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▼第9章 エフタルの余喘
▼9-3 急変
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あらかじめ、驚いたり大声を出したりしないように注意されていたので、ハルシャは声を出すのを辛うじて抑えた。だが、全力疾走をした後のように心臓が激しく脈打つのは自分で制御できるものではない。胸の奥では魂の本体の部分が、千個の破片に砕け散ってしまうのを感じていた。
「く、詳しい状況を説明してください」
兄もまた動揺しているようだったが、次の対応をすぐに考えるあたりは弟のハルシャよりは大人だった。
だが、使者は詳しい状況は知らないとのことだった。王が倒れて危篤となって、その第一報として派遣されたので、その後、プラバーカラ王がどうなっているのかは知らないとのことだった。タネシュワールからこの村まで、早馬を乗り継いで来ても数日はかかる。つまり、王が倒れたのは今から見たら数日前のことなのだ。最悪の場合、その数日の時間差の間に既に崩御している、という可能性もある。
いずれにせよ、王子であるラージャーとハルシャはすぐにタネシュワールに戻らなければならない。帰路を急いで移動したとしても、やはり数日はかかってしまうので、それまで父が無事であることをただ祈るばかりだ。
「そもそも父上は健康で、これといった病気の気配など今まで全く無かったのに。以前に白フン族との戦闘で矢傷を受けた時だって、包帯を巻いただけで済んでいたくらいなのに。どうして急にそんな重い病気になったんだ」
ラージャーが小声で呟いた疑問はハルシャの心中と共通するものだった。
父は四十歳を少し過ぎた年齢だ。貧しい一般人ならばそれくらいの年齢で亡くなるのが普通だ。病気になったところで良い医者に診察してもらえることも無いし、日常生活を送る中で盗賊や猛獣に襲われて死亡することも珍しくない。だが、王ならば普段から良いものを食べていて健康だし、いざ病気になっても医者に診てもらえる。政治的な理由で暗殺を狙われることはあっても、盗賊や野生動物のような日常的な危険に晒されることは無い。
タネシュワールの都から遠く離れた僻地で推測を論じても始まらない。とにかく、早く帰らなければならない。
「帰るといっても、交渉をどうすれば」
現状としてほとんど交渉の役に立っていないもののハルシャは交渉の行く末を心配した。交渉の使節として赴いてきた王子が、話が纏まってすらいないのに投げ出す形で慌てて首都に引き返したら、何か異変があったと白フン族の代表たちに悟られてしまう。そうなれば、いずれ交渉が妥結するにしても、こちら側に不利になることは避けられない。
「ここは、偶然王子が二人で来ていたことを不幸中の幸いと考えるべきでしょう。第一王子の僕はここに残って交渉を急いで纏めます。多少はこちらの不利な条件になっても、やむを得ないから呑む方向で、とにかく急ぐことを優先します。ハルシャは、今すぐにタネシュワールに向かってください」
「でも、俺が急にいなくなったら、やっぱり白フン族や、こちら側の随行員たちにも怪しまれるんじゃ」
「交渉に飽きて逃げ出したことにしましょう。今までの交渉の時も、埒のあかない話にうんざりしている様子だったのは、誰の目にも明らかでしたし」
今までの自分の様子や心情が周囲の人たちに見破られていたことを、ハルシャは恥ずかしく思った。だが、交渉の退屈さにうんざりしていたことが結果として役に立つので、それを利用しない手は無い。
夜のうちに出発することになった。松明と幽かな月明りだけが頼りの夜の道は暗かった。酷使される馬もかわいそうだが、自分自身も疲れて眠いのでかわいそうだと妙に客観的に思った。だが、危篤でどうなっているか分からない父王の元に一刻でも早く戻らなければならないので、今こそが踏ん張りどころだ。
道中、護衛の者とともにどう道を辿って来たのかもよく覚えていないが、途中で獰猛な虎に遭遇したり野盗に絡まれることも無く無事にタネシュワールに着いたのは運に恵まれていた。父が危篤という不幸な状況の中なので、そこだけは天秤が釣り合ったのだろう。
疲れた馬は馬丁に引き渡し、ハルシャは太腿の内側の痛みに耐えつつも宮殿の扉の前に立った。王子の出迎えに出てきたのは、御典医団の内で最も若い女性の医師だった。以前にハルシャとラージャーの弓矢の技量を褒めてくれた記憶がある。
「お前は母上担当の御典医だったな。母上の側に控えていなくていいのか」
「スセナと申します。王妃様は特にご病気も無く健やかでいらっしゃいますので、自分のところはいいから陛下の治療の協力に行きなさい、とご命令下さいました」
「そうなのか。それで、父上の容体はどうなのだ」
「今のところ改善はありません。が、ハルシャ王子殿下のお顔をご覧になれば、何か好転する可能性もあるかもしれません」
ハルシャ王子の帰還を聞きつけて、侍従長も迎えに出てきて、疲れた王子に対して丁寧に礼拝した。
走りたい気持ちを抑えて、女性御典医と侍従長を従えて宮殿の中を普通に歩いてハルシャは進んだ。
宮殿内の各部屋からは、牛乳と薬草を煮詰めた匂いが漂ってきていた。乳粥を作って神像に捧げて悪い魔物の浄化を願う儀式を行っているのだ。あちらこちらからマハ・マイヤールの賛美歌を詠唱する声も聞こえる。中庭にある小さな神殿では、婆羅門がヴェーダの聖句を唱え、悪霊退散のために暴風神ルドラに祈っているようだった。
父の病室の前も、当然ながら物々しかった。鎧を着こんで完全武装した兵士が抜き身の剣を持って控えている。その横では国務長官が頭を抱えて床に座り込んでいて微動だにしないのが窺えた。国王直属の使用人が涙目でハルシャの顔を確認し、入室を許可してくれた。
「く、詳しい状況を説明してください」
兄もまた動揺しているようだったが、次の対応をすぐに考えるあたりは弟のハルシャよりは大人だった。
だが、使者は詳しい状況は知らないとのことだった。王が倒れて危篤となって、その第一報として派遣されたので、その後、プラバーカラ王がどうなっているのかは知らないとのことだった。タネシュワールからこの村まで、早馬を乗り継いで来ても数日はかかる。つまり、王が倒れたのは今から見たら数日前のことなのだ。最悪の場合、その数日の時間差の間に既に崩御している、という可能性もある。
いずれにせよ、王子であるラージャーとハルシャはすぐにタネシュワールに戻らなければならない。帰路を急いで移動したとしても、やはり数日はかかってしまうので、それまで父が無事であることをただ祈るばかりだ。
「そもそも父上は健康で、これといった病気の気配など今まで全く無かったのに。以前に白フン族との戦闘で矢傷を受けた時だって、包帯を巻いただけで済んでいたくらいなのに。どうして急にそんな重い病気になったんだ」
ラージャーが小声で呟いた疑問はハルシャの心中と共通するものだった。
父は四十歳を少し過ぎた年齢だ。貧しい一般人ならばそれくらいの年齢で亡くなるのが普通だ。病気になったところで良い医者に診察してもらえることも無いし、日常生活を送る中で盗賊や猛獣に襲われて死亡することも珍しくない。だが、王ならば普段から良いものを食べていて健康だし、いざ病気になっても医者に診てもらえる。政治的な理由で暗殺を狙われることはあっても、盗賊や野生動物のような日常的な危険に晒されることは無い。
タネシュワールの都から遠く離れた僻地で推測を論じても始まらない。とにかく、早く帰らなければならない。
「帰るといっても、交渉をどうすれば」
現状としてほとんど交渉の役に立っていないもののハルシャは交渉の行く末を心配した。交渉の使節として赴いてきた王子が、話が纏まってすらいないのに投げ出す形で慌てて首都に引き返したら、何か異変があったと白フン族の代表たちに悟られてしまう。そうなれば、いずれ交渉が妥結するにしても、こちら側に不利になることは避けられない。
「ここは、偶然王子が二人で来ていたことを不幸中の幸いと考えるべきでしょう。第一王子の僕はここに残って交渉を急いで纏めます。多少はこちらの不利な条件になっても、やむを得ないから呑む方向で、とにかく急ぐことを優先します。ハルシャは、今すぐにタネシュワールに向かってください」
「でも、俺が急にいなくなったら、やっぱり白フン族や、こちら側の随行員たちにも怪しまれるんじゃ」
「交渉に飽きて逃げ出したことにしましょう。今までの交渉の時も、埒のあかない話にうんざりしている様子だったのは、誰の目にも明らかでしたし」
今までの自分の様子や心情が周囲の人たちに見破られていたことを、ハルシャは恥ずかしく思った。だが、交渉の退屈さにうんざりしていたことが結果として役に立つので、それを利用しない手は無い。
夜のうちに出発することになった。松明と幽かな月明りだけが頼りの夜の道は暗かった。酷使される馬もかわいそうだが、自分自身も疲れて眠いのでかわいそうだと妙に客観的に思った。だが、危篤でどうなっているか分からない父王の元に一刻でも早く戻らなければならないので、今こそが踏ん張りどころだ。
道中、護衛の者とともにどう道を辿って来たのかもよく覚えていないが、途中で獰猛な虎に遭遇したり野盗に絡まれることも無く無事にタネシュワールに着いたのは運に恵まれていた。父が危篤という不幸な状況の中なので、そこだけは天秤が釣り合ったのだろう。
疲れた馬は馬丁に引き渡し、ハルシャは太腿の内側の痛みに耐えつつも宮殿の扉の前に立った。王子の出迎えに出てきたのは、御典医団の内で最も若い女性の医師だった。以前にハルシャとラージャーの弓矢の技量を褒めてくれた記憶がある。
「お前は母上担当の御典医だったな。母上の側に控えていなくていいのか」
「スセナと申します。王妃様は特にご病気も無く健やかでいらっしゃいますので、自分のところはいいから陛下の治療の協力に行きなさい、とご命令下さいました」
「そうなのか。それで、父上の容体はどうなのだ」
「今のところ改善はありません。が、ハルシャ王子殿下のお顔をご覧になれば、何か好転する可能性もあるかもしれません」
ハルシャ王子の帰還を聞きつけて、侍従長も迎えに出てきて、疲れた王子に対して丁寧に礼拝した。
走りたい気持ちを抑えて、女性御典医と侍従長を従えて宮殿の中を普通に歩いてハルシャは進んだ。
宮殿内の各部屋からは、牛乳と薬草を煮詰めた匂いが漂ってきていた。乳粥を作って神像に捧げて悪い魔物の浄化を願う儀式を行っているのだ。あちらこちらからマハ・マイヤールの賛美歌を詠唱する声も聞こえる。中庭にある小さな神殿では、婆羅門がヴェーダの聖句を唱え、悪霊退散のために暴風神ルドラに祈っているようだった。
父の病室の前も、当然ながら物々しかった。鎧を着こんで完全武装した兵士が抜き身の剣を持って控えている。その横では国務長官が頭を抱えて床に座り込んでいて微動だにしないのが窺えた。国王直属の使用人が涙目でハルシャの顔を確認し、入室を許可してくれた。
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