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三章 ナポリタンとワンピースと文字
三章 7
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不思議なことに、ビデオレターの提案を断るという発想は浮かばなかった。
ともあれ、主治医の許可がおりなければ始まらない。
担当の看護師経由で主治医に確認すると、案外とあっさり許可が出た。
夫はあと数時間で面会に来るはずだと志津恵が言うので、貴之たちは草案を作成しながら夫を待った。
「水谷さんは、どうしてそんなに強いんですか?」
何度目かの休憩中に、美優が志津恵に尋ねた。
子どもへの手紙には、どのように成長しているだろうか。有意義な一年であったか。自分はその年齢でこんな壁にぶつかったが、こんな対処が有効だったと、成長を見守りながら、将来へのヒントや気づきを得られるメッセージになっていた。
どれも愛情溢れる言葉ばかりだ。
草案作成の間、志津恵は貴之たちにも愚痴や泣き言を一切言わなかった。
「強くなんてないですよ」
ベッドに寄りかかっている志津恵は、目を閉じたまま答えた。呼吸が浅い。臓器が弱っていて、深い呼吸ができないのかもしれない。
「人生のリミットが決まっているんです。刻一刻と死が近づいている。怖くないはずがありません。毎日、夜になると一人で泣いています」
「……すみません」
美優は声を落として謝罪した。志津恵は「いいのよ」と微笑む。
怖くないはずがない。当然だ。
美優が質問したとき、貴之も浅慮な問いだと、志津恵に申し訳なく思った。
ただ、美優の気持ちもわからなくはない。
志津恵は見た目は筋が浮くほど痩せ細っているのに、大樹のようにどっしりとした雰囲気がある。つい尋ねたくなるほど、慈愛に満ちて余裕があるように見えるのだ。
しかしそれは本人が語っていたように、生きようと足掻いて苦しんで闘ったからこそ、たどり着いた境地のはずだ。
「……私、考えるんですよね」
志津恵は薄く瞳を開く。睫毛も眉毛も薄い。抗がん剤で毛が抜けたせいなのかもしれない。
「突然事故で亡くなるのと、こうして病気でじわじわと死んでいくのと、どっちがいいんだろうって」
ドキリとした。
志津恵の年齢と貴之の母親の享年は同じなのだ。
「事故の場合は突然のことだから、死に向かう恐怖がないですね。そこはメリットと言えるかもしれない。でも、伝えなければいけないことがあったかもしれないのに、意思を残せない。そして遺族も突然の死に戸惑うでしょうね。もっとああしておけばよかったと後悔するかもしれない」
確かに、そのとおりだ。貴之の中に後悔はたくさんある。
「病気の場合は、だんだん体力がなくなって、痛みに苦しむことになる。毎晩、明日は目覚めないかもしれないという恐怖にも襲われる」
だけど、と続ける志津恵の瞳に光がさした。不思議なことに、彼女の結膜は生まれたての赤ん坊のように純白で澄んでいる。
「残された時間で思い出を作ることができるし、死を迎える心の準備も整えられる。必要事項の引継ぎもできるわね。家族も同じで、限られた時間の中で後悔しないように行動できるし、死と向き合う覚悟ができる。とにかく時間があることが最大のメリットね」
志津恵は温かいお茶を口に運んだ。
「どちらがいいかなんてわからないけど、家族に愛され、こうして家族のために言葉を託すことができる。最期まで自分らしくいられる私の人生は、そんなに悪いものじゃないと思えるんです」
志津恵の静かな笑みは、どこかで見た菩薩と重なった。
「水谷さんから毎年、思いのこもった手紙が届くお子さんたちは幸せだと思います。わたしも欲しかったです……」
志津恵は美優の手に、そっと細い手をのせた。
何度も点滴の針を刺されたからだろう、志津恵の腕から手の甲にかけて、内出血で紫色に変色していて痛々しい。
しかしそれは、志津恵が病魔と闘ってきた証でもある。
ともあれ、主治医の許可がおりなければ始まらない。
担当の看護師経由で主治医に確認すると、案外とあっさり許可が出た。
夫はあと数時間で面会に来るはずだと志津恵が言うので、貴之たちは草案を作成しながら夫を待った。
「水谷さんは、どうしてそんなに強いんですか?」
何度目かの休憩中に、美優が志津恵に尋ねた。
子どもへの手紙には、どのように成長しているだろうか。有意義な一年であったか。自分はその年齢でこんな壁にぶつかったが、こんな対処が有効だったと、成長を見守りながら、将来へのヒントや気づきを得られるメッセージになっていた。
どれも愛情溢れる言葉ばかりだ。
草案作成の間、志津恵は貴之たちにも愚痴や泣き言を一切言わなかった。
「強くなんてないですよ」
ベッドに寄りかかっている志津恵は、目を閉じたまま答えた。呼吸が浅い。臓器が弱っていて、深い呼吸ができないのかもしれない。
「人生のリミットが決まっているんです。刻一刻と死が近づいている。怖くないはずがありません。毎日、夜になると一人で泣いています」
「……すみません」
美優は声を落として謝罪した。志津恵は「いいのよ」と微笑む。
怖くないはずがない。当然だ。
美優が質問したとき、貴之も浅慮な問いだと、志津恵に申し訳なく思った。
ただ、美優の気持ちもわからなくはない。
志津恵は見た目は筋が浮くほど痩せ細っているのに、大樹のようにどっしりとした雰囲気がある。つい尋ねたくなるほど、慈愛に満ちて余裕があるように見えるのだ。
しかしそれは本人が語っていたように、生きようと足掻いて苦しんで闘ったからこそ、たどり着いた境地のはずだ。
「……私、考えるんですよね」
志津恵は薄く瞳を開く。睫毛も眉毛も薄い。抗がん剤で毛が抜けたせいなのかもしれない。
「突然事故で亡くなるのと、こうして病気でじわじわと死んでいくのと、どっちがいいんだろうって」
ドキリとした。
志津恵の年齢と貴之の母親の享年は同じなのだ。
「事故の場合は突然のことだから、死に向かう恐怖がないですね。そこはメリットと言えるかもしれない。でも、伝えなければいけないことがあったかもしれないのに、意思を残せない。そして遺族も突然の死に戸惑うでしょうね。もっとああしておけばよかったと後悔するかもしれない」
確かに、そのとおりだ。貴之の中に後悔はたくさんある。
「病気の場合は、だんだん体力がなくなって、痛みに苦しむことになる。毎晩、明日は目覚めないかもしれないという恐怖にも襲われる」
だけど、と続ける志津恵の瞳に光がさした。不思議なことに、彼女の結膜は生まれたての赤ん坊のように純白で澄んでいる。
「残された時間で思い出を作ることができるし、死を迎える心の準備も整えられる。必要事項の引継ぎもできるわね。家族も同じで、限られた時間の中で後悔しないように行動できるし、死と向き合う覚悟ができる。とにかく時間があることが最大のメリットね」
志津恵は温かいお茶を口に運んだ。
「どちらがいいかなんてわからないけど、家族に愛され、こうして家族のために言葉を託すことができる。最期まで自分らしくいられる私の人生は、そんなに悪いものじゃないと思えるんです」
志津恵の静かな笑みは、どこかで見た菩薩と重なった。
「水谷さんから毎年、思いのこもった手紙が届くお子さんたちは幸せだと思います。わたしも欲しかったです……」
志津恵は美優の手に、そっと細い手をのせた。
何度も点滴の針を刺されたからだろう、志津恵の腕から手の甲にかけて、内出血で紫色に変色していて痛々しい。
しかしそれは、志津恵が病魔と闘ってきた証でもある。
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