上 下
53 / 67
▼第13章 ヴィンドヤースの森

▼13-2 砕ける陶器

しおりを挟む
「ハルシャお兄様。先立つ不幸をお許しください」

 ハルシャは焦った。広場の中央に集められているのは、枯葉や枯枝、つまり燃やすための燃料だったのだ。

 他人に見られることなど全く想定していなかったのは明白だ。ラージャシュリーが明らかに慌てて、木に括り付けてあった松明を外そうとしていた。しかし焦りのために、固く縛ってしまった縄を解くのに手こずっていた。とはいえ、ラージャシュリーが松明を手にするのは時間の問題だ。

 口で説得するのでは間に合わない。ここから走って行くにしても、暗い夜の森であるからには全速力では走れない。このままではラージャシュリーがハルシャの眼前で炎に包まれて死んでいくことになる。

 ――そんなことはさせない。

 強い思いを固めると同時に、一瞬の閃きが夜の闇を引き裂いてハルシャに活力を与えた。自分が持ってきた松明は地面に一旦置いて、いつも通り持参してきた弓を構えて矢を番え、力の限り引き絞って放つ。

 暗くて視界は最悪だが、不利な条件に負けるつもりは無かった。日頃から弓矢は繰り返し練習してきた。音だけで相手の居場所を判断して射る練習とか、物を壊さずに射る練習に較べれば、正攻法が通用する容易な射撃だった。

 ただ真っ直ぐ、力強く射れば良い。標的は緑色の壷だ。

 矢は迷い無く真っ直ぐ飛翔した。壷の真ん中、一番膨らみの大きい部分に命中した。その勢いで陶器の壷は上半分が砕けて破片になった。壷に入っていたのは液体だったようだが、上半分が壊れたことにより、かなり飛び散ったようだ。

 中身が液体だったのはハルシャの読み通りだった。

「やはりな。あれは油だ」

 それを確信した時には、既に第二の矢が放たれていた。背の高さが半分になってしまった緑の壷の、中央に命中した。壷の下半分も砕けて、中に残っていた油も、周囲の立木や下草の狭間に滲みて消えた。

 広場の中央の枯枝や枯葉は、恐らくラージャシュリーが一人で時間をかけて地道に集めたのだろうが、人間一人を焼き殺すには心許ない量だ。ラージャシュリーは枯枝の不足を見越して、燃焼を勢いづかせるために油を持ってきたのだ。その油を使えなくなったからには、もう松明で枯枝に火を点けても、そこまでは勢い良く燃え上がることはないだろう。落ちている枯枝といっても乾燥しきっているわけではないのだ。温度が低いままの油は引火しないが、既についている火に油を注ぐと良く燃えるものだ。

 ラージャシュリーは木に縛りつけてあった松明を外すのを諦めて茫然と、割れた壷と土へ還ってしまった油を眺めていた。

「ラージャシュリー。やっと会えた。無事で良かった」

 自分の持ってきた松明を地面から拾い直したハルシャが、広場を突っ切ってラージャシュリーの側に駆けつけた。

 ハルシャは肩で大きく息をしていた。困難な条件のついた射撃ではなかったが、それでも夜の森なので頼りない明かりしか無く、もしも狙いを外したらすぐ側に立っていたラージャシュリーに命中してしまう危険も含んでいたのだ。二連射の成功により、緊張から解放されて、一気にハルシャの双肩に疲れが押し寄せてきていた。

「死ぬ前に再びお兄様とお会いできて嬉しいですわ。ですが、わたくしの焼身を妨害するのは、いただけませんわ。わたくしは夫を亡くした妻です。夫に殉じるつもりだったのですよ」

 兄への親しさと、他者の妻としての冷静さを合わせたような口調だった。

「死なないで。俺が今こうして自殺の直前に間に合ったのも、また運命です。あなたは死ななくていい。いや、死んではいけないんだ」

「わたくしの貞淑さの証の機会を奪い、生き恥をさらせと仰るのですか」

「この風習は大昔から賛否あるじゃないか。死んだからといって貞淑さの証明にはならないだろう。そもそもこの風習がそんなに有効なら、貞淑な女性ばかり早死にして、生きているのは、夫が存命であるか、貞淑ではない女性だけになってしまうことになり、理想から遠ざかるはずだ」

 ラージャシュリーは泣き出した。ここはカナウジ郊外の森なので、宿痾の花粉症は出ないはずだが、それとは無関係に純粋に涙を流し、鼻声で嗚咽を漏らした。

「確かにグラハヴァルマン陛下が亡くなられたのは残念だ。俺だって、芸術に造詣が深く趣味の合うあの人は、義弟として嫌いじゃなかった。じ、自分以外でラージャシュリーの隣に立つことを許せる男は、彼くらいしかいないと言ってもいい。俺も、少しは彼の気持ちが分かる気がするんだ。ラージャシュリーが殉死したとしても、あの人はきっと喜ばないよ。生き残ったラージャシュリーには、周囲の目など気にすること無く、生きたいように生きてほしいと願っているはずだ」

「女性には、自分の生死を選ぶことすら許されないのですか」

「この世に生まれてきた人間は、最後までしっかりと生き抜かなければならない。そこに男も女も無い。最後まで生を全うしなかった者は、徳を積めなかったから、輪廻転生によって、また生まれ、生老病死の四苦八苦を繰り返すことになるんだ」

 ハルシャもまた、妹のラージャシュリーと兄のラージャーと共に机を並べてジャヤセーナ論師の仏教講義を受けていた。因明とか唯識とかいった、高僧同士による論争の御用達のような難解な部分は未だに理解には程遠いが、民衆を教え導く仏陀の根本的な考えについては、ある程度自家薬籠中のものにしているという自負もあった。

「ハルシャお兄様の仰る通り、ここにお兄様がいらっしゃって、わたくしの自決を阻止したのは、わたくしに対して生きろという観音菩薩様のお導きなのかもしれません。でもわたくし、この先、どう生きれば良いのでしょうか。一度は結婚して夫に先立たれてしまったからには、もう二度と結婚もできないでしょうし」

「結婚の時にも言ったはずだけど、ラージャシュリーの本当の運命の相手は、花粉症が無いカナウジの街なのです。あなたは、カナウジの街と結婚したのです。カナウジが無事ならば、あなたの夫も無事ということです]

 ラージャシュリーは不思議そうに首を傾げた。

「わたくしはずっと捕えられていて、途中で一回閉じ込められる塔を移動になった以外は、外部との連絡を取る方法も無く、情勢がどうなっているのか、よく分かりません。しかし、わたくしが捕えられたままでいるということは、いまだにシャシャーンカ王のカルナ・スヴァルナ国がカナウジを占領して支配している、ということですわよね」

「今、ラージャー新王陛下とシャシャーンカ王が、和平会談中だ。その結果によってカナウジも解放されることになる。だから、焦らず待てばいいと思う」

 外部と連絡を取り合う機会も無かったということは、ハルシャが物を壊さない射法で水精珠の耳當を届けた時が、久方ぶりの外部との接触だったということだろうか。思い出したので確認してみると、今のラージャシュリーの両耳には水精珠の自己主張控えめな色合いの耳當が光っていた。

「ラージャー新王陛下と仰いましたか。ということは父上は……」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

真田源三郎の休日

神光寺かをり
歴史・時代
信濃の小さな国衆(豪族)に過ぎない真田家は、甲斐の一大勢力・武田家の庇護のもと、どうにかこうにか生きていた。 ……のだが、頼りの武田家が滅亡した! 家名存続のため、真田家当主・昌幸が選んだのは、なんと武田家を滅ぼした織田信長への従属! ところがところが、速攻で本能寺の変が発生、織田信長は死亡してしまう。 こちらの選択によっては、真田家は――そして信州・甲州・上州の諸家は――あっという間に滅亡しかねない。 そして信之自身、最近出来たばかりの親友と槍を合わせることになる可能性が出てきた。 16歳の少年はこの連続ピンチを無事に乗り越えられるのか?

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...