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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋
三章 8
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「きみには、僕をここまで惚れさせた責任があるはずだ。きちんと納得して別れたい。理由を教えてほしい」
優之介の要求は至極もっともだ。
「実は、私は……」
糸織は途中で口を閉じた。そのまましばらく黙ってしまう。
そして決意したように、揺らしていた瞳を優之介に定める。
「優之介、後ろを向いて、目を閉じて」
そう言われた優之介は、なにをするのだという表情になりつつも素直に背を向けた。優之介の後ろにいた毬瑠子は邪魔にならないようにフロアの中央まで移動する。
糸織は優之介を背中から抱きしめた。
「私は優之介が好きだから別れるの」
「どういうことだ」
振り返ろうとする優之介に糸織が「そのままで」と声をかける。
「私はもうすぐ、この世から消える」
「病気だったのか」
背に頬をつけたまま糸織は首を振って否定する。
「物理的に、私は存在しなくなるのよ。だから私を探しも無駄」
「意味がわからない」
優之介は困惑しているようだ。
「さっき優之介は私に、どこかで幸せでいてくれたら満足だって言ってくれたわね。その言葉をお返しするわ。私を忘れて幸せになって」
「糸織……」
優之介は目を閉じたまま、回されている糸織の細い腕に手を重ねた。
「あなたとすごせて幸せだった。ありがとう優之介。さようなら」
糸織が消えた。
いや、小指の先ほどの小さなジョロウグモになった。
長い糸で身を浮かせ、糸織が座っていたカウンターのテーブルにゆっくりと着地する。
「糸織?」
掴んでいた腕の感触が突然消えて、優之介は振り向いた。優之介にはフロア内に、マルセル、蘇芳、毬瑠子しかいないように見えているだろう。
「糸織は?」
バーを見回しながら優之介が訪ねた。誰も口を開かない。
毬瑠子がそっとテーブルを見ると、小さなジョロウグモは身を震わせていた。泣いているのだろうか。
「僕はドアの前に立っていた。外に出られるはずはないから、糸織は室内にいるはずだ。そうだろ?」
「糸織はこの世から消えるって言ってただろ」
蘇芳が両肘をついてけだるく優之介を流し見た。そこにはいつもの揶揄はなく、やるせない空気をまとっている。
「心だけ残していかれても困るよな」
グラスを傾ける蘇芳の言葉は独り言のようだった。自分のことのようにも、優之介に同情しているようにも見える。
「僕は納得して別れたいと言ったのに。これじゃあ糸織がなぜ別れたがっていたのかわからないじゃないか。しかも突然消えるなんて、謎が増えただけだ」
優之介はひたいを抱えながら壁に寄りかかった。
「きみたちはなにか知っているんだろ? 本当に糸織は消えたのか。どんなふうに? 今探さなくては、彼女は永遠に見つからない気がする」
優之介は毬瑠子たちを見回した。
糸織は気持ちを優之介に伝えた。しかし優之介はそれを受け止めていない。これでは一方通行だ。
それに、肝心の優之介の気持ちを確認していないではないか。
こうして二人の関係が終わっていいのだろうか。
「優之介さん……」
考えているうちに、毬瑠子は声に出していた。
「糸織さんは消えていませんよ」
「毬瑠子」
マルセルがとめるように毬瑠子の名を呼んだ。
優之介の要求は至極もっともだ。
「実は、私は……」
糸織は途中で口を閉じた。そのまましばらく黙ってしまう。
そして決意したように、揺らしていた瞳を優之介に定める。
「優之介、後ろを向いて、目を閉じて」
そう言われた優之介は、なにをするのだという表情になりつつも素直に背を向けた。優之介の後ろにいた毬瑠子は邪魔にならないようにフロアの中央まで移動する。
糸織は優之介を背中から抱きしめた。
「私は優之介が好きだから別れるの」
「どういうことだ」
振り返ろうとする優之介に糸織が「そのままで」と声をかける。
「私はもうすぐ、この世から消える」
「病気だったのか」
背に頬をつけたまま糸織は首を振って否定する。
「物理的に、私は存在しなくなるのよ。だから私を探しも無駄」
「意味がわからない」
優之介は困惑しているようだ。
「さっき優之介は私に、どこかで幸せでいてくれたら満足だって言ってくれたわね。その言葉をお返しするわ。私を忘れて幸せになって」
「糸織……」
優之介は目を閉じたまま、回されている糸織の細い腕に手を重ねた。
「あなたとすごせて幸せだった。ありがとう優之介。さようなら」
糸織が消えた。
いや、小指の先ほどの小さなジョロウグモになった。
長い糸で身を浮かせ、糸織が座っていたカウンターのテーブルにゆっくりと着地する。
「糸織?」
掴んでいた腕の感触が突然消えて、優之介は振り向いた。優之介にはフロア内に、マルセル、蘇芳、毬瑠子しかいないように見えているだろう。
「糸織は?」
バーを見回しながら優之介が訪ねた。誰も口を開かない。
毬瑠子がそっとテーブルを見ると、小さなジョロウグモは身を震わせていた。泣いているのだろうか。
「僕はドアの前に立っていた。外に出られるはずはないから、糸織は室内にいるはずだ。そうだろ?」
「糸織はこの世から消えるって言ってただろ」
蘇芳が両肘をついてけだるく優之介を流し見た。そこにはいつもの揶揄はなく、やるせない空気をまとっている。
「心だけ残していかれても困るよな」
グラスを傾ける蘇芳の言葉は独り言のようだった。自分のことのようにも、優之介に同情しているようにも見える。
「僕は納得して別れたいと言ったのに。これじゃあ糸織がなぜ別れたがっていたのかわからないじゃないか。しかも突然消えるなんて、謎が増えただけだ」
優之介はひたいを抱えながら壁に寄りかかった。
「きみたちはなにか知っているんだろ? 本当に糸織は消えたのか。どんなふうに? 今探さなくては、彼女は永遠に見つからない気がする」
優之介は毬瑠子たちを見回した。
糸織は気持ちを優之介に伝えた。しかし優之介はそれを受け止めていない。これでは一方通行だ。
それに、肝心の優之介の気持ちを確認していないではないか。
こうして二人の関係が終わっていいのだろうか。
「優之介さん……」
考えているうちに、毬瑠子は声に出していた。
「糸織さんは消えていませんよ」
「毬瑠子」
マルセルがとめるように毬瑠子の名を呼んだ。
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