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四章 親愛なる瀬田雄一郎のために

親愛なる瀬田雄一郎のために 2

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「精神的なものなんだろ。よく心と相談してみろよ」
「返事をしてくれたら簡単なんだけどね」
 一昨日の愛紗との出来事を思い出してみる。
 スランプ中の拓斗を愛紗は全力で励ましてくれた。それが嬉しくて、拓斗から愛紗にボイストレーニングを提案する。
 ただの音階なら弾けるかと思ったが、失敗した。
 愛紗は後ろ向きの『ねこふんじゃった』を弾けるかと、拓斗を煽ってきた。それは角度を変えた励ましにほかならず、拓斗は今度こそ愛紗の気持ちに応えて弾きたいと思った。
「後ろ向きで弾けたことがきっかけに、その日は一日ピアノを弾けたんだ」
「昨日は? 時間ギリギリまで弾けなかっただろ」
「昨日はとにかく慌てていて、弾かなきゃと思っても手の震えがとまらなかった」
 そのとき、雄一郎に「主役は啓太だ」と諭される。
 啓太は上手く歌えたら両親の関係が修復できると信じているようだった。
 だから、啓太のために最高の曲に仕上げてあげたいと思った。
 そうしたら、手が動くようになったのだ。
「その二日間の共通点は、なんだと思う?」
 雄一郎の低い声が胸に浸透する。
 共通点があるだろうか。
 拓斗はじっと手を見ながら考える。
 それは「自分のための演奏ではなかった」ことかもしれない。
 いつも弾けていたからとか、なんとなくとか、そんな思いのときにはピアノに触れられなかった。
 もらった思いに応えたい、この手で最高の曲を届けたい。
 そう強く思って、やっと手の震えがとまった気がする。
「共通点は、誰かのために心から弾きたいと思った。こと、かな」
 それしか思い当たらない。
「誰かのために、か」
 雄一郎はそうつぶやいて立ち上がった。
「拓斗、行くぞ」
 雄一郎は部屋を出て階段を下りていく。拓斗もついて行った。
 雄一郎はピアノカバーを外して、拓斗に椅子に座るようにジェスチャーする。
「誰かのためにだったら曲を弾けるというのなら、次は俺のために弾いてくれ」
「やだな、どうしたの突然」
 冗談かと思い笑おうとしたが、雄一郎はそれを否定するように大きく首を横に振った。そして真摯に拓斗を見つめる。
「俺は本気で言っている。今度のコンクールで入賞してほしい」
「えっ、入賞?」
 世界中から数百人規模で応募があり、一次予選はその中から腕に覚えのあるピアニストたちが約八十人集まる国際ピアノコンクールだ。入賞するには、上位六人ほどに入らなければならない。
「元々おまえは優勝候補の一人だったじゃないか。驚くほど高いハードルではないはずだ」
「でも実際、ぼくはまともにピアノが弾けないし、ブランクもあるし……」
「言い訳はいい」
 強い口調で拓斗の言葉を遮った。
「俺のためにやってくれるのか。どうなんだ」
 拓斗は息をのんだ。雄一郎の顔は、まるで拓斗にすがるような必死な表情だったのだ。長い付き合いだが、こんな雄一郎の顔は見たことがなかった。
 ぼくに本気で助けを求めている。
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