64 / 64
終章
終章 5【完結】
しおりを挟む
小藤はゴクリと唾を飲み、唇を引き締めた。そして干からびて血の通っていない兄の顔を見ると、決意は固まった。
小藤は静かに立ち上がって土間に下り、勝手から目的のものを持ってきた。
手には、包丁が握られていた。
「神さま、お願いします。私の命を使って、兄ちゃんを助けてください」
兄の傍で正座をすると、小藤は包丁を両手で持ち、鋭い歯を白い首に当てた。冷たい刃の感触に全身が凍る。
怖い。どれほどの痛みだろうかと考えそうになり、小藤はすべての思考を振り払った。
これを成し遂げられたら、兄は元気になるのだ。それだけを信じるのだ。
小藤は腹に力をこめ、強く目をつむる。そして包丁を首に当てて食い込ませながら、思いきり引いた。
次の瞬間、小藤は温かいものに包まれていた。
痛みはない。限界を超えて痛覚が麻痺してしまったのだろうか。
「命を粗末にして、愚かな娘だ」
言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた声がした。
「光仙さま」
見上げると、光仙が悲し気に微笑んでいた。小藤は光仙の胸の中にいた。
「粗末にしたのではありません。兄ちゃんにあげたかったんです。兄ちゃんはどうなりましたか?」
光仙の視線を追うと、仰向けに寝ている兄の身体の上に、小藤が被さって倒れていた。小藤が二人いる。身体と魂だ。
光仙と小藤は、兄たちが横たわる部屋に浮いていた。
兄は先ほどの姿勢と変わりがない。
今までと同じ、動く気配がなかった。
「……私の願いは、届きませんでしたか」
小藤は落胆した。一縷の望みをかけた最後の手段だったのに。
その時、兄の瞼がピクリと動いた気がした。
「兄ちゃん?」
小藤は呼びかけた。
兄の瞳が開かれると、慌てて起き上がろうとして、思うように動かない身体に呻いている。筋力が弱まり、身体に力が入らないのだろう。
「小藤、目を覚ませ」
なんとか上半身を起こした兄は、小藤の身体を揺すった。しかし小藤は動かない。小藤の呼吸はとまっていた。
「なんてことを……小藤」
兄は小藤を抱きしめた。
「おまえの兄は眠っているように見えて、意識はあった。小藤がしていたことはすべて気配でわかっていた」
「兄ちゃん、悲しまないで。目覚めてよかった。よかったよ」
小藤は涙ぐんだ。
「光仙さまが兄ちゃんを助けてくれたのですね。ありがとうございます」
小藤は光仙に顔を向ける。
「人柱になったと思い込み、勝手に力をつけた今のおまえが命を賭した願いを、神として無下にはできない」
「私が力をつけたことが、兄ちゃんを救うことに繋がったのですか?」
「そうだ」
「そうですか……」
胸がいっぱいになる。苦しい思いをして人柱になったことは無駄ではなかったのだ。
「私は……出血していないのですね」
小藤の身体の近くに包丁が転がっているが、刃には一滴も血がついていなかった。恐怖のあまりに、首を切るより先に心停止をしたのだろうか。痛々しい遺体にならなくて済んだのはいいが、少々情けない気もする。
「わたしのお気に入りを傷ものにするわけがないだろう」
小藤は目を丸くした。
どうやら光仙は、切るより先に小藤の魂を抜いたようだ。
「これでおまえは、わたしのものだ」
光仙の大きな手が小藤の髪をなでた。それが気持ちよくて小藤は目を細める。
「はい、光栄です」
それは小藤が願ったことだ。強制的に世界を隔てられた時には悲しみしかなかった。
「これからもよろしくお願いします」
小藤は笑みを浮かべて、光仙の胸に顔を埋めた。
了
小藤は静かに立ち上がって土間に下り、勝手から目的のものを持ってきた。
手には、包丁が握られていた。
「神さま、お願いします。私の命を使って、兄ちゃんを助けてください」
兄の傍で正座をすると、小藤は包丁を両手で持ち、鋭い歯を白い首に当てた。冷たい刃の感触に全身が凍る。
怖い。どれほどの痛みだろうかと考えそうになり、小藤はすべての思考を振り払った。
これを成し遂げられたら、兄は元気になるのだ。それだけを信じるのだ。
小藤は腹に力をこめ、強く目をつむる。そして包丁を首に当てて食い込ませながら、思いきり引いた。
次の瞬間、小藤は温かいものに包まれていた。
痛みはない。限界を超えて痛覚が麻痺してしまったのだろうか。
「命を粗末にして、愚かな娘だ」
言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた声がした。
「光仙さま」
見上げると、光仙が悲し気に微笑んでいた。小藤は光仙の胸の中にいた。
「粗末にしたのではありません。兄ちゃんにあげたかったんです。兄ちゃんはどうなりましたか?」
光仙の視線を追うと、仰向けに寝ている兄の身体の上に、小藤が被さって倒れていた。小藤が二人いる。身体と魂だ。
光仙と小藤は、兄たちが横たわる部屋に浮いていた。
兄は先ほどの姿勢と変わりがない。
今までと同じ、動く気配がなかった。
「……私の願いは、届きませんでしたか」
小藤は落胆した。一縷の望みをかけた最後の手段だったのに。
その時、兄の瞼がピクリと動いた気がした。
「兄ちゃん?」
小藤は呼びかけた。
兄の瞳が開かれると、慌てて起き上がろうとして、思うように動かない身体に呻いている。筋力が弱まり、身体に力が入らないのだろう。
「小藤、目を覚ませ」
なんとか上半身を起こした兄は、小藤の身体を揺すった。しかし小藤は動かない。小藤の呼吸はとまっていた。
「なんてことを……小藤」
兄は小藤を抱きしめた。
「おまえの兄は眠っているように見えて、意識はあった。小藤がしていたことはすべて気配でわかっていた」
「兄ちゃん、悲しまないで。目覚めてよかった。よかったよ」
小藤は涙ぐんだ。
「光仙さまが兄ちゃんを助けてくれたのですね。ありがとうございます」
小藤は光仙に顔を向ける。
「人柱になったと思い込み、勝手に力をつけた今のおまえが命を賭した願いを、神として無下にはできない」
「私が力をつけたことが、兄ちゃんを救うことに繋がったのですか?」
「そうだ」
「そうですか……」
胸がいっぱいになる。苦しい思いをして人柱になったことは無駄ではなかったのだ。
「私は……出血していないのですね」
小藤の身体の近くに包丁が転がっているが、刃には一滴も血がついていなかった。恐怖のあまりに、首を切るより先に心停止をしたのだろうか。痛々しい遺体にならなくて済んだのはいいが、少々情けない気もする。
「わたしのお気に入りを傷ものにするわけがないだろう」
小藤は目を丸くした。
どうやら光仙は、切るより先に小藤の魂を抜いたようだ。
「これでおまえは、わたしのものだ」
光仙の大きな手が小藤の髪をなでた。それが気持ちよくて小藤は目を細める。
「はい、光栄です」
それは小藤が願ったことだ。強制的に世界を隔てられた時には悲しみしかなかった。
「これからもよろしくお願いします」
小藤は笑みを浮かべて、光仙の胸に顔を埋めた。
了
32
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(3件)
あなたにおすすめの小説
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
登場人物達にあたたかみがあって、優しい雰囲気を感じます。ホラーはそこはかとない怖さがありましたが、ホラーが苦手でも面白く読ませてもらいました。
コメントありがとうございます! 嬉しいです✨
あと数話で完結です。小藤と光仙の関係も、見守っていただけますと幸いです!
小藤が好きです。とても優しく強い彼女が愛しいです。まだ途中ですが、また読みたいと思います。
大賞の投票の方させていただきました。
ご感想、そしてご投票ありがとうございます🙏🙏🙏
引き続き、楽しんでいただけますと幸いです!
小藤の優しさがじんわりと伝わってきて、とても読みごたえがあります。まだ一章だけですが、続きをゆっくり読ませていただきます。
ご感想ありがとうございます! 楽しんでいただけますと幸いです✨