さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第14章 金の兎耳の国

▼14-4 二人きり

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 随伴員たちは全員で寝室へ入った。ラージャー王は間違いなく亡くなっていた。失礼とは思いつつも必要なことなので遺体を裏返して背中を全員で確認してみると、確かに赤く大きく腫れている。蚊に刺されたのだとしたら、確かに人によってはこれくらい大きな反応が出ることもあるだろう。

 だが、蚊に刺されたという話を信じる者はスタネーシュヴァラの者には一人もいない。誰か一人がこらえきれずに号泣し始めると、他者にも波及して全員が大声で泣いた。

「スタネーシュヴァラの皆様、シャシャーンカ王陛下のご慈悲により、ラージャー王陛下の葬儀の準備を行っております。急なことなので盛大なものはできませんが、昼過ぎには儀式を行いますので、皆様もご出席いただくということで宜しいですよね。火葬については本日の夕方くらいには実行できる予定です」

 急なことではあるが、葬儀から火葬まで手早い準備だ。シャシャーンカ王のこのカルナ・スヴァルナ国における権力と実務能力の大きさを物語っているようではあるが、事前にこういう事態になることを想定してある程度準備していたのではないかという疑念も払拭できない。

 火葬を終えて、随伴員たちは今夜はカルナ・スヴァルナに宿泊して、明日の朝から帰途につくこととなった。

 王と王とによる和平会談によって乱れた糸が解されるかと期待されていたところに、ラージャー王の不幸があって全て覆された。

 急展開が過ぎたので、随伴員たちは、ハルシャが留守を預かっているカナウジ包囲中の本隊に対して伝令を出すことも失念していた。慌てて伝令を出発させたものの、随伴員たち自身が明日の朝には出発するので、先行の意義が薄くなってしまった。

 今、随伴員たちは最終的に故郷のタネシュワールにまで戻り、ラージャー王の遺品を弟のハルシャに涙ながらに手渡した。

「蚊に刺されたなど、明らかに嘘でしょう。毒針で刺したに決まっています。カルナ・スヴァルナ側の仕業であるという証拠が残らないように蚊に責任をなすりつけただけでしょう」

 遠い東のカルナ・スヴァルナの地で兄が死んだと聞いただけでは、ハルシャは信じることができなかった。遺品を見せられると、もはや否定することもできない。

 ハルシャは、しんがりを務めた将軍をはじめとする軍の者たちと、カルナ・スヴァルナに赴いてラージャー王の死を見届けた者たちを労った。

「しばらく一人にさせてくれ」

 ラージャー王の遺品を持って、ハルシャは自室に戻った。

「陛下、いや、兄上、何故俺を残していなくなってしまったんだ」

 周囲に誰もおらず一人きりになったことを確認すると、堪えていた感情の堰が決壊した。

 兄の存在があるから、弟のハルシャは王族でありながら王になる定めにない、という自家撞着を抱えていて、十四歳ぐらいの頃から悩みを深くしていた。だからといって兄にいなくなってほしいと思っていたわけではない。両親と義弟が亡くなったのはつい先日のことだ。更に兄に先立たれるとは、予想もできておらず、当然心の準備もできていなかった。

 王である兄が崩御したら、この福地たるタネの古戦場の王はどうなるのか。

 答えは分かり切っている。その答えを口にすることに、躊躇いが拭えない。覚悟が固まっていない。温めた牛乳の上にできた薄膜のような、漠然とした柔らかい自覚ならある。細い針で突いただけで容易に破れてしまうようなあやふやなものだ。

「兄上、答えてください。俺は王にならなければならないのですか。まだまだ若輩者の俺に王が務まるのでしょうか」

 今にして思えば、兄の言葉はほぼ遺言に等しかった。兄ラージャーに万が一のことがあった時にどうハルシャが行動すべきかを教示していた。

 弓矢の腕前や勉学だけだったら、ラージャーに大きく劣っているとは思っていない。だが、スタネーシュヴァラ国の宮廷を構成している役人たちがハルシャを支持してくれるのか。王になるには、人としての器が最も求められるものだということが、今更ながら実感として重く双肩にのし掛かってくる。

「ハルシャお兄様」

 背後から聞こえた声に慌てて振り向いた。ハルシャは泣き顔を隠すのも忘れていた。

「ラ、ラージャシュリー、いつの間に入ってきたんだ」

「扉の外から何度も声を掛けたのですが、お返事が無かったので」

 福地たるタネの古戦場に来たラージャシュリーは、やはり花粉症の影響を受けるようで涙目に鼻声だった。

「ハルシャお兄様は、これから王に即位するための準備であれこれ忙しくなるのですよね。ならば、今だけはわたくしと一緒にラージャーお兄様との別れを悲しんで泣いて良いかと思います」

 妹の素直な言葉を聞いて、ハルシャは躊躇い無く強くラージャシュリーを抱き締めた。二人とも大きく声をあげて泣いた。

 今だけは、ラージャシュリーがハルシャの悲しみを、ハルシャがラージャシュリーの悲しみを受け止めてくれるのだから。

 どんな固い絆で結ばれた夫婦よりも、どんな激しい情熱で愛し合う恋人同士よりも、今、この瞬間、ハルシャとラージャシュリーは世界で最も二人きりだった。

 砂漠の井戸ではないので悲しみの涙が涸れることはなかった。だがやがて、兄妹どちらからともなく、抱擁を解いて離れた。

「これから、重臣たちと会談してきます。廷臣たちをしっかり纏めて、俺は王になる。王になったら最初に、軍を編成して、あなたの夫であるカナウジを奪還する」

「お兄様自身承知しておられると思いますが、最初に太っている諸長官から話をして支持を固めると良いかと思われます。あの方は以前からハルシャお兄様に対して好意的なようですので。逆にお兄様に対して批判的なのは軍事長官だと思いますので、彼の支持をきっちり取り付けることができるかどうかですよね」

 ラージャシュリーの言う通り、ハルシャは最初に諸長官との会談を行った。

「今、ハルシャ王子の即位に反対する人はいないでしょう。今、ハルシャ王子を支持したからといって、私には何の利点も無いじゃないですか」

 諸長官は豊かな頬を伝う汗を拭きながらぼやいた。

「まだお若いとはいえ、ハルシャ王子を支えて国を一つに纏めなければなりません。申し訳ないですが、私は他の長官たちとの会談でハルシャ王子を応援することはできませんので、ハルシャ王子が御自身で長官たちの支持を取り付けていただきたいです。それが、王としての器を示すことですので」

 四人の長官の中ではハルシャに対して最も好意的なはずの諸長官も、今回は甘い言葉ばかりを言うのではなかった。

「まあ一つだけ助言しておくとするならば、ハルシャ王子がカナウジから撤退する際、しんがり軍を務める将軍の指名について、軍事長官が不満を持っているようですので、そこについては何らかの埋め合わせをしておくべきでしょうな」

 渋いことを言いつつも助言をくれるだけ、諸長官はハルシャに対して好意的な立ち位置だった。

 法官と財務長官との会談は特に問題も無く終わった。ラージャー王は既に亡く、ラージャー王は未だ結婚もしておらず子もいなかったので、次の王位はハルシャしか選択肢が無いのだ。反対の余地が無かった。

 問題は三人の長官を連れて訪問した軍事長官だった。

「報告を聞いたところによるとですね。カナウジの守将は随分と慎重な性格だったようです。悪く言えば臆病。しんがり軍を残して王子が率いるスタネーシュヴァラ軍が撤退しても、カナウジから打って出ることも無く、ただ引き籠って守りを固めていたようです。理由はあるのですよ。人質だったラージャシュリー王妃に脱走されてしまい、カナウジ城内の守備体制が騒ぎになっていたようです」

 諸長官から助言を受けていた通りだった。ハルシャは軍事長官から、しんがり軍の件について愚痴を浴びせられる形となっていた。

「いずれにせよ仕切り直しです。前回より大軍を連れて行くのですよね。更には、籠城戦に適した編成、攻城兵器の準備も必要でしょう。前回のように急ぐ必要は無いので騎兵中心ではなく象軍中心という編成になりますかね。まあそれだけ、経費も莫大なものになりますが、この戦争がインドに覇を唱える上では必要なものであることは分かっていますので、今こそが軍の使いどきと言えるでしょうな。ハルシャ王子、いや、これからは王になられるのですから陛下とお呼びするべきですかね。新国王陛下に助言を授けておきます。カナウジの守将は慎重な性格です。臆病とも言えるのですが、籠城戦は実際に得意としているようです。平野部で軍対軍の正面からのぶつかり合いならともかく、籠城戦においては、相手を舐めてかからないことです。可能なら、相手を城から引きずり出して撃破したいところです。会談の最初に言っていた、今回のしんがり軍への褒賞の件、よろしくお願いしますぞ」

 言うだけ言って、軍事長官は席を立とうとした。法官が手を伸ばして制止しようとする。

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