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三章 七郎兵衛とシロ(人情もの)
三章 10
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「七郎兵衛さん、どうしてシロはあんなことになってるんですか?」
この場からシロが見える。つまりシロからもこちらが見えているはずだ。
「飼い主の七郎兵衛さんがここにいるのに、どうしてシロは警戒を解かないんですか?」
シロの名前を出すと、途端に七郎兵衛から斜に構えたような薄笑いが消えた。
「今のシロには、あっしが見えておりません」
淋しそうに七郎兵衛は目を伏せる。
「七郎兵衛さんの兄さんが神社で、七郎兵衛さんは妻子の霊に取り憑かれていたと言っていました。それと今のシロの状態は関係があるんですか?」
小藤が更に踏み込むと、七郎兵衛は苦笑を浮かべた。
「そんなことを吹聴しているのかい。まったく、死んでからも不快にさせてくれる男だねえ。まあいい、そこまで知っているのなら話を聞かせてさしあげましょう。あっしの半生が絡みますから、面白い話じゃございませんよ」
七郎兵衛は手を袖の中に入れたまま、思い出すように遠くの山を見た。
「あっしは名前のとおり、農家の七男坊に生まれました。ご多分に漏れず、十三歳で縮緬問屋に丁稚奉公に出て、忍苦がありつつも手代、番頭とのぼっていきました」
そして三十前半で無事に独立、暖簾分けとなった。
その際に支配人からのすすめがあり、所帯を持つことになった。
優しく美しい娘だった。七郎兵衛は妻を気に入り、いい夫婦関係を築いていった。七郎兵衛はますます商売に精を出し、店は大きくなっていった。
そして七郎兵衛が望むのは、あとは後継ぎだけになった。
「あっしは、どうしても子供が欲しかったんですよ」
――しかし、妻は身体が弱かった。
望んでもなかなか子宝に恵まれなかった。
四年五年と経つうちに、七郎兵衛は焦っていった。
「汗水たらして大きくした店を、他人にやりたくなかったんです。あっしみたいに了見の狭い男は少ないでしょうな。みんな暖簾に誇りを持っている。実子がいても、優秀な人材を見つけたら、そちらを養子に迎えるほどだ」
でもねえ、と七郎兵衛は続ける。
「あっしは貧しい農家から苦労して店の主にまでなったんです。そのためにはなんでもやったし、寝る間も惜しんで働いた。だから執着しちまいましてね」
そんなとき、妻から待望の懐妊報告があった。
「あっしは喜びましたよ。女房の顔色なんて、少しも気づいていなかった」
妻は言った。
「先生が、私に子供は無理だろうとおっしゃるの。……おろした方がいいんじゃないかって」
「ばかを言うな。どれだけ苦労をして授かったと思っているんだ。一人くらい大丈夫だろう」
七郎兵衛の母は七人産んでいるのだ。もちろんこれは多い方だが、それでも周囲を見れば四、五人は産んでいる。
「わかった、努力してみる」
「ああ、頑張れ」
根性でなんとかなる。七郎兵衛は本気でそう思っていた。
今思えば、商売ばかりに夢中になっていた七郎兵衛は、そもそも出産が命がけだという認識が欠如していた。
妻の腹は大きくなっていき、やがて臨月を迎えた。
腹の中で赤子が動く感触を妻の腹越しに感じ、生命の強さと尊さに感動した。
妻は母体を強くしようとよく食べ、適度な運動もし、健康だった。
「だから女房が青白い顔をしながら妊娠報告をしたときのことは、あっしは記憶の片隅からも消えていました」
そして迎えた出産の日、産婆や近所の出産経験者たちが集まった。
仕事が終わり、七郎兵衛は身を躍らせるように帰宅した。
しかしそこで待っていたのは、妻子の死だった。
幸福の絶頂から絶望に突き落とされた。
医師の言うとおり、妻は出産に堪えられるような身体ではなかったのだ。
「あのときは泣きました。泣くしかなかったです」
七郎兵衛はその時の心境を思い出しているのか、辛そうに眉を寄せた。わずかに目元が光っている。
この場からシロが見える。つまりシロからもこちらが見えているはずだ。
「飼い主の七郎兵衛さんがここにいるのに、どうしてシロは警戒を解かないんですか?」
シロの名前を出すと、途端に七郎兵衛から斜に構えたような薄笑いが消えた。
「今のシロには、あっしが見えておりません」
淋しそうに七郎兵衛は目を伏せる。
「七郎兵衛さんの兄さんが神社で、七郎兵衛さんは妻子の霊に取り憑かれていたと言っていました。それと今のシロの状態は関係があるんですか?」
小藤が更に踏み込むと、七郎兵衛は苦笑を浮かべた。
「そんなことを吹聴しているのかい。まったく、死んでからも不快にさせてくれる男だねえ。まあいい、そこまで知っているのなら話を聞かせてさしあげましょう。あっしの半生が絡みますから、面白い話じゃございませんよ」
七郎兵衛は手を袖の中に入れたまま、思い出すように遠くの山を見た。
「あっしは名前のとおり、農家の七男坊に生まれました。ご多分に漏れず、十三歳で縮緬問屋に丁稚奉公に出て、忍苦がありつつも手代、番頭とのぼっていきました」
そして三十前半で無事に独立、暖簾分けとなった。
その際に支配人からのすすめがあり、所帯を持つことになった。
優しく美しい娘だった。七郎兵衛は妻を気に入り、いい夫婦関係を築いていった。七郎兵衛はますます商売に精を出し、店は大きくなっていった。
そして七郎兵衛が望むのは、あとは後継ぎだけになった。
「あっしは、どうしても子供が欲しかったんですよ」
――しかし、妻は身体が弱かった。
望んでもなかなか子宝に恵まれなかった。
四年五年と経つうちに、七郎兵衛は焦っていった。
「汗水たらして大きくした店を、他人にやりたくなかったんです。あっしみたいに了見の狭い男は少ないでしょうな。みんな暖簾に誇りを持っている。実子がいても、優秀な人材を見つけたら、そちらを養子に迎えるほどだ」
でもねえ、と七郎兵衛は続ける。
「あっしは貧しい農家から苦労して店の主にまでなったんです。そのためにはなんでもやったし、寝る間も惜しんで働いた。だから執着しちまいましてね」
そんなとき、妻から待望の懐妊報告があった。
「あっしは喜びましたよ。女房の顔色なんて、少しも気づいていなかった」
妻は言った。
「先生が、私に子供は無理だろうとおっしゃるの。……おろした方がいいんじゃないかって」
「ばかを言うな。どれだけ苦労をして授かったと思っているんだ。一人くらい大丈夫だろう」
七郎兵衛の母は七人産んでいるのだ。もちろんこれは多い方だが、それでも周囲を見れば四、五人は産んでいる。
「わかった、努力してみる」
「ああ、頑張れ」
根性でなんとかなる。七郎兵衛は本気でそう思っていた。
今思えば、商売ばかりに夢中になっていた七郎兵衛は、そもそも出産が命がけだという認識が欠如していた。
妻の腹は大きくなっていき、やがて臨月を迎えた。
腹の中で赤子が動く感触を妻の腹越しに感じ、生命の強さと尊さに感動した。
妻は母体を強くしようとよく食べ、適度な運動もし、健康だった。
「だから女房が青白い顔をしながら妊娠報告をしたときのことは、あっしは記憶の片隅からも消えていました」
そして迎えた出産の日、産婆や近所の出産経験者たちが集まった。
仕事が終わり、七郎兵衛は身を躍らせるように帰宅した。
しかしそこで待っていたのは、妻子の死だった。
幸福の絶頂から絶望に突き落とされた。
医師の言うとおり、妻は出産に堪えられるような身体ではなかったのだ。
「あのときは泣きました。泣くしかなかったです」
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