上 下
30 / 74
二章 大切なものほど秘められる

二章 9

しおりを挟む
 左手がどうかしたのか。 
 上杉の手のことなんて、少しも記憶に残っていない。

「ずっと上杉さんは、右手しか動かしていませんでした」

 美優は貴之の腕をくぐって応接間に戻っていく。その後ろを貴之は追いかけた。

「右利きなんだろ。普通のことだ」
「動かすのは右手だけ。左手はずっと膝の上でした。気になってフィナンシェを渡したら、左手も少し使っていましたが、その動きはぎこちなかった。だから、なかなか袋を開けられなかったんです。そして帰りの歩き方を見て確信しました」

 美優はぱっと振り向いた。

「上杉さんは、軽度の左半身麻痺です」
「……それがどうしたんだ」

 看護師の美優が言うのだから、そうなのかもしれない。だとしても、それがなんなのだ。手紙となんら関係がない。

「おかしいじゃないですか。妻への感謝の手紙なんですから、半身麻痺をサポートしてくれて助かったとか、麻痺について触れるのが自然です。事故か病気かわかりませんが、後遺症が残るようなことが起こっているんですよ」
「単に、言い忘れたんじゃないか?」
「その可能性もありません。貴之さんが確認したとき、上杉さんは話し尽くしたと言っているんですから」
「だったら、俺たちに言いたくなかったんだろ。それに、俺は気づかなかった程度の麻痺だ。日常生活に問題がないだろうし、そこについての感謝はなかったんだろう」
「本当に貴之さんは、そう思っているんですか?」

 美優は細い眉をつり上げて、貴之をじっと見つめてくる。貴之は言葉に詰まった。
 指摘されてみれば、不自然ではある。

「上杉さんは意図的になにか隠している。実は奥さんに一番伝えたいことを、わたしたちに話していない。だけど、本当はそれを伝えたいと思っている。そうは考えられませんか? そうじゃなければ、わたしたちが奥さんに会いに行くのを許可したりしないと思うんです」

 貴之は美優を見返しながら、眉間のしわを深めた。
 くそ、辻褄が合ってるじゃねえかよ。
 旗色が悪くなった貴之は視線をそらした。

「納得してくれたならいいんです。怖い顔をして壁ドンされましたが、そして内心泣きそうでしたが、謝ったら許してあげますよ」

 美優は貴之の視線の先に移動して、じっと貴之を見つめてくる。その目が大きいせいか、貴之は妙な圧力を受けた。壁を打ったときにもまったく動じていなかったので、泣きそうだったというのは嘘っぽく感じる。

 貴之はガタイがいいので、特に身長差があると意図せず脅えさせてしまうことがあるのだが、美優にその心配はいらなそうだ。看護師をしていると、肝が据わるのだろうか。

 とはいえ、貴之が苛立ちに任せて乱暴な振舞いをしてしまったことは事実だ。詫びねばなるまい。

「……すまなかった」
「よろしい」

 満足そうに美優は微笑んで、ローテーブルの上のものを片付け始めた。

「貴之さん、明日は何時に上杉家に行きますか? わたしは夜勤なので、昼間なら大丈夫ですよ」

 美優はてきぱきと動いて皿を洗い始める。
 結局、また美優のペースになってしまった。

 ちっこいのに、よく動くな。

 美優の華奢な後ろ姿を、貴之は脱力しながら眺めていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

忘れられた元勇者~絶対記憶少女と歩む二度目の人生~

こげ丸
ファンタジー
世界を救った元勇者の青年が、激しい運命の荒波にさらされながらも飄々と生き抜いていく物語。 世の中から、そして固い絆で結ばれた仲間からも忘れ去られた元勇者。 強力無比な伝説の剣との契約に縛られながらも運命に抗い、それでもやはり翻弄されていく。 しかし、絶対記憶能力を持つ謎の少女と出会ったことで男の止まった時間はまた動き出す。 過去、世界の希望の為に立ち上がった男は、今度は自らの希望の為にもう一度立ち上がる。 ~ 皆様こんにちは。初めての方は、はじめまして。こげ丸と申します。<(_ _)> このお話は、優しくない世界の中でどこまでも人にやさしく生きる主人公の心温まるお話です。 ライトノベルの枠の中で真面目にファンタジーを書いてみましたので、お楽しみ頂ければ幸いです。 ※第15話で一区切りがつきます。そこまで読んで頂けるとこげ丸が泣いて喜びます(*ノωノ)

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

お飾りの側妃ですね?わかりました。どうぞ私のことは放っといてください!

水川サキ
恋愛
クオーツ伯爵家の長女アクアは17歳のとき、王宮に側妃として迎えられる。 シルバークリス王国の新しい王シエルは戦闘能力がずば抜けており、戦の神(野蛮な王)と呼ばれている男。 緊張しながら迎えた謁見の日。 シエルから言われた。 「俺がお前を愛することはない」 ああ、そうですか。 結構です。 白い結婚大歓迎! 私もあなたを愛するつもりなど毛頭ありません。 私はただ王宮でひっそり楽しく過ごしたいだけなのです。

処理中です...