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▼第13章 ヴィンドヤースの森
▼13-1 再会の森
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象が鼻を挙げた。まるで挨拶したみたいだ。
ダナパーラは、ラージャシュリーが拾ってきて、ハルシャの奔走によって宮殿で飼育できるように手配した子どもの象だ。ラージャシュリーがタネシュワールに滞在していた時は宮殿に作った象舎で暮らしていたが、ラージャシュリーが嫁入りによってカナウジに移動することになると、ダナパーラも一緒に連れて行ったはずだ。
カナウジがシャシャーンカ王とデーヴァグプタ王の連合軍によって攻撃されて陥落した時。ラージャシュリーは塔に幽閉された。その時、飼っていた象のダナパーラの扱いはどうなったのだろうか。
今となってはそれは分かりようも無いが、今、ここにダナパーラがいる。無事に生き延びていたのだ。
「お前のご主人様は、いつか必ず救出する。兄上、じゃなくてラージャー陛下が和平会談でカナウジ解放を勝ち取ってくれるはずだ。それまで待っていてくれ」
象に人間の言葉が通用するとも思えないが、ラージャシュリーが拾ってくる動物は何故か動物とは思えぬほどに賢さを備えているので、返事は無くても理解はしてくれている。そう信じたい。
ダナパーラの横をすり抜けて先に進む。進もうとした。ダナパーラの鼻が、ムンジャ草の腰帯を巻いたハルシャの腰に巻き付いていた。
「いや、ダナパーラ、邪魔しないでもらえるか。南東隅の塔の様子を見に行くだけだから。焦って変な行動を取ったりしないから」
象なので当然、簸箕 (はき) のような大きな耳があるのだが、ハルシャの意見を聞く耳は持っていないようだった。
ダナパーラは鼻でがっちりとハルシャの胴体を確保したまま、全然別の方向へ歩き始めた。
背の高さが人間と同じくらいの子どもの象であっても、ダナパーラの方が遥かに巨体で体重もある。ハルシャは為す術もなくダナパーラに導かれる方向に引きずられるように歩くだけだった。
ただの邪魔ではないのだろう。ダナパーラはハルシャをどこかへ連れて行きたいのだ。
「ダナパーラがどこへ行くつもりか知らないけど、そこへ行けばいいんだな」
ハルシャはもう無駄な抵抗をせず、ダナパーラに導かれるままに夜のヴィンドヤースの森を進んだ。
どれくらい進んだだろうか。そもそもどこをどう通って来たのかも把握していない。ダナパーラに任せきりだ。行くのは良いが、帰りは迷ってしまうのではないかと不安になり始めてきた。
視界の先に小さな光の点が見えた。更に接近すると、どうやら松明の炎であるらしいと分かってきた。
このような真夜中にヴィンドヤースの森に用事がある人間は何者なのか。ハルシャも他人のことが言える立場ではないが、あからさまに怪しい人物だ。
怪しい人物との遭遇は避けたいところだった。相手が敵対的な人物で、戦闘になったりしたらハルシャとしては困る。今はあくまでもラージャー王とシャシャーンカ王の和平会談の結果待ちの時期だ。下手な行動は控えるべきだ。
ダナパーラは、ここに居る何者かに会わせるために、ハルシャをここまで導いてきたということになる。
ならば、会って不都合な相手ではないだろう。鴨のアールティーが自らの命を賭してハルシャを援助してくれた。ラージャシュリーが拾ってハルシャが関わった動物たちの縁に、期待するしかなかった。
ハルシャは松明を持って、更に近づいた。
その場所は、森の中でそこだけ小さな広場になっている所だった。下草も生えておらず、土の地面が露出している。
ハルシャの目に入った松明の光は、広場の外周の木の一本に括り付けてあるようだ。広場の中央付近には、枯枝や枯葉が集められ、少しだけうずたかくなっていた。
松明を括り付けてある木の根元付近には、見覚えのある形の壷があった。もし明るい太陽の下で色彩を確認すれば、濃い緑色が窺えたかもしれない。
枯枝を積んでいる広場中央近辺に、一人の影が動いていた。夜の森の、松明の弱い光の下での遠目ではあるが、見間違えようは無かった。ラージャシュリーその人だ。
「ラージャシュリー。何故ここにいるんだ」
「え、ハルシャお兄様ですか」
本人の声を聞いて、ラージャシュリーとの再会を果たした喜びよりも、驚きと不思議さが先に立った。
カナウジ南東の塔に幽閉されていたのではなかったか。そのラージャシュリーがわざわざ真夜中の森で一体何をしているのか。
様々な可能性がハルシャの心の中に泡のように浮かんで消える。そしてこの状況でラージャシュリーが何をしようとしているのか、気づいてしまった。
ラージャシュリーは、ここで焼身自殺を図る気なのだ。
すっかりハルシャは失念していた。妹のラージャシュリーは、カナウジの王であるグラハヴァルマンと結婚したのだ。夫であるグラハヴァルマンは、シャシャーンカ王とデーヴァグプタ王という二大奸王の奇襲を受けて落命した。つまりラージャシュリーは夫を亡くした未亡人という立場だ。
未亡人は、その貞淑さを示すために、森で焼身自殺をして夫に殉ずる習慣がある。ハルシャとラージャシュリーの母親であるヤソマティ王妃もその方法を選んでいた。
「待つんだラージャシュリー。死なないでくれ」
ダナパーラは、ラージャシュリーが拾ってきて、ハルシャの奔走によって宮殿で飼育できるように手配した子どもの象だ。ラージャシュリーがタネシュワールに滞在していた時は宮殿に作った象舎で暮らしていたが、ラージャシュリーが嫁入りによってカナウジに移動することになると、ダナパーラも一緒に連れて行ったはずだ。
カナウジがシャシャーンカ王とデーヴァグプタ王の連合軍によって攻撃されて陥落した時。ラージャシュリーは塔に幽閉された。その時、飼っていた象のダナパーラの扱いはどうなったのだろうか。
今となってはそれは分かりようも無いが、今、ここにダナパーラがいる。無事に生き延びていたのだ。
「お前のご主人様は、いつか必ず救出する。兄上、じゃなくてラージャー陛下が和平会談でカナウジ解放を勝ち取ってくれるはずだ。それまで待っていてくれ」
象に人間の言葉が通用するとも思えないが、ラージャシュリーが拾ってくる動物は何故か動物とは思えぬほどに賢さを備えているので、返事は無くても理解はしてくれている。そう信じたい。
ダナパーラの横をすり抜けて先に進む。進もうとした。ダナパーラの鼻が、ムンジャ草の腰帯を巻いたハルシャの腰に巻き付いていた。
「いや、ダナパーラ、邪魔しないでもらえるか。南東隅の塔の様子を見に行くだけだから。焦って変な行動を取ったりしないから」
象なので当然、簸箕 (はき) のような大きな耳があるのだが、ハルシャの意見を聞く耳は持っていないようだった。
ダナパーラは鼻でがっちりとハルシャの胴体を確保したまま、全然別の方向へ歩き始めた。
背の高さが人間と同じくらいの子どもの象であっても、ダナパーラの方が遥かに巨体で体重もある。ハルシャは為す術もなくダナパーラに導かれる方向に引きずられるように歩くだけだった。
ただの邪魔ではないのだろう。ダナパーラはハルシャをどこかへ連れて行きたいのだ。
「ダナパーラがどこへ行くつもりか知らないけど、そこへ行けばいいんだな」
ハルシャはもう無駄な抵抗をせず、ダナパーラに導かれるままに夜のヴィンドヤースの森を進んだ。
どれくらい進んだだろうか。そもそもどこをどう通って来たのかも把握していない。ダナパーラに任せきりだ。行くのは良いが、帰りは迷ってしまうのではないかと不安になり始めてきた。
視界の先に小さな光の点が見えた。更に接近すると、どうやら松明の炎であるらしいと分かってきた。
このような真夜中にヴィンドヤースの森に用事がある人間は何者なのか。ハルシャも他人のことが言える立場ではないが、あからさまに怪しい人物だ。
怪しい人物との遭遇は避けたいところだった。相手が敵対的な人物で、戦闘になったりしたらハルシャとしては困る。今はあくまでもラージャー王とシャシャーンカ王の和平会談の結果待ちの時期だ。下手な行動は控えるべきだ。
ダナパーラは、ここに居る何者かに会わせるために、ハルシャをここまで導いてきたということになる。
ならば、会って不都合な相手ではないだろう。鴨のアールティーが自らの命を賭してハルシャを援助してくれた。ラージャシュリーが拾ってハルシャが関わった動物たちの縁に、期待するしかなかった。
ハルシャは松明を持って、更に近づいた。
その場所は、森の中でそこだけ小さな広場になっている所だった。下草も生えておらず、土の地面が露出している。
ハルシャの目に入った松明の光は、広場の外周の木の一本に括り付けてあるようだ。広場の中央付近には、枯枝や枯葉が集められ、少しだけうずたかくなっていた。
松明を括り付けてある木の根元付近には、見覚えのある形の壷があった。もし明るい太陽の下で色彩を確認すれば、濃い緑色が窺えたかもしれない。
枯枝を積んでいる広場中央近辺に、一人の影が動いていた。夜の森の、松明の弱い光の下での遠目ではあるが、見間違えようは無かった。ラージャシュリーその人だ。
「ラージャシュリー。何故ここにいるんだ」
「え、ハルシャお兄様ですか」
本人の声を聞いて、ラージャシュリーとの再会を果たした喜びよりも、驚きと不思議さが先に立った。
カナウジ南東の塔に幽閉されていたのではなかったか。そのラージャシュリーがわざわざ真夜中の森で一体何をしているのか。
様々な可能性がハルシャの心の中に泡のように浮かんで消える。そしてこの状況でラージャシュリーが何をしようとしているのか、気づいてしまった。
ラージャシュリーは、ここで焼身自殺を図る気なのだ。
すっかりハルシャは失念していた。妹のラージャシュリーは、カナウジの王であるグラハヴァルマンと結婚したのだ。夫であるグラハヴァルマンは、シャシャーンカ王とデーヴァグプタ王という二大奸王の奇襲を受けて落命した。つまりラージャシュリーは夫を亡くした未亡人という立場だ。
未亡人は、その貞淑さを示すために、森で焼身自殺をして夫に殉ずる習慣がある。ハルシャとラージャシュリーの母親であるヤソマティ王妃もその方法を選んでいた。
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