2 / 16
【第2話】「侍女仲間との日々」
しおりを挟む 翌朝、陽が昇ると同時に、後宮の下層区域には再び慌ただしい気配が漂い始めた。侍女たちは朝露を含んだ冷たい空気の中で目をこすりながら、貴婦人らの衣を整え、水瓶を満たし、床を磨く。誰一人、怠惰は許されない。ここでは息を潜めて働くことが生き延びる術なのだ。
紗羅も同じように日常の雑用に取りかかる。長い廊下を桶を抱えて歩き、壁の彩色を丁寧に拭き上げる。その壁の絵模様――牡丹や椿が緻密な筆致で描かれており、それを拭き清める紗羅の指が、ふと震えた。美しいが、この華やかさは自分を踏み潰す権威の象徴であるかのように感じる。彼女は舌打ちを飲み込み、静かに布を滑らせる。
作業の合間、蓮が近づいてきた。蓮は茶色の瞳に生気を漲らせ、少し鼻先が上向いた活発な娘だ。「ねえ紗羅、昨晩は何か思いつめているようだったわ。愚痴って楽になるなら聞くわよ?」紗羅は微笑んで首を横に振る。「ありがとう。でも言葉にしてしまうと、私の中の火が消えてしまう気がするの。いまはまだ、言えない。」蓮は不思議そうな顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。
一方、菫は書棚の埃を払っている。後宮にも下働き用の小さな書庫があり、古い記録や雑用の台帳が詰められていた。菫は仕事の隙間を縫ってさりげなく記録を読み漁る知識欲旺盛な子で、その沈黙は時に紗羅を助ける。なぜなら、菫は後宮の歴史や内部事情に詳しいのだ。彼女は噂話には積極的に関わらないが、その分、蓄えた情報は確かなもので、いざという時には頼りになる存在だった。
「紗羅、あんた、下の身分から上に這い上がるなんて、まあ尋常なことじゃないけど、何か考えがあるんじゃない?」
掃除の手を止めずに菫が静かに言う。
「何も言わないけど、わたしは知ってる。あんたの目には何かがある。」
紗羅は一瞬、心臓が跳ねたが、表情を崩さず、「菫、あなたはなんでもお見通しね」と微かに微笑む。
「黙っているだけよ。けれど、あんたが動くときは、わたしも協力するかもね。つまらない日々をほんの少し変えてくれるなら」
このように蓮と菫――二人は対照的な性格でありながら、紗羅にとっては欠かせぬ仲間であった。蓮の明るさは心の重荷を軽くし、菫の冷静な知識は前に進むための指針となる。
後宮では、上位の妃たちが時折、廊下を優雅に通り過ぎて行く。絹織物の裾が床を撫で、かすかな香気が残る。その後を侍女が従い、さらにその後を下働き女たちが控え、 Hierarchyは明確だ。蓮などは妃たちを見送りながら「あんな綺麗な着物、人生で一度でも着てみたいわ」と頬杖をつく。菫は「着るだけならともかく、あの中で生き抜くのは至難だよ」と鼻で笑う。紗羅は黙しているが、その目は妃たちの姿を見つめ続ける。美しく、かつ恐ろしい世界。その頂点にいるのが麗華であり、その麗華を打ち倒すには、どれほどの力が要るのか。
紗羅は日常の単純な作業を重ねながら、徐々に周囲の状況を学び取る。ここで生きるためには情報が必要だ。蓮のお喋りからは些細な噂が拾えるし、菫に耳を傾ければ歴史の裏側が見えてくる。蓮曰く、麗華は近頃少し神経質になっているらしい。新たな側妃が才能を示すたび、目障りな芽を摘むような真似をする。菫は言う、歴代の鳳凰妃は多数いるが、麗華ほど権力を確固たるものにした者は少ない、と。
こうして紗羅は、喧騒に満ちた厨房や洗濯場で、あるいは薄暗い廊下や物置部屋で、侍女仲間と小声を交わし合いながら、一歩一歩、目に見えぬ階段を上がろうとしていた。
誰にも悟られぬように、心の中で復讐の焔を燃やしながら。
紗羅も同じように日常の雑用に取りかかる。長い廊下を桶を抱えて歩き、壁の彩色を丁寧に拭き上げる。その壁の絵模様――牡丹や椿が緻密な筆致で描かれており、それを拭き清める紗羅の指が、ふと震えた。美しいが、この華やかさは自分を踏み潰す権威の象徴であるかのように感じる。彼女は舌打ちを飲み込み、静かに布を滑らせる。
作業の合間、蓮が近づいてきた。蓮は茶色の瞳に生気を漲らせ、少し鼻先が上向いた活発な娘だ。「ねえ紗羅、昨晩は何か思いつめているようだったわ。愚痴って楽になるなら聞くわよ?」紗羅は微笑んで首を横に振る。「ありがとう。でも言葉にしてしまうと、私の中の火が消えてしまう気がするの。いまはまだ、言えない。」蓮は不思議そうな顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。
一方、菫は書棚の埃を払っている。後宮にも下働き用の小さな書庫があり、古い記録や雑用の台帳が詰められていた。菫は仕事の隙間を縫ってさりげなく記録を読み漁る知識欲旺盛な子で、その沈黙は時に紗羅を助ける。なぜなら、菫は後宮の歴史や内部事情に詳しいのだ。彼女は噂話には積極的に関わらないが、その分、蓄えた情報は確かなもので、いざという時には頼りになる存在だった。
「紗羅、あんた、下の身分から上に這い上がるなんて、まあ尋常なことじゃないけど、何か考えがあるんじゃない?」
掃除の手を止めずに菫が静かに言う。
「何も言わないけど、わたしは知ってる。あんたの目には何かがある。」
紗羅は一瞬、心臓が跳ねたが、表情を崩さず、「菫、あなたはなんでもお見通しね」と微かに微笑む。
「黙っているだけよ。けれど、あんたが動くときは、わたしも協力するかもね。つまらない日々をほんの少し変えてくれるなら」
このように蓮と菫――二人は対照的な性格でありながら、紗羅にとっては欠かせぬ仲間であった。蓮の明るさは心の重荷を軽くし、菫の冷静な知識は前に進むための指針となる。
後宮では、上位の妃たちが時折、廊下を優雅に通り過ぎて行く。絹織物の裾が床を撫で、かすかな香気が残る。その後を侍女が従い、さらにその後を下働き女たちが控え、 Hierarchyは明確だ。蓮などは妃たちを見送りながら「あんな綺麗な着物、人生で一度でも着てみたいわ」と頬杖をつく。菫は「着るだけならともかく、あの中で生き抜くのは至難だよ」と鼻で笑う。紗羅は黙しているが、その目は妃たちの姿を見つめ続ける。美しく、かつ恐ろしい世界。その頂点にいるのが麗華であり、その麗華を打ち倒すには、どれほどの力が要るのか。
紗羅は日常の単純な作業を重ねながら、徐々に周囲の状況を学び取る。ここで生きるためには情報が必要だ。蓮のお喋りからは些細な噂が拾えるし、菫に耳を傾ければ歴史の裏側が見えてくる。蓮曰く、麗華は近頃少し神経質になっているらしい。新たな側妃が才能を示すたび、目障りな芽を摘むような真似をする。菫は言う、歴代の鳳凰妃は多数いるが、麗華ほど権力を確固たるものにした者は少ない、と。
こうして紗羅は、喧騒に満ちた厨房や洗濯場で、あるいは薄暗い廊下や物置部屋で、侍女仲間と小声を交わし合いながら、一歩一歩、目に見えぬ階段を上がろうとしていた。
誰にも悟られぬように、心の中で復讐の焔を燃やしながら。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる