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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 12

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 身体が倒れていった。床にぶつかるとぼんやりと思ったのに、衝撃がない。
「歩けるか?」
 その声に目を開けると、幼なじみの顔があった。
「雄一郎……、どうしてここに?」
 拓斗は雄一郎に支えられていた。
「根性だけで演奏しているのは一目瞭然だ。おまえが倒れると思ったから、事情を話して通してもらった。なにが“心と対話できるから大丈夫”なんだよ。無茶しやがって」
「拓斗くん、楽屋に行こう。すぐに治療だ」
 拓斗は雄一郎と医師に支えられて楽屋に戻った。
「い、痛いです、先生」
「当然だろう、こんなに腫らせて」
 誰もいなければ泣き出したいくらいの痛みだった。しかしアイシングをして治療を受けていると、徐々に痛みが和らぎ、身体の調子も戻ってきた。
「先生がいてくれてよかったです。本当にありがとうございました」
「こんなことを口にするのは縁起でもないのかもしれないが、わたしはもうここで落選してほしいよ」
 白く太い眉を下げながら、心配そうに医師は言う。拓斗は苦笑した。
「雄一郎、ぼくの演奏はどうだった? 本選に行けそう?」
 近くの椅子に座って長い足を組み、黙って治療を見ていた雄一郎が顔を上げる。
「精密マシーンみたいなおまえの演奏らしくなかったな。音の粒が揃っていない箇所もあったし。気持ちを入れているからか、本来の解釈と違う表現もあった」
「そっか……」
 しかし、これが今の拓斗の精一杯だ。弾ききったという満足感はある。
「ぼくの思い、みんなに届いてるかな。雄一郎はどう?」
「おまえが聴いてほしいと言っていた曲は『悲愴』だろ。ウゼーほどビシバシ届いたよ」
「言い方に悪意を感じるな。……でも、よかった」
 シェアハウスで救われた今の拓斗が弾くこの曲を、みんなに聴いてほしかったのだ。ここで落ちてしまっては雄一郎の願いを叶えられず申し訳ないが、演奏者として成長できたという手ごたえはあった。
「五分五分だな」
「ん?」
「本選だよ。好みが分かれる演奏だった」
 拓斗は瞠目して、まばたきを繰り返した。
「ぼくの演奏、悪かったんじゃないの?」
「誰もそんなこと言ってねえだろ。スタンディングオベーションすごかったぞ。見えてなかったろ」
 そんな余裕はなかった。
「月並みだし先生みたいで好きじゃない表現だけどさ、パッションに溢れてたよ。昔からおまえの演奏を知ってるヤツが聴いたら、誰も白河拓斗だと気づかないだろうな」
 確かに拓斗は先生から「パッションが足りない」とよく言われていた。
「一次だって今までの拓斗の演奏とは変わっていたが、今日は左手に気をとられて、細かい技巧が飛んで気持ちが走っていたんじゃねえかな。それが凶と出るか吉と出るかは、審査員のみぞ知る」
「そっか」
 確かに最後の最後は思いだけで弾いていたので、プランなんて頭から消えていた。きちんと曲として成り立っていただけでもありがたい。
「でも、雄一郎のためにも本選いきたいな。約束だもんね」
「あぁ……、俺はもう、どっちでもよくなってきたわ」
「えっ、ちょっと、どういうことだよっ」
 拓斗は目を尖らせた。雄一郎のためだと思って必死に練習をしてきたのに。
「まあまあ、怒るなよ。おまえがファイナリストに選ばれなくても、あとで全部説明するからさ」
 拓斗はむっと唇を内側に丸めた。
 治療の終わった医師は帰り、拓斗たちは腹ごしらえもかねて喫茶店に入った。結果発表は夜になる。
「ねえ、次に残っても落ちてもいいならさ、ぼくに入賞しろって言った理由を教えてよ」
「ここまできたら発表を聞いたあとにしようぜ。もうすぐだろ」
「気になるじゃないか」
 結果も雄一郎の話も、どちらも早く知りたい。
 発表の時間に拓斗たちがロビーに戻ると、ちょうど審査員たちが揃ったところだった。スタンドマイクに電源が入る。
「それでは、第三次予選の結果を発表いたします」
 ざわめいていたロビーが静かになる。
 拓斗は固唾をのんで、審査員の続きの言葉を待った。
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