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◆ 第1章
3. 本気ですか?
しおりを挟むチャペルを出てすぐ隣にある控室に誘導されると、そのまま将斗と二人きりで取り残される。どうやら介添係の女性は、担当のウエディングプランナーを呼びに行ってくれたらしい。扉が閉まって空気がシン、と静まり返ると、それまで黙っていた将斗が盛大に吹き出した。
「ふはっ! ハハハッ……!」
身体をくの字に曲げて腹を抱える将斗に、恥ずかしさで消え入りたい気持ちを抱く。
「おま、結婚式の真っ最中に花婿に逃げられるとか……! くくく……」
「笑わないで下さいません……!?」
チャペルを出るまでは真剣な表情を崩さずにいてくれた将斗だったが、やはり内心では七海の悲劇を面白がっていたらしい。いつもずぼらでいい加減な将斗を叱ってばかり、なんの面白味もなく地味で真面目一辺倒な七海のありえない失態に笑いが止まらない、といった様子だ。
「ああ、そうだな。悪い悪い」
涙が滲みそうになっている表情を悟らせまいとそっぽを向くと、笑いを引っ込めた将斗が謝罪の言葉を零す。そっと伸べられた将斗の手が、丁寧に編み込まれて綺麗に結い上げられた髪をぽんぽんと撫でた。
「あの場から逃げずに一人で乗り越えようとしただけで、柏木は十分えらいよ。さすが俺の秘書だ。泣かずによく頑張ったな」
「社長……」
いつも七海をからかってばかりの将斗の慰めに、今度は別の意味で涙が滲みそうになる。
顧客や取引先の前ではシャンとしているくせに、社長室に戻れば不真面目でぐうたら、一切のやる気が感じられなくなる将斗なのだ。
慰められたところで反発心が生まれて、見栄を張りたくなるだけ。――そう思っていたのに、七海の虚勢と悔しさを受け止めてくれる大きな手とそこから感じる温度に、ぼろぼろに砕かれた心が少しだけ潤う気がした。
しかしこれ以上将斗の手を煩わせるわけにはいかない。七海としてはあの場を乗り切る手助けをしてくれただけでも十分ありがたいのだ。ここから先は自分の力で、この非常事態を乗り越えなければならない。
「空気を壊さず挙式の場を切り抜ける知恵をお貸しいただき、本当にありがとうございました。後日改めてお礼をさせて頂きたいと思いますが、先にウエディングプランナーの方と相談をしてきてもよろしいでしょうか? 今からキャンセルが間に合うかわかりませんが、とりあえず披露宴の中止を……」
とにかく今は、この後に予定していた披露宴中止の対応をしなければならない。挙式に参列してくれたゲストはもちろんのこと、披露宴から参加予定の親族や友人、仕事の関係者やお世話になっている知人が大勢いるのだ。
花婿がいない以上、披露宴は行えない。ならば七海をはじめとした柏木家、そして慎介を除いた佐久家の面々は、ここまで足を運んでくれた人々に事情を説明して参列者全員に謝罪をしなければならないだろう。
「は? おまえ、何言ってるんだ?」
ところが七海の決意を聞いた将斗が、なぜか不機嫌な声を発する。いかにも不服と言った口調を不思議に思って顔を上げると、将斗が呆れた表情で七海を見下ろしていた。
「中止にする必要はない。披露宴もこのまま続ける」
「は……はい……?」
思いもよらない将斗の発言に思わず声がひっくり返る。
理解が追いつかない。首をそっと傾げると、七海に一歩近づいた将斗がニヤリと口の端をつり上げた。
「柏木、さっき俺と結婚するって誓ったよな?」
「え……? でも、だってあれはその場しのぎの嘘で……」
「俺がそんな無意味な嘘つくわけないだろ。本気に決まってる」
「!?」
将斗の衝撃的な発言に再び固まってしまう。
なにかの冗談だろうか? 今の七海に将斗のからかいや遊びに付き合っている時間はないというのに。
「参列者の大半は、結婚相手が変わってもさほど問題には思わないだろ? 柏木の友人や親戚は佐久じゃなくても祝福してくれるだろうし、おまえも佐久もうちの社員なんだから、仕事関係者はみんな俺のこと知ってるしな」
「慎介さんの親族や友人にしてみたら、社長は他人じゃないですか……」
もうどこからツッコミを入れていいのかわからない七海は、とりあえず最後の言葉だけを拾って反論を試みた。しかし将斗は七海の意見を聞いてもため息をつくばかり。
「花嫁置いて逃げた奴の身内のことまで、俺が知るかよ。そいつらが参加したいならすればいいし、帰りたいなら帰ればいい」
どうやら将斗は、本当にこの後の披露宴も続行するつもりらしい。唖然とする七海の前で、腕を組んだ将斗が小さく唸る。
「あとは俺の身内か。まあ呼べば今から来る奴もいるだろうが、そこはいなかったらいないでもいいだろ」
「社長……? ご自身のお立場、わかっておいでです……?」
「俺の立場なんて大したものじゃない。それより今から披露宴をドタキャンして、式場にも参列者にも迷惑かける方が問題だ。中止にすればこれまで結婚を報告してきた奴らにも白い目で見られる。会社としても外聞が悪いし、なにより縁起が悪い。おまえはもちろん、普段から一緒にいる俺までいい笑い者だ」
あくまで披露宴開催の方向で話を進めようとする将斗の提案に、驚き半分呆れ半分の気持ちで問いかける。だが将斗は七海の懸念すら軽く受け流し、続行を前提に状況の立て直しを図ろうとしているようだ。
けれど確かに、将斗の言い分にも一理ある。
『柏木七海』は支倉建設の代表取締役社長である『支倉将斗』の秘書を務めている。就職した初年度から秘書室へ配属となり、一年目は先輩秘書に付いて勉強と研修、二年目は人事部長の秘書補佐を勤めていたが、三年目に当時の社長秘書が産休に入ったことにより七海が後任として抜擢された。
以来三年間、膨大な仕事量に食らいつき将斗にこき使われてきた七海は、社内外を問わず〝将斗の女房役〟として認識されている。七海自身にもその自覚がある。
つまり将斗の成功は七海の成功であると同時に、七海の失態は将斗の失態にもなりうるのだ。七海が結婚式をキャンセルして多くの人に迷惑をかけたとなれば、将斗の社会的評価にも影響する――と言われれば、絶対にあり得ないとは言い切れない。
「だから柏木。俺に恥をかかせたくないなら、おまえはこのまま今夜を乗り切ることだけに集中しろ」
「で、ですが……」
「別に難しいことじゃない。いいか? おまえは想定外の事態に乗じて思いもよらない求婚をされた花嫁だ。片想いをこじらせた上司からの突然の申し出を断れず、俺の想いを受け止めざる得なくなった秘書として振る舞えばいい」
「社長が、私を……?」
将斗が提示してきた偽りの設定に、訝しげに首を傾げる。どう考えてもあり得ない、明らかに嘘だと分かる作り話に言葉を失っていると、七海の表情を確認した将斗が一瞬表情を曇らせた。
「っ……そういう設定、だ」
ほんの少しムッとした表情を見せた将斗が、なにかを言いかける。だがそれは呑み込むことにしたらしく、代わりにため息交じりで『設定』の一言を吐き出された。
いつも強気な将斗にしては珍しいやや弱腰の態度が気になる七海だったが、それ以上に気になることがあった。
「ですが、それでは社長が……」
七海は将斗の女房役として認識されているが、未来永劫、何をするにも運命共同体というわけではない。
確かに結婚式の最中に花婿に逃げられ、方々に迷惑をかけて謝罪して回ったなど、醜聞もいいところだ。懇意の取引先や仕事関係者にも結婚の報告をしているのだから、彼らが七海を心配したり、逆に面白おかしく騒ぎ立てることもあるだろう。
だからこそ、七海としては今回の件と将斗が無関係であると印象づけておきたい。業務上将斗の都合に七海が巻き込まれることはあっても、七海のプライベートな事情に将斗を巻き込むことなどあってはならない。
自分の失態が原因で、将斗のプライベートを奪うことだけは絶対にしたくない。まして仕事には一切関係ない『恋愛面』で彼を縛りつけるなど、もってのほかだ。
将斗にもその意図は伝わっただろう。しかし自分の都合で将斗の未来を奪いたくないという気持ちは確かに通じたはずなのに、彼は七海の意思とは違う方向に舵を切った。
「わかった。じゃあ少し時間を空けて『やっぱり上手くいかなかった』と言って離婚すれば、納得するんだな?」
「え? ……はい?」
「まあ確かに、今の時代バツの一つや二つさほど珍しくはないもんな」
「いえ、そういう意味じゃ……!」
将斗の的外れな提案に狼狽する七海だったが、口を開いた瞬間、控室の扉がコンコンとノックされた。
室内に響いた高い音にハッと振り返ると、扉の外から『柏木さま……?』と不安そうな女性の声が聞こえてくる。声の主は今回の挙式と披露宴の計画から準備、実際の進行まで一手に担ってくれていたウェディングプランナーのものだ。
「とにかく、披露宴を台無しにして参列者を失望させたくなかったら、ここは俺に任せてくれ」
女性の声を聞いた将斗も、秘密の作戦会議を一度引っ込めるべきだと悟ったらしい。有無を言わさずそう宣言した将斗が、扉に向かって歩き出す。
扉を開ける直前、ふと首だけでこちらに振り返った将斗がニヤリと笑った。
「ま、その前に乗り越えなくちゃならない修羅場があるんだけどな」
「え……?」
意味深な発言と同時に扉のドアレバーに手をかけた将斗が、それをがちゃりと引き下げる。扉を開いた先に広がっていた光景を見た七海は、彼の言葉の意味をすぐに理解した。
将斗の言う通り、そこは修羅場の真っ只中だった。
「これはいったいどういうことですか、佐久さん!」
「わ、我々だって混乱してるんだ! まさか慎介がこんなことをしでかすなんて……!」
「私たちだって、まさか七海がこんな仕打ちを受けるとは思ってもいませんでしたよ!」
(ああ、あああ! お父さん大激怒してる!)
友人たちや他の親族たちはチャペルがあるフロアを出て、ホテルのロビーや披露宴会場であるホールへ先に移動したのだろう。
その場に残っていたのは七海の両親と慎介の両親だけだったが、両父親たちは今にも掴みかかりそうなほどの苛立ちと興奮と困惑――まさに一触即発状態だった。
女性ウェディングプランナーやチャペルの女性スタッフは離れるように指示されているのだろう。いつの間にかやってきていた結婚式場の管理係と思わしき男性とブライダル部門の責任者と思わしき男性が、両家の父親たちの間に割って入っている。
緊張の現場を目の当たりにした七海も言葉を失って立ちすくんだが、そこに堂々と足を進めたのは他でもない将斗だった。
「まあまあ、柏木部長。少し落ち着いて下さい」
「! 支倉社長……」
総務部長である稔郎にとって、社長である将斗は二回り年下の上司である。目上の者にまで迷惑をかけたと知ると、それまで憤慨していた父の激昂が少しだけ和らいだ。
そもそも将斗が披露宴からではなく挙式から参列していた理由は、彼に披露宴で祝言の挨拶をお願いしていたからだ。
七海と慎介の結婚を職場の代表、そして共通の上司として見届けるはずだった将斗にとんだ無駄足を運ばせてしまったとあれば、稔郎も申し訳ないと地に額を擦りつけたくなることだろう。
「この度は本当にお見苦しいところを……。身内の問題に巻き込んでしまい、まったくお恥ずか……」
「頭を上げてください。柏木部長は、俺の義父になるのですから」
謝罪の言葉を並べて深々と頭を垂れる稔郎に、将斗さらりと言い放つ。堂々とした台詞に驚いたのは、将斗以外のその場にいる全員だった。
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