冷徹公爵が無くした心で渇望したのは愛でした

茜部るた

文字の大きさ
上 下
6 / 12

渇望 2

しおりを挟む

 その日からゲイルは何かと赤子の様子を観察した。
 正確には、赤子を世話するマリアの様子を。

 赤子はマリア以外誰も世話をする人間がいないので、彼女はメイドの仕事をしながらいつも籠に入れ連れ歩いている。
 掃除をする時は埃を被らないように籠の持ち手から薄布をかけてやり、作業の合間にむずがると抱き上げてあやす。
 相変わらず乳は出ないようで、腹が減った時は厩舎の家屋に駆け込んでいるようだった。
 おしめを取り換えるとまたあの笑みであやす。
 籠の中で「あうー」と言えば彼女も「あうー」と返事をし、眠ると額に柔らかなキスを落とすのだ。

 母の愛情と言うのは、誰しもこういうものなのだろうか。
 自分はどうだったろうか。

 寒い。
 また寒くなって来た。
 胸から背中に広がり、腹の方まで落ちてくる。
 指先が氷になってしまう気がして、思わず手をすり合わせた。

 窓に映った自分はまるで神にでも祈るような姿をしていた。

『心と同じく身も凍てつき、1人死んでいくのだ』

 あの大いなる声が言った言葉が蘇る。
 
 嫌だ。
 どうしてだ。
 どうして俺は誰も愛してくれなかった。

 あの優しい腕に1度抱かれてみたい。
 何もしなくても微笑みかけて欲しい。
 柔らかな声で呼んで欲しい。
 もっと…
 もっと愛が欲しかった。

 母に甘えたくて教師の言う事を必死に覚えた。
 父に褒めて欲しくて手に鞭が飛んできてもピアノを弾き続けた。

 誰よりも強くなれと言われ、豆が潰れ皮が剥けても剣を握り続けた。
 その日の夕食はナイフとフォークが持てなかった。
 うまく扱えず取り落せば咎められ、食事は下げられた。

 何をしても、どれほど努力を重ねても、「当たり前」と言われ誰も褒めなかった。
 
 愛などどこにあると言うのか。
 幼き日に心を捨てておいてよかった。
 あれから楽しいと思うことは皆無だが、心が痛むと言うことは無くなった。
 
 無くなったはずなのだ。
 だから生まれて間もない赤子ごときに嫉妬することなど何もない。
 
 なのに、どうして、今これほど渇望する。

 眠れぬ夜は久々だった。

 心を捨てるまではうまく眠ることが出来なかった。
 疲れ果て眠っても、夜中に恐ろしい夢で目が覚めてしまうのだ。
 泣いたところで誰か来るわけでもない。
 あの赤子のように添い寝をしてくれるものなど誰もいなかった。
 
 寒い。
 どうしようもなく寒い。
 寝室の暖炉の火は落ちかけている。
 談話室の暖炉は出来るだけ火を落とさないようにさせている。
 暖炉にあたっても無意味なことは分かっているが、それでも揺れる炎を眺めたかった。

 談話室へ向かうと、隙間の開いた扉から女の声が聞こえた。
 この柔らかな声はマリアだ。
 少しだけ扉を押しやり、隙間から中を伺った。

 彼女は湯上りなのか髪を下ろし暖炉の前で櫛を入れていた。
 赤子の「あう」と言う声が聞こえたと言うことは、まだ寝ついていないのだろう。

「あうあう、今日はねんねが遅いのね。もう少し待ってね。髪を乾かしてしまうから」

「あう」

「ソレット、あなたはママがいなくてもいい子ね。あなたのママはどうしてるのかしらね。ずっと離れていて寂しくないかしらね」

「この赤子はお前の子ではないのか」

 誰もいないと思った部屋に主の声が響き、マリアは驚きで櫛を落としてしまった。
 本来ならこんなところで髪を梳いていていいものではない。
 使用人は使用人の部屋に引っ込むべきだ。
 だが暖炉のない使用人部屋では、真冬の行水で冷えきった体を温めることは難しかった。
 火の落ちないこの部屋で、主が寝てからこっそり体を温め、髪を乾かし、それから寝ようと思っていた。

「旦那様、申し訳ございません。すぐに部屋に戻ります」

「聞いているのだ。その赤子はお前の子ではないのか」

 よく見れば夜着の女は震えている。
 まだ乾ききらない髪を背中に落とし、唇は紫だ。

 湯上りで暖炉の前にいるのになぜ?

「嘘をついておりました。この子は私の子ではありません」

「乳が出ないのもそういう訳か」

「はい」

「どうして雪の中他人の赤子を連れ歩いた。もしや誘拐か? 城のメイドと言うのも嘘か?」

「違います! 城では主に西館の担当をしておりました。この子は…この子はあるお方に託されました。詳細は存じません。たださる尊いご身分の方に届けよと、そう言われました」

 あるお方も、さる尊いご身分の方も気にならないわけではない。
 だが今ゲイルの一番の感心はそこではない。

 何故見知らぬ赤子に無償の愛を注げるのか。

「何故だ。何故自分の子ですらないのにそんなに大事にできる。何故身を犠牲にしてまで守ろうとする」

「赤子は1人では生きられません。私が託されたのだから私が傍にいなければ死んでしまいます」

「お前に責任があるのか?」

「なくても、赤子を見殺しにはできません」

「そんな身を粉にして…手はボロボロ、ここに来た時は足も血だらけだったではないか。嫌がらせのように地下室に押し込められ…人生を無駄にしてると思わないのか?」

「実母から離されているというのに、時々笑うんです。それが可愛くて、幸せで。幸せは人生の無駄ではございません」

「理解できん」

 どうしてだ。
 どうして無心に愛せる。
 見返りのない奉仕などあるわけがない。

 体を襲う冷気が増した。
 内側が尋常じゃないほど寒い。
 いつしかゲイルは何も感じないはずの心の声を叫んでいた。

「どうして赤の他人が言葉も通じぬ赤子などに愛を注ぐ! 俺にはただの1度も与えられたことが無かったというのに!」

 突然激昂した主を、マリアは驚くわけでもなく哀しい目で見ていた。
 
 ああ、この人は愛をどこかに忘れてきてしまったんだ。
 愛を感じたことのない心だから、愛する事も愛される事もわからなくなってしまったんだ。
 屋敷が冷たく感じるのも、あなた様がそうして寒さを感じるのも、全てその愛を欲するが故なのでしょうか。

「俺が……愛が欲しいだと?」

 ゲイルの心は完全に無くなったわけではなかった。
 その残った心で増幅させたのは、愛ではなく怒りと哀しみ、そして愛への憧れだったのかもしれない。
 彼の心はもう手遅れなほど冷え切っていた。

「赤子のように無償の愛が欲しいというのか…」

 赤子はゲイルが声を荒らげたというのに眠っていた。
 憎らしいほど静かに、幸せに寝ている。
 全てはマリアのお陰というのか?
 彼女が無償の愛を注ぐから幸せに見えるのか。

「誰に届けるはずだったのだ」

 マリアは答えてよいものか迷った。
 うかつに出していい名ではないはずだ。

「先方も待っているのだろう。誰に届けるのだ」

「ユーゴ・ウェンティア公爵閣下です」

「俺に…?」

「ゲイル様?」

「ふ…そうか。そういうことか」

 主の中では何か合点がいったらしい。
 彼はうすら寒い笑みを浮かべると、ソファに身を沈めた。

「わかったぞ…あの声…この赤子は神の御使いということか。俺の残りの心を全て取りに来たあの日の神か」

「ゲイル様…?」

「ゲイルは別邸での仮の名だ。本名はユーゴ・ウェンティア。お前が赤子を届けようとしたのは俺だ。ふっ…神よ、どういうつもりだ」

 彼は自嘲するように笑うと、籠の赤子を見た。
 そしてそのまま己の過去を話し始める。

「俺は子供の頃に心を捨てた。神に頼み、喜びもいらないから悲しみも消してくれと」

「そんな…」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄されたので田舎に引きこもったら、冷酷宰相に執着されました

21時完結
恋愛
王太子の婚約者だった侯爵令嬢エリシアは、突然婚約破棄を言い渡された。 理由は「平凡すぎて、未来の王妃には相応しくない」から。 (……ええ、そうでしょうね。私もそう思います) 王太子は社交的な女性が好みで、私はひたすら目立たないように生きてきた。 当然、愛されるはずもなく――むしろ、やっと自由になれたとホッとするくらい。 「王都なんてもう嫌。田舎に引きこもります!」 貴族社会とも縁を切り、静かに暮らそうと田舎の領地へ向かった。 だけど―― 「こんなところに隠れるとは、随分と手こずらせてくれたな」 突然、冷酷無慈悲と噂される宰相レオンハルト公爵が目の前に現れた!? 彼は王国の実質的な支配者とも言われる、権力者中の権力者。 そんな人が、なぜか私に執着し、どこまでも追いかけてくる。 「……あの、何かご用でしょうか?」 「決まっている。お前を迎えに来た」 ――え? どういうこと? 「王太子は無能だな。手放すべきではないものを、手放した」 「……?」 「だから、その代わりに 私がもらう ことにした」 (いや、意味がわかりません!!) 婚約破棄されて平穏に暮らすはずが、 なぜか 冷酷宰相に執着されて逃げられません!?

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

燻らせた想いは口付けで蕩かして~睦言は蜜毒のように甘く~

二階堂まや
恋愛
北西の国オルデランタの王妃アリーズは、国王ローデンヴェイクに愛されたいがために、本心を隠して日々を過ごしていた。 しかしある晩、情事の最中「猫かぶりはいい加減にしろ」と彼に言われてしまう。 夫に嫌われたくないが、自分に自信が持てないため涙するアリーズ。だがローデンヴェイクもまた、言いたいことを上手く伝えられないもどかしさを密かに抱えていた。 気持ちを伝え合った二人は、本音しか口にしない、隠し立てをしないという約束を交わし、身体を重ねるが……? 「こんな本性どこに隠してたんだか」 「構って欲しい人だったなんて、思いませんでしたわ」 さてさて、互いの本性を知った夫婦の行く末やいかに。 +ムーンライトノベルズにも掲載しております。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

君は妾の子だから、次男がちょうどいい

月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

夫のかつての婚約者が現れて、離縁を求めて来ました──。

Nao*
恋愛
結婚し一年が経った頃……私、エリザベスの元を一人の女性が訪ねて来る。 彼女は夫ダミアンの元婚約者で、ミラージュと名乗った。 そして彼女は戸惑う私に対し、夫と別れるよう要求する。 この事を夫に話せば、彼女とはもう終わって居る……俺の妻はこの先もお前だけだと言ってくれるが、私の心は大きく乱れたままだった。 その後、この件で自身の身を案じた私は護衛を付ける事にするが……これによって夫と彼女、それぞれの思いを知る事となり──? (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります)

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

処理中です...