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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋
三章 2
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ドアベルがカランと鳴った。
店に入ってきたのは腰まである黒髪が美しい、華奢ながらメリハリのあるボディラインの女性だった。淡黄のワンピースを着ている。
人間が来るはずのない店だ。彼女も人の姿をしたあやかしなのだろう。
「いらっしゃいませ。お好きなところにどうぞ」
マルセルが声をかけると、女性は入り口に一番近いカウンター席の端に座った。
「なんでもいいわ、ガツンとくるお酒をちょうだい」
色気のある和風美人の眉間にはしわが寄っていた。なにか悩みを抱えているように見える。
マルセルは先ほど作っていた透明な丸氷を入れたブランデーを、チェイサーと共に女性に渡した。
グラスいっぱいになる大きな丸氷はビジュアルがいいだけでなく、酒に触れる表面積が小さくなるので、ゆっくりと溶けて薄まりにくいというメリットがある。
毬瑠子もナッツやおしぼりをテーブルに置いた。
「『一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除く』。音楽家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの言葉です。あなたの苦悩も軽減するといいのですが」
マルセルの言葉に女性は顔をあげた。
「ここはあやかしの相談を聞いてくれるバーなんでしょ」
毬瑠子とマルセルの視線が、しれっとした表情の蘇芳に集まる。
悩みを持つあやかしを蘇芳が面白半分で連れてくるうちに、そんな噂が流れているようだ。
マルセルは女性ににっこりと微笑んだ。
「ここはバーですから、わたしでよろしければお話を伺います。お悩みを解決できるかどうかは、また別の話ですけども」
「そう」
女性はブランデーを飲むと、頬をほんのりと染めながら吐息した。「ガツンとくるお酒を」と威勢のいいことを言いながら、アルコールには弱いようだ。
「私は人を愛してしまったの」
苦悩するような表情を浮かべている女性がグラスを揺らすと、透明なボールが回転して淡い照明を反射した。
女性の言葉に、毬瑠子は興味をそそられた。
この女性はあやかしのはずだ。
あやかしが人を愛した。
毬瑠子は女性に真摯な表情でみつめるマルセルにチラリと視線を向けた。
人とあやかしの愛。そこにハードルがないはずがないのだ。
自分の両親は、マルセルたちはどうだったのか――。
女性は表面に露出している丸氷を指先で回しながら、男性との出会いを語り始めた。
* * *
絡新婦の糸織は、人よりも大きなジョロウグモの姿をしている。大半は自然体ですごしているが、時に小指の先ほどの小さいジョロウグモとなって、糸を凧のようにしてふわふわと風に身をゆだねていた。
桜が舞い散る、昨年の春のことだった。
普段は人のいない空き地でゆったりと漂っているのだが、その日はいささか風が強かった。気づかぬうちに遠くまで流されていた。
公園のベンチに座る読書中の男性の肩に糸織の糸が引っかかり、自分が流されていたことに気がついた。
そしてその男の本に、小さいジョロウグモ姿の糸織は着地してしまった。
小さいとはいえジョロウグモは黄色と黒の縞模様と長い脚で、気味悪がられることが多い。本をパタンと閉じられてしまえば、糸織の命は尽きていただろう。
動転するあまり元の姿になるのも忘れて糸織は硬直していた。
するとメガネをかけた男性は、突然現れたジョロウグモに慌てることなく、しげしげと糸織を観察した。
「ジョロウグモの子供かな。それにしては形は成虫のようだけど。ともかく、葉っぱにおろしてやろう」
男性はわざわざ糸織を指先にのせて、近くの木の葉にそっと移した。三十代前半だろうか、長身痩躯で一見冷たそうにも見えるが、メガネの奥の優しい瞳が印象的だった。
「きみは綺麗な模様をしているね。じゃあ、元気で」
男は笑みを残して踵を返した。
糸織は驚いた。
人に声をかけられたことも初めてなら、模様をほめられたのも初めてだ。
先ほどのように、優しく触れられたこともない。
糸織はそのまま別れがたく、男性の薄い背中に張り付いた。
店に入ってきたのは腰まである黒髪が美しい、華奢ながらメリハリのあるボディラインの女性だった。淡黄のワンピースを着ている。
人間が来るはずのない店だ。彼女も人の姿をしたあやかしなのだろう。
「いらっしゃいませ。お好きなところにどうぞ」
マルセルが声をかけると、女性は入り口に一番近いカウンター席の端に座った。
「なんでもいいわ、ガツンとくるお酒をちょうだい」
色気のある和風美人の眉間にはしわが寄っていた。なにか悩みを抱えているように見える。
マルセルは先ほど作っていた透明な丸氷を入れたブランデーを、チェイサーと共に女性に渡した。
グラスいっぱいになる大きな丸氷はビジュアルがいいだけでなく、酒に触れる表面積が小さくなるので、ゆっくりと溶けて薄まりにくいというメリットがある。
毬瑠子もナッツやおしぼりをテーブルに置いた。
「『一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除く』。音楽家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの言葉です。あなたの苦悩も軽減するといいのですが」
マルセルの言葉に女性は顔をあげた。
「ここはあやかしの相談を聞いてくれるバーなんでしょ」
毬瑠子とマルセルの視線が、しれっとした表情の蘇芳に集まる。
悩みを持つあやかしを蘇芳が面白半分で連れてくるうちに、そんな噂が流れているようだ。
マルセルは女性ににっこりと微笑んだ。
「ここはバーですから、わたしでよろしければお話を伺います。お悩みを解決できるかどうかは、また別の話ですけども」
「そう」
女性はブランデーを飲むと、頬をほんのりと染めながら吐息した。「ガツンとくるお酒を」と威勢のいいことを言いながら、アルコールには弱いようだ。
「私は人を愛してしまったの」
苦悩するような表情を浮かべている女性がグラスを揺らすと、透明なボールが回転して淡い照明を反射した。
女性の言葉に、毬瑠子は興味をそそられた。
この女性はあやかしのはずだ。
あやかしが人を愛した。
毬瑠子は女性に真摯な表情でみつめるマルセルにチラリと視線を向けた。
人とあやかしの愛。そこにハードルがないはずがないのだ。
自分の両親は、マルセルたちはどうだったのか――。
女性は表面に露出している丸氷を指先で回しながら、男性との出会いを語り始めた。
* * *
絡新婦の糸織は、人よりも大きなジョロウグモの姿をしている。大半は自然体ですごしているが、時に小指の先ほどの小さいジョロウグモとなって、糸を凧のようにしてふわふわと風に身をゆだねていた。
桜が舞い散る、昨年の春のことだった。
普段は人のいない空き地でゆったりと漂っているのだが、その日はいささか風が強かった。気づかぬうちに遠くまで流されていた。
公園のベンチに座る読書中の男性の肩に糸織の糸が引っかかり、自分が流されていたことに気がついた。
そしてその男の本に、小さいジョロウグモ姿の糸織は着地してしまった。
小さいとはいえジョロウグモは黄色と黒の縞模様と長い脚で、気味悪がられることが多い。本をパタンと閉じられてしまえば、糸織の命は尽きていただろう。
動転するあまり元の姿になるのも忘れて糸織は硬直していた。
するとメガネをかけた男性は、突然現れたジョロウグモに慌てることなく、しげしげと糸織を観察した。
「ジョロウグモの子供かな。それにしては形は成虫のようだけど。ともかく、葉っぱにおろしてやろう」
男性はわざわざ糸織を指先にのせて、近くの木の葉にそっと移した。三十代前半だろうか、長身痩躯で一見冷たそうにも見えるが、メガネの奥の優しい瞳が印象的だった。
「きみは綺麗な模様をしているね。じゃあ、元気で」
男は笑みを残して踵を返した。
糸織は驚いた。
人に声をかけられたことも初めてなら、模様をほめられたのも初めてだ。
先ほどのように、優しく触れられたこともない。
糸織はそのまま別れがたく、男性の薄い背中に張り付いた。
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