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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 3

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「俺は本気で言っている。今度のコンクールで入賞してほしい」
「でも、ぼくはまともにピアノが弾けないし、ブランクもあるし……」
「言い訳はいい」
 強い口調で拓斗の言葉を遮った。
「俺のためにやってくれるのか。どうなんだ」
 拓斗は息をのんだ。雄一郎の顔は、まるで拓斗にすがるような必死な表情だったのだ。
 ぼくに本気で助けを求めている。
 拓斗はそう思った。
 幼いころから共に切磋琢磨してきた。閉じこもっていた部屋から連れ出してくれた。そして、地球の裏側にいてもピンチには駆けつけると言いきった。
 そんな雄一郎の、初めてと言っていい願いだ。
「ぼくが入賞することが、雄一郎のためになるの?」
「そうだ」
 まっすぐな視線をしばらく受けとめてから、拓斗は鍵盤に向き直った。
 ならば、叶えないわけにはいかない。拓斗にしかできないことなのだから。
「わかった。今は理由を聞かないよ」
 雄一郎が拓斗には言えない理由で苦しんでいたらしいこと。
 なにか夢を追いかけていること。
 今でも音楽を続けていること。
 そして今、拓斗に願いを託していること。
 すべては繋がっているように思う。
 拓斗は指先を鍵盤に近づける。
 雄一郎の願いは、拓斗がただピアノを弾くだけでは足りない。権威ある国際コンクールで、結果を出さなければいけないのだ。
 ぼくはこんな状態だっていうのにさ、なんてことを言いだすんだろうね。
 苦笑した拓斗は、静かに目を閉じる。指先に意識を集中させた。
 ねえきみたち、ピアノを続けるか迷ったことは謝るから、もう許してよ。仲間割れをしている場合じゃないんだ。一緒に一位を目指そう。
 拓斗は身体のパーツに、そしてピアノに話しかけた。
 引きこもっている拓斗を訪ねてきた雄一郎は、ピアノを人に例えて拓斗との関係を「倦怠期」だと言った。からかっているのかと苛立ったが、今なら的を射ていたことがわかる。
 拓斗はそっと指先で鍵盤に触れた。震えも痺れも起きない。わずかに安堵の息をもらし、そのまま指をゆっくりと沈めていった。
 穏やかな、風に揺れる湖の波のような八分の六のリズムが続く。それが突如、激しい嵐のようなアルペジオに変わる。
 ショパンの『バラード第2番』だ。
 牧歌的な柔らかさと破壊的な激しさを繰り返すのが、この曲の特徴だ。
 そして余韻を残すような静けさのなか終わる。
 弾き終わった拓斗は、閉じていた瞳を開いた。
「完全復活か?」
 満足そうに覗き込んでくる切れ長の瞳を拓斗は見上げた。
「まだわからないけど、今は弾けなくなる気がしないよ」
 手の平を閉じたり開いたりして感触を確かめた。やっと感覚が繋がった気がする。それまでは身体のあちこちがブチブチと途切れているようだった。
「しかし音が固い。数週間ぶりに弾いたにしては及第点だがな」
「やめてよ、雄一郎のために頑張ろうってのに審査員気取り? そんなの先生でも……ああっ」
 拓斗は頭を抱えた。
 コンクールを目指すなら、無断でレッスンを休んでいた指導教授に連絡をしなければいけない。怒らせると相当怖いことを思い出した。
「なんか、おまえの考えてることがわかる気がするわ。許されるまで頭を下げ続けるしかねえな」
「やっぱりぼく、コンクール辞退しようかな」
「おいおい」
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