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◆ 第1章
2. 二人目の乱入者
しおりを挟む新婦のゲスト席から立ち上がった人物を視界の端に捉えた瞬間、息を吸いかけていた七海の呼吸が止まった。
「えっ……」
発する寸前だった言葉が間抜けな声に反転する。だがその男性に七海の困惑を気にする様子はなく、中央の通路に歩み出ると、バージンロードの上を進んで悠々とこちらへ向かってくる。
少し光沢のあるブラックのスリーピーススーツとよく磨かれた黒い革靴だけは、七海もあまり見慣れない。けれど普段と違うのは服装だけで、左サイドを後ろに軽く流した髪型も、すこし釣り上がった目も、すっと通った鼻筋も、形が綺麗な口元も、もちろん凛としてよく通る声も、いつもと同じ。
「社長……?」
七海が毎日、慎介や稔郎よりも多くの時間を共にしている相手。秘書として付き従っている七海の上司。
我が社の顔ともいえる若き社長、支倉将斗が、優雅な足取りで七海の傍へと歩み寄ってくる。
将斗の足の長さなら約十歩の距離が、あっという間にゼロになる。そうして目の前に立った将斗が、突然のことに困惑して硬直する七海に――否、この場にいる全員に、思いもよらない宣言をする。
「柏木が佐久と結婚しないなら、俺がする」
将斗は艶と深みのある低い声質だが、普段の話し口調は至って穏やかだ。しかしたまに大きな声を出すと身体の芯に響くような重さを感じられるので、秘書として常に傍に身を置く七海でさえ少し驚いてしまう。
その珍しく大きな声で高らかに告げられた言葉に、びっくり仰天して高身長の将斗をぽかんと見上げる。
「え……っと? 社、長……?」
だが七海と目が合った将斗は、にやりと口角をつり上げて微笑むのみ。驚きに瞠目して動けなくなった右手を掬いとると、おもむろに身を屈めて顔の位置を下げる。
将斗の唇が白いグローブ越しに七海の手の甲に寄せられる。音もなく口付けを落とした将斗が、そのまま視線だけで七海の顔を覗き込んでくる。
「柏木。俺と結婚してほしい」
ゆっくりと――けれど確かに紡がれた求婚の言葉と将斗の熱い視線に、どくんと心臓が跳ねる。しかし驚きすぎて彼の言葉の意味はスッと頭に入って来ない。ただ困惑するだけで、声の一つも発せない。
固まって動けなくなった七海に小さな笑みを残すと、一度視線を外した将斗が、新郎席の最前席に座る一組の男女に視線を向けた。
「構いませんよね、佐久さん?」
彼らは先ほど七海を置き去りにしてこの場を立ち去った佐久慎介の両親、新郎の父親と母親だ。
突然話題を振られた慎介の父がオロオロと視線を彷徨わせる。慎介の母も驚いて硬直している。土壇場になって息子が挙式の舞台から逃亡し、しかも事情を一切聞いていなかったとなれば、彼らも困惑の真っ只中にいることだろう。
だが将斗には一切の遠慮がない。
「まあ、花嫁を置き去りにした花婿一家に、拒否する権利はないと思いますが」
ばっさりと切り捨てる将斗の言葉に、慎介の父がグウと言葉を詰まらせる。他人に指摘されて初めて、己の息子の非常識さを思い知ったのだろう。
だが将斗を見つめる慎介の父の視線は、見ず知らずの他人に息子を糾弾されるいわれはない、とでも言いたげに不機嫌だ。
「あの、あなたは一体……?」
「ああ、これは失礼。私は支倉建設代表取締役社長を務めています、支倉将斗と申します」
「取締役……社長!?」
慎介の父も、目の前にいる人物が息子が務める会社の社長だと、ようやく気がついたらしい。
そう。支倉将斗は七海や稔郎、慎介が勤務する〝支倉建設〟の社長である。
支倉建設はオフィスビルや医療施設、商業施設といった規模の大きな建設事業から、マンションやアパート、個人の住宅や別荘といった細やかな建築事業、さらには都市開発事業や環境エネルギー事業まで幅広く手掛ける、日本屈指の総合建設会社だ。
そして秘書室に在籍する七海の現在の配属先こそが社長秘書――つまり七海と将斗は、勤務時間の大半で行動を共にしている『ビジネスパートナー』なのだ。
「ご子息は柏木を置いて、別の女性とどこかへ行ってしまいましたよね?」
「そ、それは……」
「それなら異論はないはずです。彼女は、俺がもらいます」
「!」
将斗がきっぱりと宣言した瞬間、新婦のゲスト席の後方からきゃあぁっ! と歓声が上がった。その声が七海の高校時代からの友人らによる興奮と歓喜の声だとすぐに気がついたが、当の七海本人としてはまったく喜べない。将斗の突然の謎発言と謎行動に、理解が追いつかず反応もままならない。
目を見開いたまま凝固していると、振り返った将斗が七海にまた一歩近づいた。
その堂々とした態度と余裕を崩さない微笑みに圧倒されて一歩後退する七海だが、やはり将斗の足が長い。あっという間に距離を詰められたと気づく暇さえなく、耳元に将斗の唇が近寄る。
「話を合わせろ」
「しゃ、社長……?」
七海の顔のすぐ横で、七海にしか聞こえないほどの声量で穏やかに告げられたのは、いつもと同じ絶対命令だ。
秘書の懸念や心配など気にもせず、意見や忠告も端から聞く気はない――圧倒的な威厳と風格で他者を魅了する、堂々たる姿。自信の表れ。
「ずっと、柏木が好きだった」
「……え」
「君の口から結婚することになったと聞かされて、諦めていたんだ」
そんな将斗がいつになく真剣な表情で語ったのは、思いがけない熱烈な告白だった。
瞠目して停止する七海の手を今一度掬い取る将斗だが、今度は手の甲へのキスはない。その代わり手首を掴んでぐいっと身体を引き寄せられ、そのままドレスごと腰を抱かれる。
ゼロになった距離といつになく真剣な表情に、またも心臓が飛び跳ねる。
「でも破談になるなら、もう遠慮はしない。絶対に幸せにするから、俺と結婚してくれ」
将斗の宣言と同時に、ゲスト席の後ろの方で再びキャアアァと歓声があがる。だがキャアアァじゃない。ある意味ではキャアアァなのだが、急展開の連続と思いがけない将斗の真剣な表情に、七海は何も反応できない。ただひたすら硬直し続けることしかできない。
カチコチに凍った七海の様子を確認した将斗が、表情を緩めてやわらかな笑顔を向けてくる。あまり見慣れない微笑みを間近で見つめてハッと我に返った七海だが、明確に返答する前に、将斗の視線は七海から外れていた。
チャペルの正面を向いた将斗が、成り行きを見守って狼狽えていた神父に式の再開を促す。
「続けてください」
「で、ですが……」
予定になかった展開に慌てふためいて一瞬拒否の姿勢を見せる神父だったが、ほどなくして従うべき相手を見定めたらしい。
普通ならどう考えても式場を予約してサービス料を払っている七海の意見を優先すべきだと思うが、つい先ほど耳にした〝支倉建設社長〟の肩書と将斗の纏うオーラや威圧感に屈したのかもしれない。コホン、と咳払いを一つ残すと、そのまま挙式の進行を再開する。
「それではご新郎様――病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、あなたは妻・七海を愛し敬い慈しむと誓」
「誓います」
尋ねられた文言に頷くことで合意を示す〝誓いの言葉〟は、新郎が新婦に永遠の愛を捧げるもの。それをあっさりと受け入れて認めた将斗の横顔を呆然と見つめる。
(なんで食い気味……?)
一切の躊躇いがない将斗の態度に疑問が湧く。
オイルが足りないブリキ人形のように頸椎からグギギと変な音が鳴った気がしたが、ちらりと目線だけでこちらを見た将斗は、七海の困り顔を見つけても小さな笑みを零すだけ。
その表情はどう考えても『異常事態に異常事態が重なったせいで混迷の極みに達した己の秘書を、ここぞとばかりにからかってやろう』と考えているようにしか見えない。
「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、あなたは夫……を愛し敬い慈しむと、誓いますか」
神父は将斗の正確な名前がわからなかったのだろう。ウエディングプランにも打ち合わせにもない展開なのだから、当然といえば当然である。ふわっとぼかされた将斗の名前と表現に何と返答していいのか分からず「ええと」「あの」と口籠もっていると、隣にいた将斗がぽつりと何かを呟いた。
「七海」
「は、はいっ?」
それが自分の名前だと気付いた七海は、驚きのあまり咄嗟に返答の声を発してしまう。
将斗は秘書である七海をいつも名字で『柏木』と呼び捨てており、これまで下の名前など一度も呼ばれたことがなかった。そのせいもあって、驚きのあまり声が見事に裏返った。
「あ、まって! 今のちが……!」
しかし七海の発声を〝肯定〟と捉えたのか、気づいた七海が訂正する前に神父が次の段階に進んでしまう。よもやこの状況が面倒くさくなったのでやけくそで適当に済ませたのではないか、とすら思う七海だ。
だが今からでも無理矢理中断すべきか、とりあえずやり過ごすべきか、と考えているうちに挙式はあっという間に終わりを迎える。
おそらく指輪交換の行程をまるっと飛ばしたせいもあるだろう。高身長で男性らしい体つきの将斗と、細身で中性的な印象の慎介の体格が明らかに違うことから、指輪のサイズも異なると神父が判断してくれたのはある意味正解だった。正直、今の七海は、慎介と相談して購入した結婚指輪を薬指に嵌める気にはなれない。
神父に後ろを振り返るように促されたことで、新郎と新婦が揃って退場するタイミングになったのだと気付く。
新郎の親族やゲストにも、新婦の親族やゲストにもどんな顔をしていいのかわからない。それに未だ状況を受け入れられず困惑しきりの七海は、振り返って誰かと目が合うのを躊躇った。
俯いたまま困っていると、動けなくなった七海の腰に将斗の腕が回ってきて、ぐっと抱き寄せられた。
純白のドレスの中に矯正下着を仕込んでいるせいで、腰は普段より幾分か細く見えるはずだ。その腰と将斗の身体が密着したので、ハッと顔を上げる。
目が合った将斗は優しい微笑みを浮かべていた。普段仕事をしている時と同じく、強引で尊大で、それでいて逞しく凛々しい、いつも通りの笑顔で。
「七海。俺が必ず、幸せにするから」
「!」
けれどはっきりと告げられた言葉は、今まで一度も聞いたことがない。そもそも名前で呼ばれたことがなかった七海はたった一言で挙動不審になるが、
「ほら、腕組め」
と当然のように指示されると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。というより、このありえない状況下でも呼び方以外は普通でいられる将斗の神経の図太さに、動揺している方が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「抱っこされたいか? していいならするが」
「結構ですっ!」
まるでこの事態を楽しんでいるようなからかいの笑みと態度に、つい苛立ちを含んだ声が出る。だが将斗は七海の様子を見ても一切笑みを崩さない。
(ニコッ、じゃないです! なんでそんなに楽しそうなんですかっ!)
そのまま歩き出した将斗の腕にどうにか掴まり、慣れないヒールの上で震える脚を必死に動かして、バージンロードの中央をゆっくりと移動する。
チャペルの中にいる人々がどんな表情をしているのか確かめるのが怖くて、右にも左にも視線を向けられず、顔も上げられない。
そんな中で七海が唯一目を向けることが出来たのは、毎日のように顔を合わせているせいで見慣れを通り越して見飽きたはずの、将斗の楽しげな横顔だった。
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