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急報

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 数日かけて寂れた山道を抜けた永芳と余雪は、ようやく集落にたどり着いた。大きな街ではないが、街道沿いには店も並んでいる。
 保存食ばかり食べていた二人は、酒家を見つけると中へ入った。

「あら、いい男が二人も来るなんて、今日はついてるわ。これ、おまけにあげちゃう」

 店の娘は、酒壺と一緒に肉や豆の皿を卓に置いた。
 永芳が困惑する暇もなく、すぐに余雪が店の娘に、おい、と声を掛ける。

「このお方は、あんたが気安く口をきけるような人じゃない。高貴なお方なんだぜ。余計なことはしなくていいから、頼んだ物だけ持ってきな」

 娘は、余雪の言葉を単なる軽口と受け取ったのか、ちぇっと肩をすくめるだけで、店の奥に戻った。

「……ご令嬢に対して、あんな言い方をしなくてもいいだろう」

 永芳が咎めるように言うと、余雪は眉を顰めた。

「誰が令嬢だよ。わざと酔わせて身ぐるみ剥ぐような奴だっているんだから、兄さんはもっと警戒しなよ」

 永芳は不服そうに口を尖らせたが、余雪の方が世慣れているのはわかっているので何も言わなかった。
 店には数人の客しかおらず、娘は物珍しさからか暇を見つけては二人の卓に来て立ち話をした。
 余雪は物言いはきついものの、娘と調子のあった会話を繰り広げる。永芳と話す時とは違う、気安い様子を見ているうちに、永芳は箸を置いて黙り込んだ。

「兄さん、疲れた? 今日はこの辺りで宿を探そうか」

 不機嫌そうな様子に気づいた余雪に訊かれて、永芳は小さく頷いた。

「宿ならこの先にあるわよ」

 娘はそう教えてくれた後、余雪の耳元に顔を寄せると、

「あんたはここに泊まる?」

と揶揄うように囁いた。

「もうすぐ店を閉めるから、後で訪ねてきて」

 媚びるような笑顔へ、余雪はヒラヒラと手を振った。

「俺はこのお方をお守りしなきゃならないんだ。子どもは早く寝な」

 万が一、余雪が軽口でも叩こうものなら戒めようと、永芳は物言いたげな目でやり取りを見守ったが、余雪は甘えた振りをする娘を置いて、さっさと店を出た。
 余雪が宿屋の裏に馬を繋いでいる間に、永芳が宿泊の手続きをする。

「えっ、一部屋だけですか……」
「寝台は二つある。物見遊山じゃないんだ。贅沢する必要はないだろう」

 永芳と同室に泊まることになったと知って、余雪は焦った。
 誤解は解けたとはいえ、余雪が永芳と一緒にいてそわそわと落ち着かないことに変わりはない。
 困ったように黙り込んだ余雪の様子に、永芳がおずおずと声を掛ける。

「……やっぱり、わたしと一緒に眠るのは──」
「違う、そうじゃないよ!」

 余雪は慌てて否定するが、今度は疑うような視線を向けられる。

「まさか、さっきの娘のところに行くつもりじゃないだろうな」
「行くわけないだろ!」

 とりあえず部屋に入ったものの、予想以上に狭い室内に余雪は困惑した。寝台は二つあるとはいえ、くっついた状態で置かれている。
 もじもじと永芳の様子を窺うが、永芳は部屋に入るなり、説教を始めた。

「だいたい、お前は軽薄すぎるんだ」

 突然叱られた余雪は、呆気に取られて永芳を見つめた。

「お前も、もう小さな子どもではないんだから、ご令嬢とは節度を持って接しなさい。雪児は門弟としての自覚が足りないよ。一人の態度が、飛鶴派全体の評判を落とす可能性だってあるんだから。第一、娘さんの名誉にも関わるだろう」
「え、あの……さっきのことなら……」
「さっきのことだけじゃない。お前は通いの女弟子とも距離が近すぎる」

 兄弟弟子は皆、生真面目な上に世間知らずなので、余雪からすると退屈だった。外の世界のことを姦しく話してくれる通いの女弟子たちの方が、一緒にいて余程楽しい。
 他の男弟子と比べて距離が近いのは事実だが、女弟子たちも、堅物な連中より余雪の方が気軽に会話できるから話しかけてくるだけだ。

「ただ話をするだけだよ。俺なんかより、兄さんの方がよっぽど……」
「わたしは教える立場なのだから、仕方ないだろう」

 女弟子は永芳の前では皆しおらしくしているが、余雪に対しては、口にするのも憚るような下品な話だってする。永芳についてのえげつない噂を、余雪が咎めることもあった。
 また、権力者や金持ちの中には、男妾を持つのを嗜みと考える者もいる。支援者の全てが善意で援助してくれているわけではないだろう。
 永芳は自分がどう見られているのかということに、無頓着過ぎるのだ。

「……態度は改めるよ。でも兄さんだって、もうちょっと自覚してよ」
「何を?」

 余雪は永芳の目の前に立った。不思議そうな表情で見上げる永芳と視線が合う。

「……二人っきりでこんな……一緒に寝るのは困る……」

 永芳の顔が曇るのを見て、余雪は慌てて否定した。

「兄さんのせいじゃないよ! 一緒に寝るのが嫌なんじゃなくて、その…………万が一……万が一だけど、間違いがあったら困るだろ……」

 永芳は呆気に取られた顔でしばらく言葉を失ったが、余雪の怒ったような真剣な表情に吹き出した。

「お前は何を言っているんだ」
「真面目な話だよ!」

 余雪は永芳の肩を掴むと、そのまま寝台に押し倒した。

「兄さんは俺のことを子供だと思ってるかもしれないけど、もう大人の男だよ」

 永芳は仰向けに倒れたまま、のしかかる余雪を見上げた。逆光で表情が消えた顔に、不安が込み上げる。

「雪児……お前がその気なら、ちゃんと縁談を見繕ってやるから──」
「兄さんだけだよ!」

 荒げた声に、永芳が肩を揺らす。

「兄さんじゃなきゃ、こんなことしたいと思わない」
「馬鹿なことを。お前はわたしに叩頭したんだぞ」

 師弟は親子であり、その関係は絶対だ。
 兄妹弟子で結ばれることは珍しくないが、師弟が情を交わすことは近親相姦と同義であり、武林(武術家の世界)の禁忌だった。

「兄さんが父親なわけないだろ。武林の掟なんて馬鹿げてるよ」
「わたしもお前の師父だなんて、おこがましいことは思っていないが──」
「永芳兄さん」

 余雪は永芳の言葉を遮った。一瞬顔を歪ませると、その表情を隠すように永芳の胸に額を押し当てる。

「俺が兄さんよりずっと年下なのも、弟弟子なのも、あの時叩頭したのも、今更どうしようもないじゃないか」

 永芳は、余雪の肩を抱こうと上げた腕を宙に彷徨わせたまま、くぐもった声を聞いた。

「雪児……」

 どうしていいのかわからず、戸惑うように名前を呼ぶと、余雪がゆっくりと顔を上げた。見つめる視線に、永芳の体がこわばる。
 余雪の永芳を見る目つきには、見覚えがあった。接待の席で永芳の体を引き寄せ、じっと見てくる支援者の目つきと同じだった。
 酒宴で見つめられる時の、なめくじが肌を這い回るような気持ち悪さは感じなかった。むしろ余雪の熱に煽られるように、体の奥が熱くなる。でも同時に、余雪からそんな目で見られるのは、なんだか悲しくてやるせない気持ちになった。

「雪児……お願いだから、そんな目で見ないでくれ……」

 永芳は余雪を抱きしめようとしていた手で、その目を覆った。
 余雪は顔に触れた手を掴んで、そっと退けた。手を握った瞬間、永芳の緊張が伝わってくる。怯えるようなその反応に、思わずカッと頭に血が上った。

「そんな目で見るよ! 俺だって、もう子供じゃない。兄さんこそ、どうしたら俺のことを一人の男として見てくれるの!?」

 余雪の顔が間近に迫ってくる。このままでは接吻されると思った。
 嫌ではなかった。
 むしろ余雪が望むなら、望むだけ与えてやりたいと思った。
 体の奥で燻る熱が、じりじりと広がる。このまま接吻されたらきっと、取り返しのつかないことになると、永芳は咄嗟に顔を背けた。

「兄さん……」

 余雪のか細い声に、何か答えなければと思うのに、顔を向けることができない。

「……俺が弟子じゃなかったらいいの? じゃあもう、俺、剣をやめる!」

 永芳の体が強張り、ハッと息を呑んだ。
 余雪は引き攣った表情の永芳を見て、サーっと血の気が引いた。

「ち、違……今のは──」

 十年間、それこそ親以上に献身的に余雪を育ててくれた永芳を裏切る言葉だった。そしてそれは、足の腱を断ち切られ、不本意にも剣を諦めざるを得なかった永芳の心を踏み躙る言葉でもあった。
 青ざめて声を失った余雪は、よろよろと永芳の上から体を退けた。
 重い苦しい沈黙の中、不意にドンドンと扉を叩く音が響く。

「任どの! 任永芳どのはこちらにいらっしゃいますか!?」

 永芳は余雪にチラッと視線を向けた後、ゆっくりと起き上がった。

「……はい。どなたでしょうか」
「南揚派の林と申します。火急の用件ゆえ、わたしと一緒にすぐに来ていただきたい!」

 扉の向こうの切迫詰まった声に、永芳と余雪は顔を見合わせた。
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