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▼第16章 終章

▼16-2 偉大な王への後日譚

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 とはいっても、手続きは簡単ではない。タネシュワールにいる四長官をはじめとする政権幹部たちをカナウジに呼び寄せなければならない。逆に、タネシュワールに家庭のある兵士ならば家族のいるタネシュワールに帰りたいと願うので、時期を見て帰還させなければならない。人にはそれぞれ事情というものがあるので、王といえどもある程度尊重してやらなければ、支持を失ってしまう。

 個人の事情でいえば、最優先でタネシュワールからカナウジに移動すべき人がいる。謎の花粉症を抱えて水色の手巾を手放せないラージャシュリーだ。呼び寄せると、すぐに移動してきた。

「不思議なものですわ。やはりカナウジは呼吸が楽です。わたくしの生きる街は、わたくしの夫は、カナウジだけしかありません」

 カナウジ遷都を果たしたハルシャは、不倶戴天の敵であるカルナ・スヴァルナ国のシャシャーンカ王との戦いに備えて、軍事力の増強に努めた。

 多くの兵士を抱えて、更には馬や戦車や象の数を揃えるとなると、国力そのものが強くなければ到底覚束ない。

 内政面では、雨季を除き絶えず国内を巡視して官吏を監察し、人民の請願を聞いて、教育を振興した。領内の各地と首都カナウジとの連絡を緊密にするために重要地点には早馬設備が整えられた。王有地を耕作する者は収穫の六分の一を貢賦として納めることになっていた。ただし、必ずしも理想通りに治安は良くならず、その分は刑罰の厳しさで対応することとなった。

 外交、軍事の面では、スタネーシュヴァラとカーニャクブジャが連合合併した形の王国は、ガンジス河中流域における覇権国家であって、近隣の小藩王では対抗できる者は存在しなかった。ごく稀に、二十歳にも満たない若い王の風下に立つのを潔しとしない藩王もいたが、ハルシャ王が自ら率いる軍勢によって鎧袖一触で征服していった。順調に領土が拡張し、それに伴って国力も増大し、持てる軍隊も比例して大きくなっていった。

 戦いに勝てば勝つほど、ハルシャは気づいていった。

 かつて自分は、王家に生まれながらも次男であるが故に王になれない宿命により自己同一化に齟齬を生じて、芸術に活路を見出した。グプタ王朝時代の大詩人カーリダーサのように、文人として良い作品を生み出して歴史に己の名前を残したい。そう思った。

 だが、気が付いてみると、自分は成り行き上、王になってしまった。それでもあくまでもハルシャは、王になりたくてなったわけではない。他に王になる者がいないから消去法で決まったのだ。実際に王になってみると、王であるから自分が偉いのではない、ということを実感として思い知らされる。王として立派な言動や政策を打ち出して軍事的に輝かしい勝利をあげるからこそ、偉いと民から認められるのだ。

 十四歳の少年の時に抱いた「文人として歴史に名を残したい」という承認欲求は、成り行きで王位に即いたからといって満たされることは無かった。

 例えば、以前に話に聞いたエフタルの五〇年ほど前のミヒラクラ王は、仏教を弾圧した。その弾圧は仏教における末法思想の始まりとなった。末法思想はその後、中国や日本にも影響を与えたので、ミヒラクラ王は仏教視点からは悪い意味でではあるが歴史に名を残したのだ。

 そういう観点ならば、カルナ・スヴァルナ国のシャシャーンカ王も仏教弾圧を行って、菩提樹を伐採した。悪い意味で歴史に名を残す偉業だろう。シャシャーンカ王は領民のために貯水池を造るなどしてベンガル地方の発展に寄与した側面も忘れることはできないが、そういった地道な功績よりも巨大な悪行の方が手っ取り早く王としての名を高めるものなのだ。

 ハルシャはあくまでも良き王でいたかった。すぐ側にラージャシュリーがいて常に見ている中にあって、妹に顔見せできないような愚行はしたくない。常に立派な王であらなければならない。

 ハルシャは軍事力を増強し、更には、東ベンガルのカーマルーパ国で勢いを増しつつあるバースカラヴァルマン王、別名クマーラ王と同盟を結ぶことによって、西ベンガルのカルナ・スヴァルナ国のシャシャーンカ王を挟撃する体勢を取った。万全を期した中でカルナ・スヴァルナ国をみごと撃破し、積年の恨みを晴らすことができた。西暦625年のこととも西暦636年のことともされる。いずれにせよ、カナウジ奪還からカルナ・スヴァルナ征服まで、長い時間がかかってしまったのは事実だった。それだけ、シャシャーンカ王は強大で手強い敵だった。

 連戦連勝で向かうところ敵無し、最盛期には象軍六〇〇〇〇、騎兵一〇〇〇〇〇に達する大軍を擁する程になったハルシャ王も、一敗地に塗れたことが一度あった。北インドを概ね制圧して覇者となった頃、満を持してナルマダー河を越えて南インドを制圧し全インド統一を果たそうと目論んだ。

 そこに立ち塞がったのは南インド諸国連合の盟主である、チャールキヤ朝のプラケーシン2世であった。

 プラケーシン2世も強力な象軍を持っていた。更には地の利があった。戦いは消耗戦の様相を呈し、どちらが勝ったともいえない状態だったが、北のハルシャは南インド征服を果たせずに撤退し、プラケーシン2世は撤退するハルシャにとどめを刺すことはできなかったものの自国の防衛を果たしたのだから、南のプラケーシン2世の勝利であることは明らかだった。

 全インド統一とまでは行かなかったものの、北インドのガンジス河のほぼ全流域を支配したため、インド史の中ではハルシャはアショーカ王、カニシカ王、チャンドラグプタ2世などと並んでインド古代史の代表的な帝王の一人とされる。マドャデーシャ、すなわち中つ国と称される、古来からのインドにおける政治、経済、文化、宗教などにおける中枢地域だ。

 ハルシャ・ヴァルダナ王が古代インドの代表的帝王として名を馳せることとなったのは、王としての政治、経済上での功績だけではなく、宗教に対して寛容であり、また文化の振興にも熱心だったからだ。

 常々想いを抱いていた通り、ハルシャは歴史に名を残したのだ。

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