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一章 猫又とおばあちゃん

一章 1

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 毬瑠子のアルバイト二日目。
 カランカランと「BAR SANG」のドアベルが鳴った。
 毬瑠子は緊張する。初めての客だ。
 この店にはいわゆる“霊感”が強い人も入ってくるそうだが、基本的にはあやかしが来店するという。
 どんな恐ろしいあやかしがやってくるのか。毬瑠子はドアに注目した。
「よっ、飲みに来てやったぜ」
 少しドアを屈むようにして店に入ってきたのは、長身のマルセルよりも更に背の高い男性だ。百九十センチほどある。
「なんだ、人間か」
 毬瑠子はホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちになった。
「いらっしゃいませ」
 声をかけながら改めて男の顔を見ると、胸が飛び跳ねた。
 ストレートの黒髪の合間から鋭い眼光が光り、それを中和するような肉厚のある唇が艶っぽい。日に焼けたような小麦色の肌は、服越しでも筋肉が浮いて見えるほど逞しかった。
 マルセルとはタイプは違うが、こちらも見惚れるほどの美丈夫だ。なんだか不健全な妖艶さがあって、毬瑠子は男性を直視できない。こんなことは初めてだった。
「別に来ていただかなくても結構ですよ」
 マルセルはしらっとした顔で言い放った。
 毬瑠子は自分との態度の違いに驚く。マルセルの笑顔以外の表情を見るのは初めてかもしれない。
「つれねえな。そう言うなよ、連れもいるんだから」
「それが余計なお世話だと言っているんです」
 マルセルは迷惑そうな表情を隠しもしない。
 連れがいると言うが見当たらないなと思っていたら、巨躯の後ろに少年がいた。六歳くらいだろうか、身長は男の腰の高さほどしかない。黒髪はサラサラとしたストレートだ。
 アーモンド形の瞳の可愛らしい少年には、黒い猫耳としっぽが二本生えていた。
「耳としっぽっ」
 小さく声をあげると、隣りにいるマルセルが「彼は猫又です」と教えてくれた。名前だけは聞いたことがある。こんなに可愛いあやかしなら大歓迎だ。
「さ、来いよ。こいつは猫又のクロだ」
「クロにゃ」
 ペコリと頭を下げる少年を男は抱き上げると、カウンターの椅子に座らせて椅子の高さを調整した。常連なのだろう、勝手知ったるという様子だ。自身もその隣りに座る。
 クロからチリンと鈴の音がした。よく見ると首輪をしている。
「俺は蘇芳。お嬢ちゃんがマルセルの娘さんか。父親に似て綺麗な顔をしている。口説いていいかな」
 蘇芳は揶揄するような笑みを浮かべている。
「わたしの大事な娘に手を出さないでください」
 蘇芳に冷ややかな視線を向けながら、マルセルは毬瑠子を背中に隠した。
「俺は性別問わず美しいものが好きなんだ。知ってるだろ」
 蘇芳はニヤニヤと笑っている。人間離れをした美しい容姿だが、毬瑠子は軽薄な印象を受けた。
「事情は存じていますし同情もしますけど、いい加減に落ちついてください」
「おまえにだけは言われたくねえな」
 なんだろう、この二人、すっごく仲が悪い。
 一触即発の空気に毬瑠子はいたたまれなくなる。
「マルセルさん、この人もあやかしなの?」
 話を反らそうと、毬瑠子はマルセルに小声で話しかけた。蘇芳にはシッポも角もないようだが、猫又を連れてきたのだ。普通の人ではないだろう。
「彼は桂男です」
 毬瑠子は小首をかしげる。聞いたことがない。
 マルセルに許可を取り、毬瑠子はポケットに入れていたスマートフォンを取り出して検索することにした。
 桂男は月の住人で、『伊勢物語』の中では「まるで月に存在するもののように常人が触れがたく、神秘的な美しさの持ち主である」とする慣用句として使われているという。
 江戸時代の奇談集『絵本百物語』には、満月ではないときに月を長く見ていると、桂男に招かれて命を落とすことにもなりかねないともある。
 つまり、危険で美しい妖怪。
 それが桂男のようだ。
 スマートフォンから顔をあげた毬瑠子は蘇芳と目が合った。蘇芳は口角を上げてただ笑っただけなのに、どこか蠱惑的に映ってドキリとする。
 確かに危険な気がする。第一印象は正しかった。
 蘇芳さんには近づかないでおこう、と毬瑠子は胸に刻んだ。
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