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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋
三章 6
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「糸織さんは、本当にそれでいいんですか?」
毬瑠子は思わず問いかけていた。
糸織は毬瑠子に視線を向けた。目元が赤く染まっているのはアルコールのせいだけではないだろう。長いまつ毛は湿ってかすかに揺れている。
いいはずがないわ。
その目はそう叫んでいた。
「いつ別れを告げるんだ?」
そう糸織に尋ねたのは蘇芳だ。
「この後よ。お酒の力を借りでもしないと言える気がしないもの。マスター、もう一杯ちょうだい」
「……では軽めにしましょうか」
「いいえ、同じものにして」
糸織は自棄になっているようだ。
「ならさ、優之介ってやつを、今、ここに呼ぼうぜ」
糸織が驚いた表情で蘇芳を見た。
「ここに?」
「俺たちはあんたたちの事情を知っちまったんだ。乗りかかった船ってやつだな、最後まで見届けさせろよ」
「蘇芳、失礼ですよ」
マルセルはいさめたが、
「いいわ」
糸織は承諾した。
「そうこなきゃ」
蘇芳はニヤリと笑う。
「糸織、無理をしなくていいのですよ」
「場所なんてどこでも、することは同じだもの」
マルセルから三杯目のブランデーを受け取ると、糸織は鞄からスマートフォンを取り出した。そして画面を操作していた手が止まる。みるみる切なげな表情になった。通話ボタンが押せないようだ。
「いくわよ、かけるわよ」
糸織は再び眉をつり上げて、自分に言い聞かせるようにして、思い切ったように通話ボタンを押した。スマートフォンからかすかに呼び出しのコール音が漏れ聞こえ、それが途切れた。
「もしもし優之介、あのね……え、なに?」
強張っていた糸織の表情がだんだんと緩んでゆく。
「ああ、あの蛇がまた脱皮に失敗したの……きっと優之介に手伝ってほしいのよ……。その気持ちもわかるわ、あなたの手つきがとても優しいから……」
通常の会話になっていた糸織は、周囲の視線に気づいて咳払いをする。
「そんなことより、大事な話があるのよ。……そう、緊急よ。今すぐに来て。場所は……」
糸織はバーの住所を伝えて通話を切った。
「そういえば、優之介にはあなたたちが見えないんじゃないの?」
糸織はスマートフォンをしまいながら誰にともなく話しかけた。恋人が来るまでの緊張を分散させたいのかもしれない。
「お嬢ちゃんは半妖で、俺とマルセルは人に化けられる。問題ない」
蘇芳が答えた。
「毬瑠子、外に出て優之介を待っていてもらえませんか。人にはこの店は気づきにくいんです」
マルセルに頼まれて毬瑠子は返事をしてカウンターを出た。そういえば、霊感のようなものが強い人間が来店することがあると聞いていたが、いままで一度も人が入ってきたことはなかった。
外に出ると周囲には人通りが少なかった。都会の真ん中ではあるが、二十時をすぎると小さな個人商店は軒並み閉まり、夜空に星が浮かび上がる。薄手の長そでシャツを着ている毬瑠子は、外気がちょうどよかった。
「人とあやかし、か……」
ポツリと呟く。
半妖の毬瑠子はどちらの血も流れている。ひと月ほど前までは、あやかしの存在すら知らなかったのに。
「そういえば……」
毬瑠子の家系は、いわゆる“霊感”が強かったようだ。祖父母は毬瑠子が中学生の頃に亡くなったが、心霊現象のようなものを毛嫌いしていた。恐れるというよりも、嫌悪していたのだ。居もしない霊や妖怪の類によくも本気で憤れるものだと思っていたが、実際に存在するとなると話は別だ。
「あやかしの類に、嫌な目にあったのかな……」
今ならそう思える。詳しく話を聞いておけばよかったと思うが、祖父母はとても厳格で頑固で、毬瑠子はあまり二人が好きではなかったし、そもそも毬瑠子は祖父母に嫌われていた。特に悪いことをした覚えはないのだが。
「あの人かな」
大通りの方角に、スマートフォンに目を落として建物の番地と照らし合わせている様子の男性がいた。長身痩躯でメガネ。糸織の言っていた特徴とも合っている。
毬瑠子は思わず問いかけていた。
糸織は毬瑠子に視線を向けた。目元が赤く染まっているのはアルコールのせいだけではないだろう。長いまつ毛は湿ってかすかに揺れている。
いいはずがないわ。
その目はそう叫んでいた。
「いつ別れを告げるんだ?」
そう糸織に尋ねたのは蘇芳だ。
「この後よ。お酒の力を借りでもしないと言える気がしないもの。マスター、もう一杯ちょうだい」
「……では軽めにしましょうか」
「いいえ、同じものにして」
糸織は自棄になっているようだ。
「ならさ、優之介ってやつを、今、ここに呼ぼうぜ」
糸織が驚いた表情で蘇芳を見た。
「ここに?」
「俺たちはあんたたちの事情を知っちまったんだ。乗りかかった船ってやつだな、最後まで見届けさせろよ」
「蘇芳、失礼ですよ」
マルセルはいさめたが、
「いいわ」
糸織は承諾した。
「そうこなきゃ」
蘇芳はニヤリと笑う。
「糸織、無理をしなくていいのですよ」
「場所なんてどこでも、することは同じだもの」
マルセルから三杯目のブランデーを受け取ると、糸織は鞄からスマートフォンを取り出した。そして画面を操作していた手が止まる。みるみる切なげな表情になった。通話ボタンが押せないようだ。
「いくわよ、かけるわよ」
糸織は再び眉をつり上げて、自分に言い聞かせるようにして、思い切ったように通話ボタンを押した。スマートフォンからかすかに呼び出しのコール音が漏れ聞こえ、それが途切れた。
「もしもし優之介、あのね……え、なに?」
強張っていた糸織の表情がだんだんと緩んでゆく。
「ああ、あの蛇がまた脱皮に失敗したの……きっと優之介に手伝ってほしいのよ……。その気持ちもわかるわ、あなたの手つきがとても優しいから……」
通常の会話になっていた糸織は、周囲の視線に気づいて咳払いをする。
「そんなことより、大事な話があるのよ。……そう、緊急よ。今すぐに来て。場所は……」
糸織はバーの住所を伝えて通話を切った。
「そういえば、優之介にはあなたたちが見えないんじゃないの?」
糸織はスマートフォンをしまいながら誰にともなく話しかけた。恋人が来るまでの緊張を分散させたいのかもしれない。
「お嬢ちゃんは半妖で、俺とマルセルは人に化けられる。問題ない」
蘇芳が答えた。
「毬瑠子、外に出て優之介を待っていてもらえませんか。人にはこの店は気づきにくいんです」
マルセルに頼まれて毬瑠子は返事をしてカウンターを出た。そういえば、霊感のようなものが強い人間が来店することがあると聞いていたが、いままで一度も人が入ってきたことはなかった。
外に出ると周囲には人通りが少なかった。都会の真ん中ではあるが、二十時をすぎると小さな個人商店は軒並み閉まり、夜空に星が浮かび上がる。薄手の長そでシャツを着ている毬瑠子は、外気がちょうどよかった。
「人とあやかし、か……」
ポツリと呟く。
半妖の毬瑠子はどちらの血も流れている。ひと月ほど前までは、あやかしの存在すら知らなかったのに。
「そういえば……」
毬瑠子の家系は、いわゆる“霊感”が強かったようだ。祖父母は毬瑠子が中学生の頃に亡くなったが、心霊現象のようなものを毛嫌いしていた。恐れるというよりも、嫌悪していたのだ。居もしない霊や妖怪の類によくも本気で憤れるものだと思っていたが、実際に存在するとなると話は別だ。
「あやかしの類に、嫌な目にあったのかな……」
今ならそう思える。詳しく話を聞いておけばよかったと思うが、祖父母はとても厳格で頑固で、毬瑠子はあまり二人が好きではなかったし、そもそも毬瑠子は祖父母に嫌われていた。特に悪いことをした覚えはないのだが。
「あの人かな」
大通りの方角に、スマートフォンに目を落として建物の番地と照らし合わせている様子の男性がいた。長身痩躯でメガネ。糸織の言っていた特徴とも合っている。
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