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▼第15章 ヴァルダナの栄光

▼15-3 ハルシャの失策

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 深い森の木々の間に潜んでいると外の様子は窺えない。伝令兵からの伝達情報が命綱だが、特段動きが無いという報告なので焦る要素も無かった。

「この段階で城から出て来るような猪武者は、いなかったか。では、時機を見計らって、森から出て行くか」

 とハルシャが口にした時、伝令が駆け込んできた。慌てた様子で唾を飛ばしながら報告する。

「囮軍の東より、所在不明の軍勢が出現しております。ハルシャ陛下の本隊は森から出て来るという打ち合わせだったはずですし、登場するのも早すぎるのではないでしょうか。この辺、何か作戦の変更があったのかどうかの確認のための伝令に来ました」

 ハルシャは首を捻った。左右に控える参謀たちと顔を見合わせるが、誰の表情を見ても話の意味を理解できている者は居ない様子だった。何が起きているのか、理解できない。

「お前、何を言っているのだ。余の本隊は、今、この森の中に居るではないか。お前は本当に伝令の者か」

「そ、そうは言われましても。俺はあくまでも所在不明の軍勢出現の第一報として伝令に走ったのでありまして。詳しいことは続報を待っていただければと」

 そこへ、次の伝令が駆け込んできた。同じ軍勢から立て続けに伝令が派遣されるのは異例のことだ。

「ハルシャ陛下にご報告申し上げます。カナウジを包囲中だった囮軍の東から、カルナ・スヴァルナ国の増援軍が迫っています。正確な数は現在確認中とのことですが、二〇〇〇〇以上の大軍と思われます。更に、こちらも未確認情報ですが、この軍を率いているのはシャシャーンカ王自身である模様です」

「なんだと」

 ここまでは順調だった作戦が、想定外の援軍の出現によって軌道修正を迫られることとなる瞬間だった。

「どういうことだ。概算で二〇〇〇〇という大軍、それもシャシャーンカ王の親征軍が近くに居たのにもかかわらず、目の前に来るまで気づかなかったというのか。周囲への警戒と調査も命じてあったはずだぞ。斥候は何をしていたのだ」

 怒りがこみ上げてきた。伝令兵を責めたところで何にもならないのは承知の上だが、ハルシャの口調は激しくなっていた。

「それが、どうやらシャシャーンカ王の軍は、総数をこちらに勘付かれないために少数に分かれて移動していた模様です」

「そんな単純な隠蔽工作を見破れないということは無いだろう」

「し、しかし、カナウジ近郊で盗賊団出現という話がありましたので、少数の兵の移動は、盗賊討伐のための近隣の駐屯軍のものだと判断して、重要視していなかった模様であります」

 ハルシャは悔しくて歯を食いしばった。

 今更ながらだがカルナ・スヴァルナのシャシャーンカ王はベンガルの狡猾な虎と称されているほどの奸智に長けた策士の王だ。今更確認のしようも無いが、もしかしたら近隣での盗賊団出現という話もシャシャーンカ王が仕掛けた偽の噂話だったのかもしれない。

「してやられた。これは斥候の失策ではない。俺の、じゃなくて余の失策だ」

 責任の所在の追求は後からでもできる。今は目の前の窮状の打破を図らなければならない。

 囮軍五〇〇〇はカナウジを包囲していた。つまり散開していて部分部分を見れば陣容に厚みが無い。そこへ、四倍以上と思われるシャシャーンカ王軍が奇襲をかけてきた。もしも今、カナウジの駐留軍が打って出て来ると、数で劣っている囮軍が更に挟み撃ちを受ける形となってしまう。絶体絶命の危機だ。

「将軍に死なれるようなことがあっては困る。なんとしても救出しなければ」

 囮軍を指揮している将軍が死ぬようなことになると、軍事長官との関係性が悪化してしまう懸念が大きい。即位したばかりの若年のハルシャ王にとって四長官の支持を固めることは地盤維持の必須条件なので、己の拙い軍隊指揮で囮軍の将軍を戦死させてしまうようなことは許されない。

「とにかく、すぐに出陣だ。騎兵はすぐに囮軍の救援に走れ。囮軍の損害を最小限に留めるのだ」

 ハルシャの乗る象もヴィンドヤースの森の木々の間を抜けて前進し始めた。森の中なので、森の外での戦闘の状況がどうなっているのか目視確認できない。それがもどかしい。

 相手の数は正確には不明だが、仮に二〇〇〇〇だとしても、単純に数ではこちらが勝っているのだ。こちらの援軍が間に合って囮軍の壊滅を防ぐことができれば、勝つ確率は上がる。奇襲はあくまでも、優位を築くことができるのは最初だけだ。

 ハルシャ王の乗った象が森から平原に出た。日差しが強く、汗が多く出る。

 戦況はどうなっているのか。伝令が来ないということは、囮軍は包囲されてしまって伝令すら出せなくなったということだろうか。

「伝令です。現在、先行した騎兵が囮軍と合流を果たしました。前後して、カルナ・スヴァルナ軍の先鋒と激突し、現在は乱戦となっています」

 現場に急行した騎兵は間に合ったようだ。だがまだ予断を許さない。カルナ・スヴァルナ軍の先鋒と衝突したということは、すぐに援護に向かわなければカルナ・スヴァルナ軍勢の大きさに押し切られてしまう。

「よし、我々本隊は、南から真っ直ぐ北へ突っ切って、シャシャーンカ軍の先鋒と後詰めを分断する形を狙う。全軍、『杖陣』を形成して、他の隊との連携を取りながら北へ進軍せよ」

 いよいよ、兄と義弟の敵討ちを果たせる時が来たのだ。気分が昂揚した。軍隊はきちんと訓練されていて、ハルシャ王の命令に的確に従った。これは先々代プラバーカラ王の頃に日頃からきちんと訓練を積んでいた賜物だ。父プラバーカラ王からハルシャに贈られた遺産だった。

 順調に前進してまもなくシャシャーンカ王の本隊と衝突する、という時に、ハルシャの斜め後ろ辺りから悲鳴が聞こえた。何事かと思わず悲鳴の聞こえた方へ振り返って確認してみると、ハルシャの象を護衛するための歩兵の一人が地面に俯せに倒れていた。背中には気の早い墓標のように矢が真っ直ぐに突き立っていた。

「スタネーシュヴァラ国の王とお見受けする。いざ、我々と勝負せよ。その生首を頂戴する」

 背後から、二十騎にも満たないくらいの少人数の兵士たちが迫ってきていた。彼らは全員、正規兵というよりは狩人に近いような思い思いの衣服や胸当てや籠手や毛皮を纏っている。

「伏兵か」

 恐らくはヴィンドヤースの森の中、ハルシャの軍の本隊とは鉢合わせしない場所に潜んでいたのだろう。万一発見されたとしても狩人としか思われないように少人数で、かつ、それっぽい格好という偽装工作もしていたようだ。さすがベンガルの狡猾な虎たるシャシャーンカ王は相手の裏を取るのが上手いらしい。

「少人数の伏兵ごときを恐れる余ではないぞ。パルティア国式射法を見せてやる」

 ハルシャは象の上に乗ったまま、腰を捻って後ろを向いて、弓を構えた。迫って来る二十騎弱は全員馬に乗った騎兵で、ハルシャと敵騎兵との間には象を援護する歩兵たちが応戦の構えを取っている。

 難度の高い、物を壊さない射法すらも成功させたことのあるハルシャは今では随一の弓の使い手でもある。ハルシャの放った矢は、伏兵たちの中で先頭の者の喉を正確に射抜いた。伏兵はそのまま落馬したが、空になった馬はそのまま他の騎兵と一緒に走り続けた。

「まだまだ行くぞ」

 ハルシャは次の矢を放つ。伏兵の一人が左目を射抜かれて悲鳴を挙げながら馬から転落した。立て続けに二名が倒されて、伏兵たちの速度が若干鈍ったようだ。

 象の護衛の歩兵たちも、反撃体制を整えていた。弓矢を持っている者は射撃を開始しているし、槍を持っている者は石突を地面に突き立てて騎兵たちを迎え討とうとする。

 ハルシャが射た三本目の矢は、三人目の騎兵の胸当てに命中したが、角度が甘かったせいか突き刺さらずに滑る感じで弾かれてしまった。ハルシャは舌打ちした。持っている矢も無限ではないので、一本たりとも無駄にはできない。

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