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終章
終章 1
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二十畳ほどの床の間は静かだった。
鶯と梅が描かれた掛け軸の前には椿を中心とした花が生けてあり、どちらも春らしい。
それらを背後に光仙が座っている。
「小藤、肩の力を抜いて楽にしなさい」
「はい、ありがとうございます」
そう言われても、と内心、小藤は思う。
簡単に力が抜けるものではなかった。それは光仙がどこか張りつめているものがあるからで、それを小藤も感じ取っているのだ。
今日は日課になっている朝の散歩はなしだ。朝餉が終わり、落ち着いたころに光仙に呼ばれた。
阿光と吽光は出かけている。人払いでもしたかのようだ。
神社には光仙と小藤しかいない。だから余計に静かなのだ。
「手を出して」
いつものように光仙に言われて小藤は右手を差し出した。光仙はその手に視線を落とし、手の平をひとなでした。
「もう傷ひとつないな」
小藤の手には傷どころか、数年かけて大きく固くなっていた、まめやたこすらも消え去っていた。
「身体のほうもなくなっているだろう」
「はい」
身体には一生残るような傷があったのに、すっかりなくなった。
光仙に手を解放されて、まだ正座の膝の位置に手を戻した。
「おまえが来てから、二か月ほどが経った」
人柱になった時は三月だった。それに比べて今は随分と温かくなり、日も長くなった。
「あの雨の日、わたしはおまえを助けた」
「ありがとうございます」
おかげで小藤の今がある。
「言葉のとおり、助けたのだ。おまえは死んだと思い込んでいるが、生きている」
「……はい?」
小藤はまばたきを繰り返した。
光仙の言葉がのみこめなかった。この神社に住むようになってからの様々なことが思い出される。どう考えても、自分が生きた人間だとは思えなかった。
「でも私は人には見えませんし、声も届きません」
「あのまま“あちら側”に置いていては、おまえの命は尽きていた。だから生身のまま“こちら側”に連れてきたのだ」
あちら側とこちら側。
その区別はなんとなくついた。
たとえば小藤は、菊や松蔵の枕元に立ち、名前を呼んだ。するとどちらも半透明になり起き上がった。元々の身体の方が光仙の言っている“あちら側”で、半透明になって起き上がったほうが“こちら側”なのだろう。
そして、「生身のままこちら側に連れてきた」と言ったのだから……。
「ですから、それが死んだということなのでは?」
「そうではない。あちらとこちらは次元が違う。流れる時間が違う」
それは以前も聞いた覚えがある。人と神とは生きる次元が違う。同じものであって同じものでない。見えるようで見えていない。
それを聞いて小藤は、手習いに通っていた時期に読んだ『御伽草子(おとぎぞうし)』に収録されている『浦島太郎』を思い出した。
亀を助けた浦島太郎は、礼にと龍宮でもてなされる。故郷に戻って土産にもらった玉手箱を開けると、浦島太郎は老人になったという話だ。
浦島太郎が老人になった理由は、竜宮とは常世のことで、流れる時間が違うために、常世で過ごした時間よりはるかに故郷の時間は経っていたと解釈できるそうだ。
光仙の言うあちら側とこちら側の違いは、それと近いものなのだろうと小藤は思った。
「てっきり私は、死んで神のような存在になったものかと思っていました。いままでになかった力も得ました」
悪意を取り除く力のことだ。
「それにはわたしも驚かされた」
鶯と梅が描かれた掛け軸の前には椿を中心とした花が生けてあり、どちらも春らしい。
それらを背後に光仙が座っている。
「小藤、肩の力を抜いて楽にしなさい」
「はい、ありがとうございます」
そう言われても、と内心、小藤は思う。
簡単に力が抜けるものではなかった。それは光仙がどこか張りつめているものがあるからで、それを小藤も感じ取っているのだ。
今日は日課になっている朝の散歩はなしだ。朝餉が終わり、落ち着いたころに光仙に呼ばれた。
阿光と吽光は出かけている。人払いでもしたかのようだ。
神社には光仙と小藤しかいない。だから余計に静かなのだ。
「手を出して」
いつものように光仙に言われて小藤は右手を差し出した。光仙はその手に視線を落とし、手の平をひとなでした。
「もう傷ひとつないな」
小藤の手には傷どころか、数年かけて大きく固くなっていた、まめやたこすらも消え去っていた。
「身体のほうもなくなっているだろう」
「はい」
身体には一生残るような傷があったのに、すっかりなくなった。
光仙に手を解放されて、まだ正座の膝の位置に手を戻した。
「おまえが来てから、二か月ほどが経った」
人柱になった時は三月だった。それに比べて今は随分と温かくなり、日も長くなった。
「あの雨の日、わたしはおまえを助けた」
「ありがとうございます」
おかげで小藤の今がある。
「言葉のとおり、助けたのだ。おまえは死んだと思い込んでいるが、生きている」
「……はい?」
小藤はまばたきを繰り返した。
光仙の言葉がのみこめなかった。この神社に住むようになってからの様々なことが思い出される。どう考えても、自分が生きた人間だとは思えなかった。
「でも私は人には見えませんし、声も届きません」
「あのまま“あちら側”に置いていては、おまえの命は尽きていた。だから生身のまま“こちら側”に連れてきたのだ」
あちら側とこちら側。
その区別はなんとなくついた。
たとえば小藤は、菊や松蔵の枕元に立ち、名前を呼んだ。するとどちらも半透明になり起き上がった。元々の身体の方が光仙の言っている“あちら側”で、半透明になって起き上がったほうが“こちら側”なのだろう。
そして、「生身のままこちら側に連れてきた」と言ったのだから……。
「ですから、それが死んだということなのでは?」
「そうではない。あちらとこちらは次元が違う。流れる時間が違う」
それは以前も聞いた覚えがある。人と神とは生きる次元が違う。同じものであって同じものでない。見えるようで見えていない。
それを聞いて小藤は、手習いに通っていた時期に読んだ『御伽草子(おとぎぞうし)』に収録されている『浦島太郎』を思い出した。
亀を助けた浦島太郎は、礼にと龍宮でもてなされる。故郷に戻って土産にもらった玉手箱を開けると、浦島太郎は老人になったという話だ。
浦島太郎が老人になった理由は、竜宮とは常世のことで、流れる時間が違うために、常世で過ごした時間よりはるかに故郷の時間は経っていたと解釈できるそうだ。
光仙の言うあちら側とこちら側の違いは、それと近いものなのだろうと小藤は思った。
「てっきり私は、死んで神のような存在になったものかと思っていました。いままでになかった力も得ました」
悪意を取り除く力のことだ。
「それにはわたしも驚かされた」
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