さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第14章 金の兎耳の国

▼14-1 奸王のカルナ・スヴァルナ

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 思いがけず保護したラージャシュリーを連れて、ハルシャは軍に戻った。勿論軍隊は高貴な女性にとって居心地の良い場所ではないので、特別の天幕やら何やらを準備するためにハルシャは奔走した。無論そのような雑事に分類されるべきことは部下に任せてしまっても良いのだが、留守番総大将なので他にすることも無い。それにラージャシュリーのためにしてあげられることは、自分の手で成し遂げたい。かつて象のダナパーラを飼うために奔走した時も同じ気持ちだった。

 人質となっていたラージャシュリーを奪還したという事実は、夜が明けてからすぐに軍隊全般に広まった。吉報なので自ずと士気が高まったが、することは今までと変わらずカナウジの北と東の包囲だけである。

 ラージャシュリーという一人の人間を取り返して今回の遠征の目的の一つを達成したが、まだ全てを成し遂げたのではない。あくまでもカナウジ奪還が目的だ。

 妻のラージャシュリーの安全を確保したとはいえ、愛した故郷を奪還できなければ、亡くなったグラハヴァルマン王も浮かばれない。

 東のカルナ・スヴァルナ国へ向かったラージャー新王の使節団とは、節目ごとに伝令を遣り取りして情報を交換する手筈になっている。最初にカナウジ郊外に展開している主力軍へ戻って来た伝令が伝えたのは、ラージャー王以下使節団が無事にカルナ・スヴァルナに入城した、という穏当な内容だった。

 だが、第二報がなかなか届かなかった。人員が無限ではないので、頻繁に伝令を飛ばすわけではないが、それにしても何か異変が起きたことを予感させる出来事だ。

 本陣の様子を伝えると同時にカルナ・スヴァルナの情勢を偵察するためのこちらから派遣する伝令の頻度を増やして、気を揉みながらハルシャは続報を待った。

 更に数日待ってから、次の伝令兵が到着した。伝令兵は総大将代理であるハルシャ王子以外の人払いを求めた。報告を聞いたハルシャは、すぐに軍隊内の幹部の者を招集した。

「伝令からの報告によると、カルナ・スヴァルナで和平会談中だったラージャー王陛下が、蚊に刺されて熱病に罹患して重症化したらしい。それで数日、カルナ・スヴァルナ側の医師の看病を受けたが、崩御したということだ」

 ハルシャの言葉を聞いて、幹部の者たちは顔色を変えた。あまりの驚きに数人の者が大声を出しかけたが、いずれも自制していた。

「蚊に刺されたというのは信憑性があるのでしょうか。それは暗殺されたのではないのでしょうか」

「このようなことになっては、放置はできません。カルナ・スヴァルナに攻め込んでシャシャーンカ王を討ち取るしかありません」

 軍の幹部たちなので、当然のこととして勇ましい意見が多数出てきた。だが、現有兵力と兵站の状況などを踏まえた上で現実的な意見は、ハルシャの判断する限りでは一つも無かった。

「当然そういう意見が出て来るのは俺にも理解できる。心情としては、俺だって疑わしいと思っているし、シャシャーンカ王は俺の義弟を殺した不倶戴天の敵であり、いずれは対決しなければならない相手だ。だが、ラージャー王陛下はこういう事態も想定して、あらかじめ俺に指示を出しておられた。軍を纏めて福地たるタネの古戦場に撤退する」

 今回の遠征の目的は、カナウジの奪還と、そのカナウジに幽閉されているラージャシュリーの救出だった。偶然の産物とはいえラージャシュリーの救出を果たすことができた以上、カナウジ奪還を急ぐ必要は無くなった。もしこのまま何事も無かったら、包囲を続けていれば時間はかかったとしても兵力差でカナウジを奪還はできたはずだった。ただし、総大将であるラージャー王が崩御したとなると、長期的な戦争継続は無理だ。

「我々は敗れて撤退するのではない。カナウジ奪還という大目標のために、一旦後ろに下って助走をつけるだけなのだ。高く跳躍するためには、低くしゃがみ込む必要があるのだ。各々は各々の信じる神に、シヴァ神でも観音菩薩でも、あるいは他の神であっても良い、武運長久を祈れ」

 兄が言っていたように、タネシュワールに戻って有力者の支持を取り付けないとならない。そうしないと、有力者の誰かがタネシュワールの実権を握って政権転覆を企てるといった事変が起きる可能性もあるからだ。

「俺が今回、みんなの招集をかけたのは、撤退するかどうかを議論するためじゃない。どういうふうに撤退するかの具体的な検討をするためだ。そのことをよく理解してほしい」

「撤退するというのならば、長居は無用ではないでしょうか。包囲戦になってからは、遠征期間が長期化し、兵士たちは疲れてきています。士気を保つのも一苦労ですし。明日にでも撤退を開始すれば良いかと」

「だが、俺たちが撤退を開始すると、カナウジに籠城している軍勢が背後から追撃をかけてくる可能性がある。しんがり軍をどうするかだ」

 ハルシャは集まった面々を見回した。誰もしんがり軍を担当したいという雰囲気ではなかった。

「そういえばハルシャ王子、情報はそれだけですか。ラージャー王陛下が崩御されたというのを、とりあえず信じるとして、他に一緒に行っていた随伴員が何人もいました。それらの人々は無事なのでしょうか」

「随伴員たちは無事だ。あくまでもラージャー王陛下は蚊に刺されて熱病になって亡くなったということだ。ご遺体を長距離にわたってお運びするのも無理なので、あちらで荼毘に付されたらしい。遺品を持って、随伴員たちが帰って来る」

「ならば、しんがり軍は、戻って来る随伴員たちが合流するまで持ちこたえなけらばならないということになりますね」

 もっともな意見だった。しんがりを任される者の負担は大きいということだ。

 それでいて、進んでやりたがる者は一人もいない。

 となると、総大将代理であるハルシャが誰かを指名しなければならない。

 今はもう、この軍隊に自分以上の権限者はいない。国を率いる頂点としての決断をしなければならない。

 だがここで、己の不足を実感することになった。集まっている幹部の顔を見渡しても、顔と名前が一致するかどうかが限界だ。幹部の者たちそれぞれの性格や得意な戦い方などを承知していない。

 それでもここで迷っているような不安な表情を表に出すことはできない。額を冷汗が伝うのを感じながら、ハルシャは幹部たちの顔を見渡した。

 一際肌が黒い男がいた。見覚えがある。マーラヴァ遠征に一緒に行った将軍だった。あの時はドラヴィダ系のラージプート戦士である彼が総大将で、ハルシャが副官だった。

 彼ならば、それなりに本音で言葉を交わした相手なので、こちらの意も汲んでくれるかもしれない。という希望を持って、ハルシャは彼をしんがり軍の指揮官に指名した。

 ラージプート戦士の将軍は、髭の中の唇を不満げに曲げてあからさまな態度を取ってはいたものの、断ったり文句を言ったりはせずに拝命だけはした。

 翌日から撤退が始まった。先行撤退部隊を率いるのはハルシャということになる。貴婦人であるラージャシュリーを同行させるので、普通の軍隊よりは進軍速度は遅い。一刻も早く故郷に戻りたいのだが、二律背反を抱えている。

 カナウジを離れるにしたがって、ラージャシュリーは涙目になり、鼻を詰まらせるようになった。本当にカナウジはラージャシュリーを花粉症から守っているのだ。ラージャシュリーと結婚したのはカナウジの街だ、というのも言い得て妙なのだ。

 福地たるタネの古戦場タネシュワールにハルシャたちの軍隊が戻るのと、さほど時を置かずに、しんがり軍もまたタネシュワール入城を果たした。軍勢の規模が大きい上に貴婦人連れであるがゆえに移動速度が遅かったので追いつかれたのだ。

 幸いと言うべきだろう、しんがり軍は厳しい追撃を受けることも無く、無事に撤退を果たすことができた。しんがり軍は、ラージャー王と共にカルナ・スヴァルナ国へ行ってラージャー王の最期を見届けた随伴員たちもまた合流しているのだ。

 ハルシャとしては、長旅の疲れを癒すよりも先に、ラージャー王の最期についての真相を当事者に聞かずにはいられなかった。ハルシャは随伴員たちを連れて、空いている個室に入った。

 人払いが済んだところで、随伴員のうちの誰かが、洪水の時に堤防が耐えられずに決壊するように、号泣し始めた。すると連鎖反応で他の者たちも泣き出してしまった。

「ラージャー陛下をお守りすることができず、申し訳ないです」

 本当は兄を喪ったハルシャが泣きたかった。だが、他者があまりにも激しく泣くものだから、かえって冷静になってしまった。

「お前たちを責めているわけではない。伝え聞いたところでは、兄上、じゃなくてラージャー陛下は蚊に刺されて熱病に罹患したとか。そのへんの噂が本当かどうかを教えてほしいのだ」

 随伴員たちは泣きながらではあるが、ラージャー王と共にカルナ・スヴァルナを訪問した時のことを語り始めた。

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