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序章 破られた平穏の殻
破られた平穏の殻 2
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「ピアノが弾けなくなったんだってな」
拓斗は膝の上で組んだ手を強く握りしめた。
「弾く以前の問題だ。鍵盤に触れない」
「倦怠期だろ。物心ついてからずっとピアノと友達だったんだ。そんな時期もあるさ」
「それはジョーク? ぼくは笑えばいいのかな」
「俺は本気で言ったんだけどな。まあ笑えるなら笑えよ。鏡を見てみろ、辛気くさい顔をしてるぞ。この部屋の空気までよどませる気か」
「茶化しに来たなら帰って」
「コンクールはどうするつもりだ」
拓斗は背中を丸めて、顔を両手で覆った。
この一週間、考えないようにしてきた。時間が経てばまたピアノを弾けるようになるかもしれない。楽曲の練習を再開できるかもしれない。
そんな期待を抱いていたが、やっぱり今日も鍵盤に触れなかった。
「辞退するよ」
声が掠れた。
辞退。そうだ、辞退するしかないじゃないか。
もし今から練習できたとしても、一週間のブランクは大きい。ライバルたちは毎日何時間も練習をしているはずだ。もう追いつけない。
「ピアニストになる夢はどうする。王手まで来てるじゃないか」
拓斗は覆った手の中で、強く目を閉じた。
「部屋に入れてあげたんだから、もっと優しくしてくれてもいいと思うんだけど」
拓斗は数年に一度開催される、月末の国際ピアノコンクールの優勝候補だ。このコンクールで一位になれば副賞などでデビューは確約されているが、既にいくつかのコンクールで優勝してファンを獲得している拓斗は、今回は入賞さえすればソロコンサートやCDリリースの展開になるだろう噂されていた。
拓斗はコンクールに出れば入賞を逃さないほどの腕があり、その話は遅いくらいだった。なかなかデビューが進まなかった理由は、賞賛と揶揄の両方を含んだ「精密マシーン」という呼び名が全てを物語っている。拓斗の音楽は、どこか感情が欠落していた。
「ピアノを弾けないピアニストがいるなら、連れてきてほしいよ」
「諦めるのか」
聞きたくない言葉ばかり耳に飛び込んでくる。せめてオブラートに包めないのだろうか、この男は。
「仕方がないだろう、指が動かないんだっ」
拓斗は声を荒げた。鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。それなのに、頭は妙に冷えている。
「入学してから半年も通っていない音大はどうするんだ」
「うるさいな、大学なんてもう行く必要ないだろ。夏休みに入ったし、明けてから退学届けを出してくるよ。不本意だけど、雄一郎と同じになるね。ぼくも気ままに自由時間を謳歌するよ」
投げやりに答えると拓斗は立ち上がった。やっぱり部屋に入れるのではなかった。一人平穏に過ごしてなんとか保っていた精神力が、不快な音をたてながら削られていく。もう隣りの自室に移動して、布団をかぶってふて寝したい。
雄一郎の横を通り過ぎようというとき、手首を掴まれた。
「なっ……」
拓斗は膝の上で組んだ手を強く握りしめた。
「弾く以前の問題だ。鍵盤に触れない」
「倦怠期だろ。物心ついてからずっとピアノと友達だったんだ。そんな時期もあるさ」
「それはジョーク? ぼくは笑えばいいのかな」
「俺は本気で言ったんだけどな。まあ笑えるなら笑えよ。鏡を見てみろ、辛気くさい顔をしてるぞ。この部屋の空気までよどませる気か」
「茶化しに来たなら帰って」
「コンクールはどうするつもりだ」
拓斗は背中を丸めて、顔を両手で覆った。
この一週間、考えないようにしてきた。時間が経てばまたピアノを弾けるようになるかもしれない。楽曲の練習を再開できるかもしれない。
そんな期待を抱いていたが、やっぱり今日も鍵盤に触れなかった。
「辞退するよ」
声が掠れた。
辞退。そうだ、辞退するしかないじゃないか。
もし今から練習できたとしても、一週間のブランクは大きい。ライバルたちは毎日何時間も練習をしているはずだ。もう追いつけない。
「ピアニストになる夢はどうする。王手まで来てるじゃないか」
拓斗は覆った手の中で、強く目を閉じた。
「部屋に入れてあげたんだから、もっと優しくしてくれてもいいと思うんだけど」
拓斗は数年に一度開催される、月末の国際ピアノコンクールの優勝候補だ。このコンクールで一位になれば副賞などでデビューは確約されているが、既にいくつかのコンクールで優勝してファンを獲得している拓斗は、今回は入賞さえすればソロコンサートやCDリリースの展開になるだろう噂されていた。
拓斗はコンクールに出れば入賞を逃さないほどの腕があり、その話は遅いくらいだった。なかなかデビューが進まなかった理由は、賞賛と揶揄の両方を含んだ「精密マシーン」という呼び名が全てを物語っている。拓斗の音楽は、どこか感情が欠落していた。
「ピアノを弾けないピアニストがいるなら、連れてきてほしいよ」
「諦めるのか」
聞きたくない言葉ばかり耳に飛び込んでくる。せめてオブラートに包めないのだろうか、この男は。
「仕方がないだろう、指が動かないんだっ」
拓斗は声を荒げた。鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。それなのに、頭は妙に冷えている。
「入学してから半年も通っていない音大はどうするんだ」
「うるさいな、大学なんてもう行く必要ないだろ。夏休みに入ったし、明けてから退学届けを出してくるよ。不本意だけど、雄一郎と同じになるね。ぼくも気ままに自由時間を謳歌するよ」
投げやりに答えると拓斗は立ち上がった。やっぱり部屋に入れるのではなかった。一人平穏に過ごしてなんとか保っていた精神力が、不快な音をたてながら削られていく。もう隣りの自室に移動して、布団をかぶってふて寝したい。
雄一郎の横を通り過ぎようというとき、手首を掴まれた。
「なっ……」
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