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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋

三章 5

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「なあマルセル、おまえも正体がバレたから振られたんだもんな。隠していれば運命も変わって、今頃親子三人で暮らしていたかもしれねえのに」
 毬瑠子があえて触れなかった話題に蘇芳は切り込んだ。ハラハラとしながらマルセルを見上げると、きつく唇を引き締めてつらそうに眉をひそめていた。
 その様子を見て、毬瑠子は母に苛立ちを感じた。相手が人でないというだけで、好きという気持ちは簡単に消えてなくなってしまうものなのだろうか。マルセルはこんなに優しくていい人なのに。
 ――お父さんは素敵な人よ。今でも大好き。
 不意に、母の言葉がよみがえってきた。
 そうだ。父親のことを尋ねた時、母はそう言っていた。
 毬瑠子は眉根を寄せた。話が食い違っている気がする。
「まあ、この手の話はだいたい、見るな、言うな、振り向くな、なんてタブーとセットだ。するなと言われりゃしたくなるよな」
 薄く笑う蘇芳を横目で見てから、糸織はマルセルを見上げた。
「マスターはどうしたらいいと思う? 彼の言うように、優之介をだまし続けたほうが幸せだという意見かしら」
「いいえ、わたしは正直に話すべきだと思います」
 マルセルは首を振った。
「振られ仲間を作りたいのかな」
 蘇芳はまた揶揄する。マルセルは「違います」と抑えた表情で否定した。
「お話を伺う限り、優之介は種の偏見がないようです。あなたを受け入れる可能性は充分にあると思いますよ。それにあなたは騙し続けているのはつらいと言っていましたね。告白したあとどうするかは、彼の判断に任せましょう」
「やめとけって、あんた絡新婦だろ。そいつがいくら昆虫好きだと言っても、人間以上に大きなジョロウグモを見て怖気づかねえはずがねえよ。時には優しい嘘ってのも必要だ」
 二人の意見は正反対だ。
「糸織」
 マルセルは口調を改めて呼びかけた。
「あなたの言うように、好きな相手に秘密を抱えることはつらいものです。真実を打ち明けるならできるだけ早い方がいいと思いますよ。遅くなるほど相手は騙されたという気持ちも大きくなりますからね。相手にとって衝撃的な内容でしょうから、タイミングも重要です。お互いの信頼が高まったときに切り出してください。あなたたちなら、きっと大丈夫です」
 マルセルは糸織に微笑みかけた。その赤い瞳は糸織を映しているようで、もっとずっと遠くを見ているようでもあった。
 マルセルさんはきっと、糸織さんたちに自分とお母さんを重ねてるんだ。
 毬瑠子はそう思った。
「そう。……ありがとう」
 糸織は二杯目のブランデーを一気に煽った。
「私、やっぱり別れるわ」
 力んでいるのか、糸織がグラスをテーブルに置く際に固く鈍い音がした。
「別れちゃうんですか」
 毬瑠子は驚いた。てっきり優之介と関係を続ける道を模索するものだとばかり思っていたからだ。
「無理だと頭ではわかっていたのよ。優之介には私との楽しかった思い出だけが残ればいい。あやかしを愛したなんて知らなくていいわ。トラウマになったら可哀想だもの」
 糸織は指先が白くなるほどグラスを強く握っている。
「初めから別れると決めていたんだな」
 蘇芳の言葉に、糸織は下唇を噛みしめる。
「そうよ。そしてあなたたちの話を聞いて決意が固まったわ。人とあやかしでは、絶対に幸せになれない。私たちはあまりにも過ぎる時間が違いすぎる。人の命は短い。これ以上優之介の人生を奪ってはいけないわ」
 チクリと毬瑠子の胸が痛んだ。
 本当にそうだろうか。
 生きる時間が違う。
 種族が違う。
 容姿が違う。
 それは、そんなにも重要なのだろうか。
 大切なのは二人の気持ちではないのか。
 糸織は優之介の気持ちを確かめずに去ろうとしている。
 それは本人が言っていたように、怖がらせないという相手のためでもあり、怖がっている相手を見て自分が傷つかないためでもある。
 楽しい思い出を黒く塗りつぶさないことは、逃げでありながら無難な選択だと言えるだろう。
 しかし、その選択は最良の結果「二人で生きる」という可能性を捨てることだ。
「糸織さんは、本当にそれでいいんですか?」
 毬瑠子は思わず問いかけていた。
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