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◆ 第2章
10. 結婚は縁を結ぶもの
しおりを挟む「あけましておめでとうございます、社長」
「ああ、おめでとう。今年もよろしく」
実家まで車で迎えにきてくれた将斗を玄関先で出迎えると、お辞儀とともに新年の挨拶をする。
本当はリビングか客間に上がってもらってしっかりと将斗をもてなしたいところだが、住宅街は大きな道路でも道が狭く、長時間は将斗の車を停めておけない。それに次の予定も控えているので、長居もしていられないだろう。
週末は将斗のマンションで過ごす流れに巻き込まれた七海だったが、話し合いの末、とりあえず新年は実家で迎えることとなった。
その後元旦からの三日間は将斗の家に滞在し、一月四日と五日は柏木家に戻ってゆっくりと過ごす。そして仕事が始まった次の週末からは、本格的に将斗の家で過ごすことが決まった。
リアドアを開けて、玄関に用意していた三つの段ボールと小さめのキャリーバッグを積み込む。中身は週末将斗の家で過ごすために必要な衣類や生活用品、外出用のコートやブーツやバッグ、月曜日にそのまま出勤できるよう仕事で着るセットアップとブラウスが二揃い。これだけ用意すれば、当面は困ることはないはずだ。
「社長、本年もどうぞよろしくお願いいたします」
将斗に荷物を積んでもらってドアを閉じると、玄関先へ両親が見送りに出てきた。七海と同じく新年の挨拶をする稔郎に、将斗がにこりと笑顔を返す。
「こちらこそよろしくお願いします。お義父さん、お義母さん」
「……お義父、さん……」
上司に『お義父さん』と呼ばれたことに動揺したのだろう。
寡黙で表情の変化も少ない稔郎は、家庭内では威厳のある父親だ。そんな彼があからさまに戸惑う姿を目にすると、ここ最近七海は父の調子を狂わせることばかりしているように思う。
内心反省する七海だったが、
「七海をよろしくお願いします」
と頭を下げる父は、思ったよりは穏やかな表情をしていた。
「もちろんです。三日の夜には帰りますので、ご安心ください」
「支倉社長、お寿司は好きかしら? この近くに美味しいお寿司屋さんがあるんですよ」
「そうだな。……どうですか、社長。七海を送ってくださったときにでも」
「いいですね、もちろん寿司は好きですよ。楽しみにしてますね」
将斗と両親がにこやかに会話する様子をそっと観察する。
母はいつになく楽しそうで、父も意外と嬉しそうな表情だ。しかし両親よりも、将斗の方がその数倍嬉しそうに見えるのが不思議である。偽装結婚の相手やその両親に会って元旦から話に付き合わなければならないなんて、普通なら苦痛に感じそうなものだが。
「七海。会長や奥様にご迷惑をおかけしないようにな」
「うん、行ってきます」
立ち話を適度なところで切り上げ、年末のうちに用意していた手土産を最終確認すると、将斗の愛車の助手席に乗り込む。
日本製なので右ハンドルではあるが、ドイツメーカーの黒いセダンはいつもぴかぴかに磨かれているため、扉の開閉にも足を置く場所にも気を遣う。「土禁じゃないからそのままでいい」という台詞とともに車が動き出したので、七海は「はい」と返答しつつ玄関先の両親に手を振った。
今日はこれから、神奈川県にある将斗の実家へ向かって将斗の両親の元を訪ねる予定だ。急遽結婚式に参列してもらったというのに、年末の忙しさも相まってまったく会いに行けていなかったので、報告とお詫びを兼ねて新年の挨拶に向かうのだ。
「運転よろしくお願いします、社長」
「……社長?」
「……あ。……将斗さん」
「ああ」
いつもの癖でつい『社長』と呼んでしまう。だがプライベートの時間は名前で呼ばなければ反応しないと言われていたのだった。
慌てて訂正すると、将斗が少し嬉しそうに微笑む。
こんな調子ではいけない。将斗の両親を騙すのは忍びないが、偽装結婚のボロが出ないよう注意しなければ、と気を引き締める七海だった。
* * *
元旦から皆活動的なのか意外と道が混んでいて、将斗の実家に到着したときにはお昼に近い時間帯だった。
通りに面した正門が自動で開くと、さらに進んだ先にあるひらけた場所に車を停める。将斗のエスコートに素直に従って大豪邸の中へ入ると、支倉建設グループの会長である将斗の父・将志と、母・凛子が二人を待ち構えていた。
「あけましておめでとうございます。会長、奥様」
「や~ん! 会いたかったわ、柏木さん!」
二人は常駐する警備員から連絡を受けて、息子夫婦の来訪を知っていたのだろう。しかし心の準備が不完全なまま二人に遭遇した七海は一瞬驚いてしまう。
それでもどうにか新年の挨拶を述べると、凛子が両手を広げて七海に飛びついてきた。
かなり若いときに将斗を産んでいるらしい凛子は、五十歳を過ぎているはずなのに今も女優のように若く綺麗だ。肌の艶やハリは一応二十代であるはずの七海より美しく保たれており、『美魔女』と呼ぶに相応しい。
七海は手にしていた菓子折りの紙袋が潰れるのではないかと焦ったが、いざ抱きつかれると手土産よりも先に自分の方が潰れそうになった。
「じゃ、ないわね! もう名字は支倉だし、私の娘だものね! 七海ちゃんでいいわよね?」
「凛子。七海君が窒息するだろう、離してあげなさい」
将志に冷静に指摘された凛子が「あっ、ごめんね」と少女のような声で謝罪してくる。これまた年齢と比例しない豊満でハリのある胸圧から解放されて息を吐くと、助け舟を出すつもりがないらしい将斗が楽しそうに笑い始めた。
「よく来たね、さあ上がって」
「はい」
ひとしきり騒いだ後に将志に促され、いつもなら応接室に通されるところを今日は家族が使用するリビングルームに通される。七海が将斗の妻となり、支倉家の一員となった証だ。
「あの、会長……!」
社長室の二倍ぐらいありそうな広いリビングに足を踏み入れると、革張りのアンティークソファに着座を促される。そこに座る前に、七海は将志に声をかけて勢いよく頭を下げた。
「この度は私の個人的な事情に社長を巻き込んでしまい、本当に……本当に申し訳ございませんでした!」
七海の謝罪に、向かいのソファに座ろうとしていた将志の動きが止まる。七海が手渡した手土産の紙袋を控えていた使用人に渡す凛子も、七海の隣に腰を下ろそうとしていた将斗の動きも、ぴたりと止まる。それでも七海は、謝罪の言葉を止めなかった。
本当はこれでも遅すぎるぐらいだ。七海はもっと早い段階で、後継者である将斗の人生設計を狂わせたことを支倉建設グループの長である将志に詫びるべきだった。
「本来であれば、社長にはもっと相応しい女性がいたはずです」
「……七海」
「社長の幸せな未来を、私が奪ってしまいました。私がもっと早く慎介さんの……婚約者の心変わりに気がついていれば、こんな事には……」
考えれば考えるほど、胸の奥から後悔の念が湧き上がる。
慎介に覚悟が足りなかったように、七海にも覚悟が足りなかった。結婚して家庭を築こうとしていたはずなのに、慎介の心変わりに気づけなかったし、彼の気持ちにまったく寄り添えていなかった。
そして七海の考えが足りなかったせいで、無関係の将斗を巻き込んでしまった。上司である将斗の未来を、七海が奪ってしまったのだ。
もちろん生涯にわたって縛り続けるつもりはない。だがこうなった以上、将斗の戸籍に傷がつくことは避けられない。大企業のトップであり支倉建設グループの御曹司である彼の結婚ならなおさら、まっさらな状態でスタートすべきなのに。他でもない七海が、彼の婚歴に傷をつけてしまうなんて。
「それは違うぞ、七海」
泣きそうな気持で佇んでいると、一歩近づいてきた将斗にそっと肩を抱かれた。その将斗が七海を包み込んで癒すような優しい言葉をかけてくれる。
「言っただろ? 俺は幸運に恵まれた、って」
将斗の問いかけに頷きかけて、直前で止まる。
確かに将斗は他人に『七海と結婚できて嬉しい』と熱烈に語っている。だから彼の台詞自体は、七海も聞いたことがある。
だが七海の後悔は、他人に向けた建前や結婚を偽装することに対してではない。自分の事情に将斗を巻き込んだことそのものが、七海の大きな後悔なのだ。
「七海と佐久が結婚したら、俺の片想いは終わるはずだった」
将志や凛子にどう謝罪すればいいのだろうか、と立ち尽くしていると、優しく手を引いた将斗が七海をソファに座らせてくれた。
「七海の結婚を見届けたら、俺はもう誰とも恋愛なんてしないつもりでいた」
「……え」
そのまま七海の指先を包み込む大きな手のひらと、そこに続いた意外な告白に驚いて思わずパッと顔をあげる。
「結婚したいと思うほど惚れた相手は、七海がはじめてだった。これから先、誰かを同じぐらい好きになれるとは思えなかった」
将斗が真剣な表情で語る言葉にドキ、と心臓が跳ねる。台詞自体はいつもと同じ『以前から七海が好きだったアピール』だが、いつもとはなんとなくニュアンスが違う。
不思議な違和感を覚えて瞠目する。そんな七海に声をかけてきたのは、向かいのソファに腰を下ろした将志だった。
将斗と似た野性的で男性らしい雰囲気を纏う将志が、息子に負けず劣らず長い脚を組む。さらに肘掛けにゆったりと頬杖をつき、楽しそうに目を細めて七海と将斗の姿を眺めてきた。
「もう二年ぐらい前になるか。それ以前から『早く結婚しろ』『良い人はいないのか』と将斗をせっついていたんだが、いつも適当にはぐらかして逃げるものだから、あるとき『いい加減にしろ』と怒鳴ったことがあった。そのせいで大喧嘩になってな」
「え、会長と社長が……ですか?」
「そうだ」
からからと笑う将志の告白に、目を見開いて驚く。
将斗も将志も身長が高くがっしりとした身体つきだが、他人に対して怒鳴るような粗暴なことはしないタイプだ。おそらく己の背格好で大声を出せば相手に強い威圧感を与えると理解しているので、恐怖を抱かせないよう丁寧に接することを心がけているのだろう。
そんな二人が怒鳴って喧嘩をするだなんて、七海には想像も出来ない。将斗が大きな声を出す姿を見たのは、挙式のときに七海と結婚すると宣言したときがかなり久しぶりだった。もちろんあれからは、一度も将斗の大声を聞いていない。
「そしたら今までのらりくらりとかわしてきた将斗が『惚れた相手がいるから、他との結婚は考えられない』と白状した。しかも『その子が自分を選ばなかったら、親父の決めた奴と結婚してやる』と言い出したんだ」
「!?」
将志の台詞に驚いて、隣に座る将斗の表情をパッと見上げる。
目が合うと優しげに微笑む将斗の表情から、そのやりとりが本当に存在したことは理解できたが……。
(社長、二年も前から仕込んで……?)
いや、そんなはずはない。七海と慎介が付き合い出したのは今から一年ほど前だ。二年も前から七海が挙式の場で花婿に逃亡されることを予想して、その救済のために嘘を仕込んでいたとは考えにくい。
ということは、親に結婚をせっつかれる状況から数年間逃れるために、結論を先延ばしにできる嘘をついたということか。――親子喧嘩までして?
いや違う。
もしかして将斗には、本当に誰か……別の好きな人がいる?
「相手が七海君だというのは知らなかったが、将斗がそこまで言うなら、と私も待つことにした。だから将斗が自ら七海君と結婚したいと言い出したときに確信したよ。将斗は『成功した』んだな、と」
「……」
将志が納得したようにうんうんと頷いているが、七海は逆に疑問が増してしまった気がする。
もしや将斗には忘れたい人が……忘れられなくて困るほど愛している人がいるのではないか。どうせその相手と結ばれないのなら、望まない相手と結婚する前に、目の前で困っている秘書を助けてやろう、と考えたのではないか。
七海が深い思考に沈む直前、将志が組んでいた足を解いて七海の方へ身を乗り出してきた。
「七海君が将斗の手を取ってくれて感謝しているよ。あの場で拒否されていたら、将斗は私が決めた相手と結婚していたはずだからね」
「好きでもない相手とな」
将志の台詞に将斗がそっと言い添える。楽しそうに七海を見つめる視線にどう反応していいのかわからなくなった七海は、一旦将斗の好きな人については脳の端に寄せることにした。
その代わり、別の謝罪を紡ぎ出す。
「それと、あの……すぐにご挨拶に伺うべきところ、このように年を跨ぐことになってしまい本当に申し訳ございませんでした」
本来ならばもっと早く説明と謝罪に訪れるべきだった。将斗から『正月で良いだろ』と言われてしまい、それを鵜呑みにして遅くなってしまったが、七海一人でも将志にアポイントメントを取って支倉夫妻に会いに来るべきだったのに。
「あ。それはいいのよ、七海ちゃん。私、結婚式の次の日から一昨日まで韓国に行ってて、日本にいなかったの」
申し訳なさに縮こまる七海に助け船を出してくれたのは、いつの間にか将志の隣に腰を下ろしていた凛子だった。
ふふふ、と楽しそうに微笑む母の姿を見て、将斗が呆れた声を出す。
「またアイドルの追っかけか?」
「将斗も見る? 今ハマってる子、若い頃のまーくんに似ててワイルド系なの」
「見ねーよ……」
「凛子。七海君の前で『まーくん』はやめてくれないか」
「え~?」
まーくん、というのは、凛子が将志に対して使うあだ名らしい。熟年夫婦の仲睦まじい様子とそれを見て呆れる将斗たち親子に七海がくすくす笑うと、コホン、と咳払いをした将志が表情を改めてにこりと微笑んだ。
「柏木部長からはすぐに電話をもらってな、直接会って謝罪をしたいと言われたんだ。すぐには予定を組めなかったから年末は見送らせてもらったが、謝罪の代わりに旨い酒を要求しておいたよ。そのうち柏木家と支倉家で飲みに行くことにしようか」
「……はい」
「結婚は縁を結ぶものだ。七海君が将斗のために尽くしてくれることは私もよく知っているし、将斗の結婚相手には申し分ないと思っている。それに柏木部長も誠実な男だからな。柏木家と縁を結べて、私も凛子も嬉しいよ」
将志の満足げな表情にじんと胸を打たれる。彼は七海だけではなく父・稔郎のことも認めて評価してくれる。そのうえで〝縁〟を結べてよかったと言ってくれるのだ。
もちろんこの結婚が偽装であることも、一年後には切れてしまう縁であることも承知している。その事実を伏せて目の前の二人を騙している罪悪感もある。
だがたとえひと時であっても、二人のような素敵な人たちと、そして将斗と縁を結べたことは、七海にとっても幸福なことだと思う。
「七海君、将斗のこと末永くよろしく頼むよ」
「……こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
将志の宣言にゆっくりと頭を下げる。
未来のことはわからないけれど、今はこの縁に感謝したい。これまで以上に将斗に尽くしたい。
下げた頭をゆっくりと起こすと、斜め向かいに座っていた凛子と目が合う。その彼女が、にこにこ笑顔のままパンと手を打った。
「それじゃ、お話も済んだことだし、ランチにしましょうか。今日は一生懸命作ったおせち料理よ」
「さも自分で作ったように言うんだな。どうせ作ったのはお袋じゃないんだろ?」
「そう、シェフが一生懸命作ったおせち料理よ☆」
凛子の無邪気な笑顔にそれまでの緊張がほっと解れる。
二人を騙していることは変わらないので申し訳ない気持ちは拭えないが、今は義両親の優しさに甘えることにした七海だった。
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