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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋

三章 3

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 糸織はそのまま別れがたく、男性の薄い背中に張り付いた。
 彼は爬虫類や昆虫を専門に扱う店に入っていった。
 男はその店のオーナーだった。
 店ではタランチュラなどの蜘蛛も扱っている。先ほど慣れた手つきだったのもうなずけた。
 糸織は人に化け、店に通うようになった。
 数百年生きているが、糸織が人に化けたのは初めてだった。元の姿との違いが大きすぎて、二足歩行の練習から始めたくらいだ。
 しゃべりも立ち居振る舞いもぎこちない糸織を、やはり男は温かく迎えた。なにも買わずに帰る冷やかしのような状態だったのにも関わらず、彼は糸織が尋ねるとなんでも丁寧に説明した。
 一般的には嫌われがちな生き物たちを心から愛し慈しんでいる姿に、ますます糸織の心は揺さぶられた。
 いつしか彼・優之介と店外でも会うようになった。
 ある日、公園のベンチで優之介と話していると、彼の腕に蚊がとまっていた。気付いているようだが振り払う気配がない。
「なぜそのままにしているの?」
 気になった糸織は優之介に尋ねた。
「彼女が食事中だからさ」
 優之介は冗談めかして笑った。糸織は小首をかしげる。
「彼女?」
「蚊は普段、オスもメスも花や果実の汁を吸っている。こうして血を吸うのは産卵期のメスだけだ。リスクをかかえて生き物の血を得ないといけないのだから、どんな生物もお母さんは大変だよね」
 赤くなった腹を倍以上も膨らませて、蚊はゆっくり飛び立った。ふらふらしているのは腹が重いためだろう。
「目に見える生き物の中で、約八十%を占めているのは昆虫だ。人間なんて少数派だよね。しかも四十五憶年の地球の歴史の中で、人は生まれてからたった二十万年しか経っていない。新参者らしく謙虚に、あらゆる生き物と共存しないといけないと僕は思うんだ」
 優之介はよく、このような生き物のうんちくを語る。専門店のオーナーだけあって、特に昆虫や爬虫類にまつわることが多い。「よく気持ち悪がられるんだ」と優之介は笑っていた。
 優之介は特定の生物を偏愛しているのではない。誰も気にもかけないような生き物にまで愛情を向けられる人物なのだ。
 いつしか糸織は優之介を愛していた。
 おそらく、優之介も。
 だからこそ糸織は悩みはじめた。
 糸織は悠久の時を生きるあやかしだ。人間と共に老いて死んでいくことができない。
 このまま傍にいていいのだろうか。彼のためには、自分はいないほうがいいのではないか。
 糸織は人に化けて優之介と会っている。優之介が愛しているのは糸織の仮の姿なのだ。巨大なジョロウグモの姿をしていることを、優之介は知らないのだ。
 本当の自分を知ってもらいたい。
 優之介をだまし続けているのはつらい。
 しかし、糸織が絡新婦だと知れば、優之介は怯えるだろう。
 愛する人が自分を恐れる姿は見たくなかった。
 それならば、なにも告げずに姿を消した方がいいのではないか……。
 糸織は何日も一人で考えていたが、答えはでなかった。
 そんなとき、あやかしの相談にのるというBAR SANGの噂を聞いた。
 そして糸織は蘇芳と共にバーのドアを開いた――。

   * * *
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