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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 7

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 やっと拓斗は、本当の意味で、自分にもピアノにも向き合っていなかったことに気づいたのだ。
 なんとなくの感覚である程度の高みにまで来てしまったのだが、これ以上の成長は望めないことも、拓斗は肌で理解していた。だからこそ、奥底に抑えていた「ピアノから逃げたい」という気持ちがあふれ出てしまったのだ。

 ――こうして追い詰められた拓斗は、ピアノ本来の可能性にやっと気づいた。

 いや、シェアハウスの居住者たちに、そして雄一郎に気づかされたのだ。
 それは拓斗にとって、それまでとは違う新しい道が開けた瞬間だった。
 今なら拓斗は自信を持って言える。

 ピアノが大好きだと。

「ねえ、そろそろ結果発表じゃないかな。ロビーに行こうよ」
「急いで聞きに行かなくても、結果は壁に張り出されるだろ。まだ冷やしとけ。それにどうせおまえは一次通過してるよ」
「だといいけどね」
 口ではそう言いながら、雄一郎がそう言うのならそうなのだろうと拓斗は思った。それくらい雄一郎の耳には信頼を寄せている。
「どうして腱鞘炎だってわかったの? 客席からテープが見えた?」
「そんなの音でわかる」
「そう。さすが雄一郎だね」
 拓斗はテーピングをするか迷っていた。医師にはテーピングをしたほうがいいと言われていたのだが、演奏に影響しないか心配だったのだ。
 自己判断では問題がなさそうだが、念のため指導教授にも聞き比べてもらい、どちらでも音に変わりはないと言われて安心していた。
 雄一郎ほどの耳になると、わずかな差異も聞き逃さないようだ。
「じゃあ次はテーピングをしないで演奏するよ」
「あまり無茶するなよ」
「ちゃんと先生に診てもらうから大丈夫。それに、心と対話できるようになったって言ったでしょ。手が本気で悲鳴を上げ始めたら、ちゃんとやめるよ」
「対話ねえ。拓斗は元々天然っぽいところがあったが、不思議度が上がったな」
「なにそれ」
 意味がわからず、拓斗は眉根を寄せた。
 しばらくアイシングをしてから人もまばらなロビーに出ると、一次予選通過者リストが表示されていた。
 一次予選から七割以上減っているメンバーの中に、拓斗の名前も載っていた。
「ほらな」
「うん」
 拓斗ははにかみながら喜びをかみしめる。
 しかし、まだ先は長い。コンクールは始まったばかりだ。

 数日後、二次予選の最終日に拓斗は舞台に立った。
 一次よりも心に余裕があり、拓斗は客席を見渡して『夢見ハイツ』のメンバーを見つけることができた。手を振ってくる愛紗に微笑みで返す。他にも心配させてしまった母や学友たちも来てくれている。
 演奏順があとのほうなので、拓斗は演奏前にそれぞれにあいさつをすませていた。
 猫山は「同じクラシック音楽だったら、オーケストラのほうが派手でよかったのにな。大砲バンバン撃つ曲とかあったじゃん」などと文句を言いながらも見に来るし、愛紗は「普段見かけないような上品な人ばっかりだから、役作りのために人間観察をしてます!」となにをしに来たのかわからない発言をしていた。
 二次の演奏時間は一次の倍で、当然演奏する曲数も増える。
 順調に演奏していた拓斗だが、最後の曲となるドビュッシーに入ると、違和感程度だった手の痛みが増してきた。
 おかしいな、先生に痛み止めを打ってもらったのに。もう効き目が薄れてきちゃったのかな。
 曲の世界観に浸って痛みをごまかそうと思ったが、親指の付け根から手首にかけて鋭い痛みが走り、奥歯を噛みしめた。あともう少しなのに、その数分が長く感じる。
 なんとか弾き終わったころには、全身に冷汗をかいていた。
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