冷徹公爵が無くした心で渇望したのは愛でした

茜部るた

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無償の愛 2

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 …………この天井はどこだ。
 これは玄関ホールか。
 視点が違うとわからぬものだな。
 マリア! 抱っこをしろ!

「あうあっ あばっ」

「マリア! お前旦那様を知らないかい? 朝からお姿が見えない。まあ正直どうもでいいけどね」

「私もお姿をお探ししていますがどこにも見当たりません。どこかにお出かけになったのでしょうか?」

「さあね。だけどこの屋敷で1番怪しいのはお前だ。何かあったら警備隊に突き出してやるからね!」

 俺はここだ。
 早く戻らねば色々問題があるな。
 そもそも戻れるのか。
 満たされれば?
 どう満たすと言うのだ。
 マリアが見てるのは俺ではない。ソレットだ。
 だがそんなことより抱っこだ。

「あばっ」

「ああ、ごめんなさいね。ソレット、寒くない?」

 いや、お前の腕の中なら温かい。
 このままずっと抱いててくれ。
 もっと撫でてくれてもいい。
 そのカサついた手は我慢してやる。
 だからもっと俺を愛でろ。

 愛でろ…
 この姿の間だけでも、俺を愛でてくれ。

 違う、寝たわけじゃない、おろすな。

「んぎー あぶ…ふぇ…ふぎゃ…」

「あら、抱っこがいいの? じゃあもう少しね」

 もう少しじゃない。このままずっとだ。
 一晩中でもいい。
 俺を離すな。
 
「困ったわ。ここが終わったら次は廊下の掃除なのよ。その次はベッドメイキング。旦那様の書斎も掃除しなきゃ。ソレット、今日は抱っこちゃんなのね。ずっとこうしてあげたいけど、掃除もしなきゃ追い出されちゃうわ」

 いい。
 追い出さない。
 主の俺が言うのだ。
 お前はこうして俺だけ抱っこしていればいい。
 さあもっと撫でろ。

「もうちょっとだけよ。可愛いソレット」

 お前はいいにおいだ。
 安心する。
 俺にそうやって頬を摺り寄せてくれる者などいなかった。
 お前は心優しいのだな。
 俺が捨ててしまったものは、こうも温かいのか。

 仕事の邪魔をしてはいけない。
 眠くはないが、籠に戻ってやろう。

 ……なんだ、いつのまに籠にリボンを結んだのか。
 これくらいなら俺でも届きそうだな。

「あう」

「リボン気に入った? 少しそれで遊んでてね」

「あうっ」

 惜しいな。
 届きそうで届かない。
 いや、もう少し動きを工夫すれば…
 もっと内側だ。くそ、なかなか届かないな。
 なんてもどかしいんだ。
 届きそうで届かないこの絶妙な距離。
 だが見てろ。
 マリアが掃除を終えるより先に絶対に触ってみせる。
 もう少し、もう少しだ…

「あうっ! あああっ あうあうっ!」

「ふふっ」

 どうだ!
 今見ていたか!?
 触ったぞ!
 おいマリア見ていたか!?
 マリア、見てくれ、俺は今リボンに触ったのだ!
 その証拠にほら! 握っているぞ!

『ははうえ、ははうえ! ごらんください! ぼくにもできました! ははうえ! ははうえ……』

 ……。
 マリアは掃除中だったな。
 俺は何をしているんだ。
 こんなリボン1つで何を喜んで。

「あらソレット! リボン握ってるの!? 凄いじゃない。届かないと思ったのに」

 マリア。
 お前はちゃんと俺を見てくれるのか。
 こんなリボン1つ握っただけで、そんな天使の笑みを向けてくれるのか。
 今の俺には何も与えられない。
 せめてこのリボンをお前にやろう。

「まあ、せっかくとったリボンをくれるの? ソレットは優しいのね。じゃあ今度は私がソレットにリボンをあげるわね。ほら、今度はここよ。届くかしら?」

 勝利のリボンが再び戻って来た。
 さっきより微妙に短い気がする。
 マリア、抱っこしてくれ。
 よくできましたともう1度褒めてくれ。

「今度は抱っこなの? いらっしゃい甘えんぼさん。じゃあ抱っこのまま廊下の掃除に行こうか」

「あうあ あうあう あうーあうー」

「おしゃべり上手ないい子ね。あうあう。じゃあ次はママって言える? ふふ、冗談よ。私はあなたのママじゃないものね。ごめんね、きっとママも寂しいわよね」

 マリア、案ずるな。
 この赤子の母はもういない。
 赤子の存在とてあってないようなものだ。

「私、このまま本当にあなたのママになれたらいいのに」

 自分の腹を痛めた子でもないのに?
 どこの誰とも全くわからないこの赤子を引き取ると?
 何故お前はそんなにも慈悲深いのだ。
 何故俺の周りにはその慈悲が欠片もなかったのだ…

 俺は少し寝る。
 また後で抱っこを頼む。

 また腹が減り、尻の周りに猛烈な不快感があり、夜になった。
 マリアはずっと働いている。
 主の俺が行方不明でもそれは変わらず、使用人たちは小首をかしげる程度で俺のことは割とどうでもよいようだった。
 それもそうだ。
 この屋敷には温度がない。
 誰のせいでもなく、俺のせいで。
 利己主義で、狡猾で、心の冷たい人間だけが残ったのだ。

 俺に乳を飲ませるあの娘だけは辛うじてそうでもないようだが、屋敷の僅かな使用人は皆俺の心を反映しているようだった。

「お風呂ちゃぷちゃぷしようか」

 夜も遅い時間、マリアはようやく仕事から解放された。
 食事はちゃんとできているのだろうか。
 寝ている時間も長くよくわからない。
 
 使用人用のやや冷えた浴室で、彼女は異様に素早く俺の服を脱がせ湯に入れた。
 バスタブの底の方にある僅かな湯は赤子の体にはちょうどいい。
 湯に浮く感覚はとても自由だった。
 海綿を持ったマリアの手が、俺の前身に泡を巡らせ洗っていった。
 シャワーから流れる綺麗なお湯で流されると、彼女は俺をタオルに包み、拭くのもそこそこにすぐ自分が裸になった。
 
 体に残る痕は俺がつけたものだ。
 彼女を抱いても何も満たされなかった。
 虚しさが募るだけだった。
 それなのに、俺は彼女をどうしようもなく傷つけた。
 なんてことをしたのだろう。

「つめたっ」

 冷たい?
 先ほどはお湯だったぞ?
 ボイラーの調子でも悪いのか? それなら言えば修理を呼んだのだが。

 おかしい。
 いつまでたってもお湯になる様子はない。
 彼女は震えながら行水を済ませると、慌てて服を着ていた。

 廊下に出るとハウスメイドのベスが意地の悪い笑い声をあげていた。

 そういうことか。
 あの日あんなにマリアが冷たかった理由は、お前の仕業か。

 主が主だから、そのせいでお前はこんな目に合わされているのか。
 
 すまなかった。

 お前は傷ついていいような人間じゃない。
 お前のような者こそ誰かに愛され、幸福に過ごすべきだ。

 お前に詫びたい。
 許されるようなことではない。
 許されなくてもいい。
 マリア、すまなかった。
 俺に温もりを与えてくれてありがとう。
 もっと早く、俺が子供の頃に、お前の半分でも愛を向けてくれる者がいたら。
 俺は残った心をどうにかできたのかもしれない。

 マリアの腕の中で抱かれ眠りについたはずなのに、翌朝目を覚ましたのは自分のベッドの上だった。
 昨夜は幸福な温もりの中にいたのに、目覚めた時の俺はまた酷い寒さの中にいた。
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