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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 6

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「俺のせいか」
 雄一郎は流水を見つめたままポツリと言った。
「俺が入賞しろと言ったから、無理をさせたのか」
「違うよ、これは事故みたいなものなんだ」
「事故?」
 悲痛な表情だった雄一郎は、今度は訝しげに拓斗を見た。
「シェアハウスに入居してから、自分の気持ちと向き合う時間が増えたんだ。それで、なんとなく心と対話できるようになったんだよ。そのせいか、長いことピアノを弾いていなかったのに、以前よりずっといい音が出るようになったんだ」
 それはまるで、狂っていた歯車が急に噛み合ったかのようだった。拓斗が弾くほどに、歯車の錆が落ち、油で潤い、円滑になっていく。
 くるくる、くるくると歯車は回る。どんどんスピードが上がっていく。
 どこまで早くなるのだろうか。どこに行きつくのだろうか。
 気持ちがよかった。初めての感覚だった。

 ――そして拓斗は夢中になるあまりに、ブレーキをかけ忘れたのだ。

「手首が痛くなって、やっと気づいた」
「医者はなんて?」
「だから、軽い腱鞘炎だって」
「しばらくピアノを弾くなと言っていなかったのか」
 拓斗は固い表情の雄一郎をチラリと見て、瞳を伏せる。
「……できれば弾かずに様子を見なさいって」
 拓斗はしぶしぶと認めた。
「だけどコンクールにどうしても出たいって言ったら、先生は協力してくれるって約束してくれたんだよ」
「辞退しろ」
「え?」
「腱鞘炎が悪化したらどうするんだ。ピアニストにとって命取りになることだってある。今は無理をする場面じゃない。このコンクールを辞退したって、おまえは必ずプロになるよ。焦る必要はない」
「イヤだ」
 拓斗はきっぱりと否定した。
「ぼくはこのコンクールに入賞して雄一郎との約束を果たす。でも、それだけが理由じゃない。もうぼくの闘いになっているんだ。どこまで行けるか知りたいんだ。ぼくは無理をしたいんだ!」
「拓斗」
 雄一郎は瞠目した。
「おまえがピアノにそこまで固執するのを初めて見た」
 そう言われて拓斗はハッとする。そして顔を赤らめた。
「おかしいかな」
「いや、おかしくなんかない」
 雄一郎は頬を緩めた。
「なんだか嬉しいよ」
 その顔を見て、拓斗も微笑んだ。
 拓斗は四歳のとき、母親にピアノを習わされた。
 ピアノに対する思いは特になかった。ただ気がつけばピアノを弾いていた。
 おそらく才能もあったのだろう。ピアノはみるみる上達し、一部で神童と呼ばれることもあった。
 何時間ものピアノのレッスンは、苦しいと思う前に当たり前のように母親に刷り込まれていた。弾けない曲はむきになるくらいには負けん気があったし、難曲をマスターするのは楽しかった。
 しかし拓斗にとってピアノはあまりに生活の一部になりすぎて、一生ピアノを弾いていくのだろうな、という漠然とした思いがあるだけになった。
 だからこそ、雄一郎がヴァイオリンを辞めた時、心が揺らいだのだ。
 身体の一部のようだったピアノを失った時、自分はどうなるのだろう。
 まったく考えていなかったことを突きつけられて、今まで積み上げてきたものも、見えていたはずの将来への道もガラガラと崩れ落ちた。
 自分の意思で歩んできた道のりならば、すぐに再構築できただろう。
 しかし拓斗は、自身の意思という基盤がほとんど存在しなかった。
 深い迷宮に迷い込み、どうしていいのかわからなくなった。
 そこでやっと拓斗は、本当の意味で、自分にもピアノにも向き合っていなかったことに気づいたのだ。
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