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縁談

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 余雪が目を覚ますと、永芳はすでに身支度を終えていた。
 慌てて飛び起きる余雪を、永芳は制した。

「まだ早いから寝ていなさい」
「一緒に行く」

 今日、永芳は所用で外出する予定だった。毎日の習慣である朝稽古を、いつもより早い時間に行う永芳と共に、余雪もまだ外が暗いうちから稽古を始めた。

 弟子たちの部屋割りが変更になる際に、余雪は無理を言ってまた永芳と同室にしてもらった。周りからは色々言われ、永芳も内心迷惑だと感じていたと思うが、弟子入りしたのだから同じ部屋で暮らすのは当然だと余雪は自分に言い聞かせた。

「今日は遅くなるから、先に休んでいていい」

 永芳はそう言うと、外出着に着替えて父である総帥と出かけてしまった。

「永芳兄さんが出かけたの、縁談らしいな」

 皆が集まる時間になって李北が言った内容に、余雪は、は? と声を漏らした。余雪自身が驚くくらい不機嫌な態度に、李北は一瞬怯んだものの、煽るように鼻で笑った。

「なんだ。同じ部屋にいるくせに、教えてもらってないのか」

 ムッとした余雪は言い返そうとしたが、すぐに思い止まって無視をした。李北は反応のない余雪をつまらないと思ったのか、何か言いたそうにしながらも離れて行った。

 結局その日は、李北の言ったことが気になって稽古も上の空だった。永芳がいたら叱られただろう。
 部屋に戻ると、中は暗く冷え冷えとしていた。
 余雪は、永芳の寝床へ目をやった。永芳が出かけた後、余雪が整えたままのそこへ体を横たえる。わざとぐちゃぐちゃにするかのように、じたばたと寝返りを打った。

 永芳の匂いがした。
 雨上がりの若葉のような瑞々しさの中に、ほのかに花の香りが混ざるような、控えめな甘さを感じる匂いだった。
 そんな清潔な香りのする永芳が、見合いをしているかもしれない。そう思うと、余雪の気持ちは暗く沈んだ。

 余雪はここに来る前は、歓楽街で浮浪児として暮らしていたので、性交についての知識はあった。
 娼館の窓から覗き見たまぐわいは、大きな男が華奢な女を組み敷く様や、獣じみた声が怖いと思った。
 永芳にもあんな経験があるのだろうか。
 そう思うと、吐き気を催すような気持ち悪さが込み上げてくる。
 永芳はなかなか帰ってこなかった。
 もし見合い相手の女のところに行ったきり、戻ってこなかったらどうしよう。心細くなるのと同時に、膝が痛んだ。

 最近、夜になると脚がずきずきと痛む。
 いつもなら、眠るまで永芳が脚をさすってくれるのに、今日は一人で痛みに耐えないといけない。
 本当に帰ってこなかったらどうしよう。
 永芳から教わった通りに内功を巡らせて痛みを鎮めようとするが、不安に心が乱れて上手くいかない。
 暗闇が迫ってきて、取り込まれるような気がする。
 一人ぼっちの心細さと脚の痛みで、瞑った瞼の内側に涙が滲む。ぎゅっと体を丸めた時、扉が開く音がした。
 ひっそりと部屋に明かりが灯る。音を立てないよう、気を遣っている気配がした。
 永芳は自分の寝床に余雪が眠っているのに気づくと、そっと肩をゆすった。
 
「ここで寝るのか?」

 余雪はばつが悪そうに永芳を見上げた。

「……脚、痛い」
「怪我でもしたのか?」
「違う、膝」

 永芳はいつもの痛みだと気づき、棚から軟膏を取り出すと、余雪の膝に塗った。余雪は横たわったまま、ぼんやりとした明かりに浮かぶ永芳の横顔を見つめた。

「眠れそうか?」

 永芳は余雪の隣に横になると、軟膏を擦り込むように膝をさすった。泣きそうなほどだった痛みが、ゆっくりと引いていく。

「……酒臭いよ」
「すまない」

 永芳からは、酒と油じみた料理の匂いがした。

「……見合いしたの?」

 余雪は、永芳の胸に額を押し当てて尋ねた。頼りない声は、くぐもって消え入りそうだった。
 永芳は余雪の膝を摩りながら、今日の酒宴のことを思い出した。
 支援者への接待となると、永芳は必ず呼ばれた。縁談ではないものの、よそ行きの顔で媚を売るのは気が滅入った。
 剣の腕はもう期待されておらず、脚のせいで後継者になる未来もない自分ができることといえば、愛想笑いを振り撒くくらいだとわかっていても、虚しさと屈辱で心が擦り切れる思いがした。

 足の腱を絶たれるという失態を犯し、父の期待を裏切ったのは永芳の落ち度である。
 そんな不肖の息子に、まだ役目を与えてくれていることへ感謝すべきなのに、ともすれば父への信頼まで揺らぎそうになる己の醜さに耐えられなかった。

「……噂話なんて、卑しいことはやめなさい」
「見合いしたの?」

 永芳はため息を吐くと、首を振った。

「会合の後、食事をしただけだ。見合いなんかじゃない」

 安心した余雪は自分の寝所へ戻ろうと起き上がった。

「ここで寝ないのか?」
「……いいの?」
「ああ……ここにいてくれ」

 余雪だけは、永芳の剣の腕を必要としてくれる。
 余雪の成長を見届けるまでは、この息苦しさにも耐えられると思った。

「兄さんは結婚しないの?」

 胸の中から見上げる視線に、永芳は一瞬言葉に詰まった。

「……雪児が大人になるまではしないよ」

 余雪は、大人っていつ? と疑問に思ったが、眠気に襲われて問い質すことができなかった。
 永芳の胸に顔を埋めると、酒臭さの中に、安っぽい白粉の匂いを嗅いだ。
 女のいる酒宴で、永芳が下品な座敷遊びをしていたのかもしれないと考えると、かつて見たまぐわいの光景が甦った。
 薄暗がりの中、女の体を押さえつけて、パンパンと肌が鳴るほど腰を打ちつける男に、温泉で見た永芳の裸が重なった。気味の悪い陰茎を女の中に埋める永芳を想像すると、悲しいような、吐き気を催すような気持ちが込み上げてくる。
 でも同時に、永芳を自らの手で酷く穢したいという欲望が湧くのを感じて、余雪は戸惑った。

 幼い陰茎は、いつの間にか下着の中で健気に勃ち上がっていたが、欲を発散する方法を余雪は知らなかった。
 もやもやを抱えたまま、余雪は永芳の胸に頭を擦り付けた。
 永芳は暗く澱んだ気持ちに押し潰されそうになりながら、腕の中の小さな体を抱いた。鬱々として寝つけそうにないと思っていたが、余雪の温かい体に誘われて、やがてどろりとした眠りの中に沈んでいった。

 余雪もうとうとと目を閉じかけたが、ハッと顔を上げた。触れ合った肌から伝わる永芳の内功が、酷く乱れていたらだ。
 永芳は眉間に皺を寄せて、傷ついた表情に見えた。
 物哀しい寝息を立て、余雪の膝を撫でていた手がぱたりと落ちるのをのを見守ってから、余雪は永芳の胸の中で眠りについた。
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