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序章 破られた平穏の殻
破られた平穏の殻 3
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雄一郎の横を通り過ぎようというとき、手首を掴まれた。
「なっ……」
その手を持ち上げた雄一郎は、真剣な眼差しで拓斗の指先を見る。
「爪、整えてるんだな」
一気に拓斗の顔が赤くなった。雄一郎の手を振り払う。
「爪が長いと気持ちが悪いんだよ。それだけだ」
ピアノの練習と、それが終わってから手と爪の手入れは毎日欠かしたことがなかった。手は武器であり商品だ。常にベストなコンディションを保たねばならない。
――いつでも最高の音楽を奏でられるように。
しかしピアノが弾けなくなった今、こんな手入れは不要なのだ。無意味なのだ。未練がましい行為だとわかっている。
もう限界だ。このまま雄一郎に現実を突きつけられていると、無様に泣き出してしまいそうだ。
殻にこもって、身を守っていたのに。
今度こそ自室に向かおうとすると、またも雄一郎に腕を掴まれた。
「いい加減にしろ、もう帰れよ」
「ああ、帰る」
雄一郎は拓斗を掴んだままドアに向かった。身長差はさほどなくても、体格差が大きい。拓斗はずるずると引きずられて廊下に出された。
「離せよ、見送りなんていらないだろ。……わっ、ちょっ……、危ないよ雄一郎、もっとゆっくり」
雄一郎が腕を掴んだまま勢いよく階段を下りるので、危うく拓斗はバランスを崩しかけた。
「まあ拓斗、部屋から出てきたのね」
二人の騒動が聞こえたのだろう、驚いた表情の母親がリビングから飛び出してきた。足首まである白いワンピースを着た華奢な体形で、白い肌は五十代に見えないほど若々しい。拓斗の容姿は母親に似ていた。
拓斗は黙って唇を内側に丸め、視線を落とす。気まずい。
検査入院から帰ってきてピアノが弾けないとわかってから一週間、両親と顔を合わせていなかった。風呂や食事は親が寝静まってからこっそりとしていた。
「拓斗、本当にピアノが弾けないの? もう一度、私と一緒に……」
「おばさん」
雄一郎は柔らかい口調で、しかし有無を言わせぬ強さで言葉を遮る。母親は細い眉を下げながらも、「そうだったわね」と上がっていた肩から力を抜いた。
「さすが雄一郎くん。こんなに早く降りてくるとは思わなかった」
「じゃあ約束通り、拓斗を借りますよ」
「ええ、あなたに任せるわ。よろしくね」
蚊帳の外に置かれた拓斗は眉を寄せた。
「……なんの話?」
「聞いてただろ、親御さん公認で、おまえをお持ち帰りするって話」
「バカ言うなよ」
雄一郎はさっさと靴をはいて玄関の鍵を開ける。腕を掴まれて抵抗する術のない拓斗は、揃えられていた革靴に足をつっこんだ。家を出ることも予定どおりだというわけか。
「行ってきます」
そう言ったのは雄一郎だ。母は「行ってらっしゃい」と心配げな顔の前で手を振った。
「近所とはいえ、ぼくが寝間着でもこうして外に連れ出したわけ?」
拓斗は恨みがましい目つきで雄一郎の後頭部をにらんだ。一日自宅で過ごす日でも着替える習慣がついているため、拓斗はネイビーのYシャツとチノパンという姿だ。
「それは考えてなかった」
肩越しに振り返ってしれっと答える雄一郎に、拓斗は眉をつり上げた。
拓斗と雄一郎の家は近所で、幼稚園からの幼なじみだ。家族ぐるみで付き合いもある。
「あれ? 方向が違うじゃないか」
ぐいぐいと引っ張られていて気づくのに遅れたが、雄一郎の家とは別の道を歩いていた。
「実家を出たんだ」
「どうして? あれから結局、どこかの大学に入ったの? それとも就職?」
「どちらでもねえよ」
期待を込めた問いかけを否定されて、拓斗の胸はしぼんだ。
「気楽な一人暮らしというわけだね」
嫌味の一つでも言いたくなった。拓斗がこうなったのは、雄一郎の影響だって少しはあるのだから。
「一人暮らしじゃない」
「一人じゃないって……、じゃあ二人? あっ! もしかして雄一郎、結婚したの?」
「するわけねえだろ」
呆れたというような視線を向けられた。
「もう、じゃあなに? 今どこに向かってるんだよ」
焦れて雄一郎から全力で腕を取り戻すと、やっと雄一郎は立ち止まった。
そしてニッと口角を上げる。
「夢追い人が集うシェアハウスだよ」
「なっ……」
その手を持ち上げた雄一郎は、真剣な眼差しで拓斗の指先を見る。
「爪、整えてるんだな」
一気に拓斗の顔が赤くなった。雄一郎の手を振り払う。
「爪が長いと気持ちが悪いんだよ。それだけだ」
ピアノの練習と、それが終わってから手と爪の手入れは毎日欠かしたことがなかった。手は武器であり商品だ。常にベストなコンディションを保たねばならない。
――いつでも最高の音楽を奏でられるように。
しかしピアノが弾けなくなった今、こんな手入れは不要なのだ。無意味なのだ。未練がましい行為だとわかっている。
もう限界だ。このまま雄一郎に現実を突きつけられていると、無様に泣き出してしまいそうだ。
殻にこもって、身を守っていたのに。
今度こそ自室に向かおうとすると、またも雄一郎に腕を掴まれた。
「いい加減にしろ、もう帰れよ」
「ああ、帰る」
雄一郎は拓斗を掴んだままドアに向かった。身長差はさほどなくても、体格差が大きい。拓斗はずるずると引きずられて廊下に出された。
「離せよ、見送りなんていらないだろ。……わっ、ちょっ……、危ないよ雄一郎、もっとゆっくり」
雄一郎が腕を掴んだまま勢いよく階段を下りるので、危うく拓斗はバランスを崩しかけた。
「まあ拓斗、部屋から出てきたのね」
二人の騒動が聞こえたのだろう、驚いた表情の母親がリビングから飛び出してきた。足首まである白いワンピースを着た華奢な体形で、白い肌は五十代に見えないほど若々しい。拓斗の容姿は母親に似ていた。
拓斗は黙って唇を内側に丸め、視線を落とす。気まずい。
検査入院から帰ってきてピアノが弾けないとわかってから一週間、両親と顔を合わせていなかった。風呂や食事は親が寝静まってからこっそりとしていた。
「拓斗、本当にピアノが弾けないの? もう一度、私と一緒に……」
「おばさん」
雄一郎は柔らかい口調で、しかし有無を言わせぬ強さで言葉を遮る。母親は細い眉を下げながらも、「そうだったわね」と上がっていた肩から力を抜いた。
「さすが雄一郎くん。こんなに早く降りてくるとは思わなかった」
「じゃあ約束通り、拓斗を借りますよ」
「ええ、あなたに任せるわ。よろしくね」
蚊帳の外に置かれた拓斗は眉を寄せた。
「……なんの話?」
「聞いてただろ、親御さん公認で、おまえをお持ち帰りするって話」
「バカ言うなよ」
雄一郎はさっさと靴をはいて玄関の鍵を開ける。腕を掴まれて抵抗する術のない拓斗は、揃えられていた革靴に足をつっこんだ。家を出ることも予定どおりだというわけか。
「行ってきます」
そう言ったのは雄一郎だ。母は「行ってらっしゃい」と心配げな顔の前で手を振った。
「近所とはいえ、ぼくが寝間着でもこうして外に連れ出したわけ?」
拓斗は恨みがましい目つきで雄一郎の後頭部をにらんだ。一日自宅で過ごす日でも着替える習慣がついているため、拓斗はネイビーのYシャツとチノパンという姿だ。
「それは考えてなかった」
肩越しに振り返ってしれっと答える雄一郎に、拓斗は眉をつり上げた。
拓斗と雄一郎の家は近所で、幼稚園からの幼なじみだ。家族ぐるみで付き合いもある。
「あれ? 方向が違うじゃないか」
ぐいぐいと引っ張られていて気づくのに遅れたが、雄一郎の家とは別の道を歩いていた。
「実家を出たんだ」
「どうして? あれから結局、どこかの大学に入ったの? それとも就職?」
「どちらでもねえよ」
期待を込めた問いかけを否定されて、拓斗の胸はしぼんだ。
「気楽な一人暮らしというわけだね」
嫌味の一つでも言いたくなった。拓斗がこうなったのは、雄一郎の影響だって少しはあるのだから。
「一人暮らしじゃない」
「一人じゃないって……、じゃあ二人? あっ! もしかして雄一郎、結婚したの?」
「するわけねえだろ」
呆れたというような視線を向けられた。
「もう、じゃあなに? 今どこに向かってるんだよ」
焦れて雄一郎から全力で腕を取り戻すと、やっと雄一郎は立ち止まった。
そしてニッと口角を上げる。
「夢追い人が集うシェアハウスだよ」
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