとしない将斗に、もう早いところここから退散しようと思考を切り替える。将斗への説教は社長室に戻ってからだ。

「七海」

 将斗のジャケットを掴んでエレベーターに向かおうとすると、ふと慎介に呼び止められた。

 また何か言われるのかとビクビクする七海だったが、おそるおそる振り返ってみると、慎介は腰を九十度以上折り曲げて七海に頭を下げていた。

「本当にごめん。今までありがとう。七海にも、幸せになってほしいと思う」

 たった一つの動作とたった三つの言葉だった。だが深く頭を下げた慎介の行動が、苦しい呪縛からいつか七海を解放する兆しのように思えた。

 もちろんすべての出来事をすぐに忘れることはできないだろう。二か月の時間をかけてもう忘れたと思っていたのに、慎介の言葉で七海はあの時の痛みを一瞬で思い出した。逃げることも拒否することもできないほどの衝撃を受け、その場を立ち去ることさえできなくなった。それぐらい、見えない傷は根が深かった。

 それでもいつかはちゃんと立ち直れる気がする。七海がそう思えたのは、慎介がこうして謝罪して頭を下げてくれたからかもしれない。

「慎す……」
「返事なんてしてやらなくていいぞ、七海」

 七海も言葉をかけようとしたが、将斗の大きな手に顎の先を掴まれてぐいっと顔の方向を変えられた。もちろん声も出せないままである。

 最後の言葉も与えてやらない。――たった一言すら恵んでやる必要はないと言わんばかりの将斗の態度に、七海はひとり絶句する。

 だが代わりに見つめ合った将斗の表情が拗ねた子どものように不満げだったので、七海もそれ以上慎介に情けをかけることは諦めた。

「両親と新しい恋人に感謝しろよ、佐久。今後おまえを助けてくれる〝大事な人〟を見誤るな」
「はい……。……失礼します」

 七海の代わりに将斗が声をかけると、一言だけ残して踵を返した慎介がエントランスホールからふらふらと外へ出ていった。

「……」

 ――慎介と、完全に決別した。

 だから慎介のことはもう忘れる。七海を捨てて傷つけた男のことなどもう思い出さない。もう考えない。

 その代わり七海に抱きついてずしりと体重をかけてくる、この大型犬のような上司を早急にどうにかしなければならない。

「あ、あの……社長、ありがとう、ございます」
「本当にな、心臓止まるかと思ったぞ」
「ごめんなさい。えっと……とりあえず社長室うえに戻りましょう。今ピザまん買ってくるので……」
「ばーか、そんなのどうでもいいよ」

 将斗の腕から逃れてコンビニへ引き返そうとする七海だったが、その直前で腕を引っ張られて身体を引きずられた。進行方向と反対側に力を加えられた七海は、もつれそうな足を必死に動かしてどうにか将斗の動きについていく。

「残業は明日にするぞ」
「え、でも……」
「次に野々宮ののみやに行くのは、再来週だろ? 大丈夫だ、明日朝イチでやれば午後には各部署に指示も出せる」

 事の次第を遠巻きに眺めていた人々の視線から遠ざかり、退社のためにエントランスの入り口に向かう社員の流れを逆行する。「社長、お疲れさまです」と声をかけてくる社員に「おう、お疲れさん」と返している将斗の動きに従い、退社する社員がいなくなって上階行きへ切り替わったばかりのエレベーターに滑り込む。

 一旦社長室に戻っていたためすでにコートを脱いだ将斗と、なぜかトレンチコートを着ている七海の組み合わせに、すれ違う社員たちは少し不思議そうな顔をしていた。

 その視線を適当に受け流して涼しい笑みを浮かべていた将斗だったが、行き先階ボタンを押して扉を閉めた瞬間、急に七海を抱きしめてきた。

 今度は先ほどとは違う。強さはあるけれど丁寧に、七海をなによりも大切な存在のように扱う、ひたすらに優しい抱擁で。

「一人にしてごめんな、七海」

 将斗がぽつりと発した言葉に、シャットダウンしていた感情が突然活動を再開する。停止していた心がゆっくりと動き出して、とけて、ほぐれて、崩れていく。

「我慢しなくていい、好きなだけ泣け。俺の胸ならいくらでも貸してやるから」
「……っ」

 将斗の優しい声が最後まで紡がれる前に、視界がじわりと強く滲む。

 職場で泣いてしまうなんてみっともないから嫌だったのに、絶対に泣くまいとすべての感情に蓋をして耐えていたのに。

 大きな手のひらに背中をぽんぽんと撫でられると同時に、将斗の白いシャツとスーツの境界線がゆらゆら歪み始めた。

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