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▼第14章 金の兎耳の国

▼14-3 森が沈黙する時

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 咎められた料理人が恐れ入っていた。二度も連続して罠を看破されてしまうとは思っていなかったのだろう。

 結局その後も怪しい果物は口にせず、安全な物だけを巧妙に選んで食べた。さすがにシャシャーンカ王も、この場で服毒させることは諦めたのだろう。渋かった表情は晴れて穏やかになっていた。

「皆さま、長旅でお疲れでしょう。個室を人数分用意させていただきますので、ゆっくりとお休みいただきたい」

「ラージャー王陛下の護衛のために、陛下の寝室の扉の前で、我が国の兵士二名が交替で不寝番を務めたいのですが、よろしいですか」

「勿論、構いません。朝、起き出でた客人は、我が王宮の庭が花の奇蹟で満たされているのを見出すでしょう」

 赤煉瓦の都の夜は静かだった。不審者がラージャー王の寝室に近づくことは無かった。

 朝になっても王は寝室から出てこなかった。

 ふと心配して不寝番をしていた二人が扉を開けて室内を確認してみると、ラージャー王はまだ寝台の上で眠っていた。ただし、顔が異様に赤く激しい汗をかいていた。呼吸も苦しそうだった。

 病気か、ということで医者を呼んで看てもらうことにした。カルナ・スヴァルナ宮廷所属の医師は、蚊に刺されたことが原因の熱病と診断した。他者に伝染する危惧があるので、医師と世話の者以外は面会禁止と言われた。スタネーシュヴァラの関係者は部屋から扉の外へ追い出された。

 朝になってからのことがあまりにも急展開だった上に一行の上位者である肝心の王が倒れて意識不明となったため、スタネーシュヴァラ側は対応が後手後手になってしまった。気が付いた時にはラージャー王と随伴員たちは寝室の中と外とで引き離されてしまっていた。

 随伴員たちはシャシャーンカ王に猛抗議をした。スタネーシュヴァラ側の者が全員面会謝絶というのは受け容れ難い。

「医師からは、伝染性の熱病なので、病人が増えてしまう危険があるので当然の措置だと報告を受けていますが」

 スタネーシュヴァラ側の者が気が動転して冷静さを欠いているのとは対照的で、シャシャーンカ王は泰然と構えていた。王の背後には二名の侍女が控えていて、芭蕉の葉の大きな団扇で風を送っている。

「蚊に刺されたといいますが、おかしくないですか。ラージャー王の寝台に毒針が仕込んであったのではありませんか」

「それも医師から報告を受けていますな。ラージャー王陛下の背中に大きく赤く腫れた箇所があるとのこと。更には、ラージャー王の肌には潰れた蚊が貼り付いていたとか。それは当方の医師だけが見たのではなく、スタネーシュヴァラの関係者の方も寝室から出る直前に一緒に確認しているということではありませんか。先にも話したことですが、我は民のために貯水池を作る事業に力を入れております。灌漑が捗って農業生産力が上がったのが良いのですが、その代わり蚊が発生するという苦情が出ておりましてな、我も対応に苦慮しているところなのですよ。時はまだ熟さず、言葉はまだ正しく整いませぬ。我の胸にはただ翹望の悶えがあるばかりです」

 蚊は怖ろしい虫だ。蚊そのものはさほど危険ではないが、媒介する病気は警戒しなければならない。スタネーシュヴァラ軍では蚊に刺された兵士も負傷として数えていた。蚊を追い払うために、王ならば侍女に団扇であおがせている。個人ならば払子を持って近づく蚊を追い払う。仏教やジャイナ教のような殺生を禁じられている宗教を奉じている者にとってみれば、叩いて殺すこともできないので尚更厄介だ。

「そうそう。ラージャー王陛下は高熱を発して激しく発汗しておられるということで、失礼して当方の医師たちで上半身を裸にさせていただきました。治療の妨げになるということで、ラージャー王陛下が身に纏っておられた装身具は外させていただきました。カルナ・スヴァルナ側が盗んだとか言いがかりをつけられても迷惑ですから、皆様にお渡ししておきます。なぜなら弱さは我らの魂を欺く裏切り者ですから」

 ラージャー王が纏っていた上衣と、装身具の数々が侍女たちによって運び込まれた。装身具の中でも特に火珠の瓔珞と琅干珠の金の臂釧は金銭的にも価値の高そうな逸品だった。

 橙色が鮮やかな火珠をあしらった豪華な瓔珞。父のプラバーカラ王が崩御した時にプラバーカラ王から長男のラージャーに譲られた大きな首飾りだ。

 森の深さのごとき緑色が鮮やかな琅干珠をあしらった金の臂釧は、父に先立つ形で殉死した母から受け継いだ腕輪だ。弟のハルシャが継承した銀の臂釧と対になっているものだった。

「確かに、貴国が高価な装身具を盗む意図は無いということは理解しました。しかしそんなことよりも、ラージャー王陛下の容態が心配です。蚊に刺されたというのも納得いきません。そんなのは蚊の死骸をあらかじめ用意しておけばいくらでも偽装できるじゃないですか。そもそも陛下は、用意されていた寝間着に着替えることもなく、御自身の衣服を纏ったまま寝台に入っておられました。それだけ用心していたのに、衣服の中の背中に蚊が入って刺すなど、不自然きわまりないではありませんか」

「蚊に刺された時間と状況までは、我には知りようもありません。陰謀を疑っておられるようですが、疑いが許されるのならば、そちら側の自作自演という可能性だって考えられるではありませんか。自分自身の織った蜘蛛の網を投げ捨ててどうやったら自由に動けるのでしょうかね」

「なんですと。シャシャーンカ王陛下、それはあまりにも無礼千万ですぞ」

 随伴員の一人がいきりたちかけたが、別の者が慌てて制止した。

「シャシャーンカ王陛下、うちの者が大変失礼いたしました。蚊に刺された云々にも疑問はありますが、今はそんなことよりも、現在のラージャー王陛下の容態です。まずは面会を許可してください」

 シャシャーンカ王は右手で、王冠である金の兎耳の片方を縦に撫でた。

「我は忘れてしまう、我はいつも忘れてしまうのです。我に空を飛ぶ翼の無いことを、永遠にこの一点に縛られていることを。仏教徒の者たちがありがたがっている菩提樹を伐採した武勲のある王といえども万能ではないのですよ。伝染病を操ることはできません」

 シャシャーンカ王とスタネーシュヴァラ使節の間で睨み合うところへ、王城付きの侍女の一人が駆け寄ってきてシャシャーンカ王に耳打ちした。

「暁の爽気が日差しの中に萎え、真昼の大気が重たく低くかかって森が沈黙する時が訪れてしまったようです。大変残念なことですな。ラージャー王陛下がお崩 (かく) れになられたということです。我が国への訪問中に亡くなられたのは大変遺憾ですが、葬儀と火葬についてはこちらで準備して執り行いますので。今、お渡しした装飾品が遺品という形になります。後で、遺髪もお渡しします」

「こんな急な話、納得できるわけがありません」

「納得できるできないではなく、事実があるだけですぞ。和平交渉は中止ということで宜しいですかな。いとしきスタネーシュヴァラの人よ、我が身の周りにこの仄かな距ての霧を纏っているとしても悲しまないでいただきたい」

 お互いに唾を飛ばし合うような激しい押し問答になった。結局、今すぐラージャー王の遺体の様子を確認する、ということをシャシャーンカ王に認めさせた。

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