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▼第9章 エフタルの余喘
▼9-1 中つ国の端
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ハルシャは馬上で幾度目かの溜息をついた。タネシュワールの都を出てからずっと、一行は一路北へと向かっている。第一王子と第二王子が赴くのだから馬車が用意されるのかと思っていたが、道が悪いため馬車は途中で通れなくなってしまうとのことで、馬の背に揺られての旅となった。
空を見上げると、何の鳥だろうか、翼を拡げてハルシャたちの一行を追い越して北へ向かって飛んで行く。鳥が羨ましい。馬の背に乗っての旅よりもずっと楽に速く進むことができるだろう。自らの力で翼をはためかせ、風を捉えて己の体力を燃やして飛んで行かなければならないので単純に体力の消耗度を比較できるものでもなさそうだった。
「兄上、まだ着かないのですか」
妹ラージャシュリーの結婚式から随分と日が経った。思えば遠くへ来たものだ。
「目的地に行くまでは数日かかるって言っていたはずだろう。まだ初日だぞ」
「そ、それは分かっています。そうじゃなくて、目的地ではなくて、本日の予定の野営地にまだ着かないのですか」
「さあ、それはどうだろう」
ハルシャの隣に轡を並べている第一王子ラージャーは白フン討伐に行った事もあるが、旅慣れているわけではない。先を進む案内の者に尋ねると、もうすぐ夕方になるので、今日一日の行程を終えて野営の準備を始めるという。つまりハルシャにとっては今日一日だけでも疲れる旅だったが、その一日すらもまだ終わっていない。
愚痴を言いたいところではあったが、ハルシャにとって今回の旅は自ら志願したものだ。ここで弱音を吐いてしまっては格好悪い。現在のハルシャは既に生まれて満十五年の誕生日を過ぎているが、十四歳の頃の自意識の目覚めから、さほど精神的に成長しているわけではなかった。
「尻が痛い。両方の太腿の内側が擦れて痛い」
他人の解釈によっては愚痴や弱音として受け取られかねない発言だったが、あくまでもハルシャは現状の感想として正直に感じていることを口に出して言った。王子の帝王教育の一環として、当然ながら象や馬に乗る訓練は受けている。だが、丸一日といった長時間の騎乗経験は無く、これは短時間の訓練だけでは学ぶことのできない実地の貴重な体験だった。
ラージャー第一王子、ハルシャ第二王子を含む使節団一行は、首都タネシュワールを離れて北へ向かっている。プラバーカラ王が支配する地域で最も北にある村に向かっているところだった。その地で白フン族の代表者と会談し、交易についての話し合いを進めることになっていた。
本来ならばプラバーカラ王の名代として第一王子のラージャーが行けば良いのだが、本人の希望も受けて第二王子であるハルシャも同行することとなった。
ハルシャ王子の内心としては、自分自身の結婚というものが心の中できちんと噛み砕いて受け取ることができずにいるので、それまでの時間稼ぎと気分転換とを兼ねて王族の一員として外交交渉を部分的にでも担いたいと思ったのだ。
ただし旅をするのは楽ではない。今回の旅では馬を与えられてはいるが、一般の人ならば徒歩だ。道は悪い上に、普通の人ならば靴を履いていない人も多い。ハルシャは王族なので恵まれているが、それでも長距離移動に伴う疲労は万人に訪れるものだ。
ジャヤセーナ論師による地理の講義で学んだところによると、プラバーカラ王の権力が及ぶ中つ国は、北を上とする地図上ではどちらかといえば東西に横長の版図を有していた。東流するガンジス河の流域に沿った感じだった。なので南北の移動はそれほどの距離にならないはずだったが、悪路のせいもあるが改めてこれだけの広大な版図を支配している父王の偉大さを体感する形となった。
一行は数日後に目的地の村に到着した。偶然、北の方に位置しているだけという、特にこれといって特徴の無い寒村だ。盗賊や凶暴な野生動物の襲撃を防ぐための木製の柵が村全体を囲繞している。
村に入った一行は、宿舎として二階建ての民家の一つに案内された。古くて小さくて粗末な家だったが、そこは村長の家であり、古さはともかく二階建てという時点で村では一番大きくて最も立派な家だということだった。白フン族との交渉も、この村長宅を会場として行われるという。
ハルシャは側近の者から事前の説明を聞いた。
白フン族は精悍な遊牧民族だ。五十年ほど前まではエフタルという名の国家を形成し、西のササン朝ペルシア帝国と東のグプタ朝の間で繁栄を誇っていたが、北から突厥という別の遊牧民族に攻撃を受けて、国家としてのエフタルは瓦解してしまった。国が形を保てなくなったからといって、そこにいた人々が全部消えて無くなるわけではない。それぞれの地方の有力者の下で勢力を保ち続けている。
「でも、その話から考えると、白フン族の中の内の一つの地方有力勢力との間で交易の約束事を決めたとしても、それとは別の地方有力勢力が来ちゃったら、その約束は効力を発揮できないんじゃないかな」
ハルシャは良い着眼点に自ら到達した。側近のその後の説明によると、そういう問題があるからこそ、今回の交渉では白フン族の中の、この村に近い場所を勢力としている三人の有力者に参加してもらい、三勢力に共通の約束事を決める交渉をするのだという。勿論今後の永遠の有効性を保証できるものではないが、現時点でできる範囲で最大にして最善最良の交易交渉の枠ということになろう。
「交渉相手は、まだ来ていないのかな」
空を見上げると、何の鳥だろうか、翼を拡げてハルシャたちの一行を追い越して北へ向かって飛んで行く。鳥が羨ましい。馬の背に乗っての旅よりもずっと楽に速く進むことができるだろう。自らの力で翼をはためかせ、風を捉えて己の体力を燃やして飛んで行かなければならないので単純に体力の消耗度を比較できるものでもなさそうだった。
「兄上、まだ着かないのですか」
妹ラージャシュリーの結婚式から随分と日が経った。思えば遠くへ来たものだ。
「目的地に行くまでは数日かかるって言っていたはずだろう。まだ初日だぞ」
「そ、それは分かっています。そうじゃなくて、目的地ではなくて、本日の予定の野営地にまだ着かないのですか」
「さあ、それはどうだろう」
ハルシャの隣に轡を並べている第一王子ラージャーは白フン討伐に行った事もあるが、旅慣れているわけではない。先を進む案内の者に尋ねると、もうすぐ夕方になるので、今日一日の行程を終えて野営の準備を始めるという。つまりハルシャにとっては今日一日だけでも疲れる旅だったが、その一日すらもまだ終わっていない。
愚痴を言いたいところではあったが、ハルシャにとって今回の旅は自ら志願したものだ。ここで弱音を吐いてしまっては格好悪い。現在のハルシャは既に生まれて満十五年の誕生日を過ぎているが、十四歳の頃の自意識の目覚めから、さほど精神的に成長しているわけではなかった。
「尻が痛い。両方の太腿の内側が擦れて痛い」
他人の解釈によっては愚痴や弱音として受け取られかねない発言だったが、あくまでもハルシャは現状の感想として正直に感じていることを口に出して言った。王子の帝王教育の一環として、当然ながら象や馬に乗る訓練は受けている。だが、丸一日といった長時間の騎乗経験は無く、これは短時間の訓練だけでは学ぶことのできない実地の貴重な体験だった。
ラージャー第一王子、ハルシャ第二王子を含む使節団一行は、首都タネシュワールを離れて北へ向かっている。プラバーカラ王が支配する地域で最も北にある村に向かっているところだった。その地で白フン族の代表者と会談し、交易についての話し合いを進めることになっていた。
本来ならばプラバーカラ王の名代として第一王子のラージャーが行けば良いのだが、本人の希望も受けて第二王子であるハルシャも同行することとなった。
ハルシャ王子の内心としては、自分自身の結婚というものが心の中できちんと噛み砕いて受け取ることができずにいるので、それまでの時間稼ぎと気分転換とを兼ねて王族の一員として外交交渉を部分的にでも担いたいと思ったのだ。
ただし旅をするのは楽ではない。今回の旅では馬を与えられてはいるが、一般の人ならば徒歩だ。道は悪い上に、普通の人ならば靴を履いていない人も多い。ハルシャは王族なので恵まれているが、それでも長距離移動に伴う疲労は万人に訪れるものだ。
ジャヤセーナ論師による地理の講義で学んだところによると、プラバーカラ王の権力が及ぶ中つ国は、北を上とする地図上ではどちらかといえば東西に横長の版図を有していた。東流するガンジス河の流域に沿った感じだった。なので南北の移動はそれほどの距離にならないはずだったが、悪路のせいもあるが改めてこれだけの広大な版図を支配している父王の偉大さを体感する形となった。
一行は数日後に目的地の村に到着した。偶然、北の方に位置しているだけという、特にこれといって特徴の無い寒村だ。盗賊や凶暴な野生動物の襲撃を防ぐための木製の柵が村全体を囲繞している。
村に入った一行は、宿舎として二階建ての民家の一つに案内された。古くて小さくて粗末な家だったが、そこは村長の家であり、古さはともかく二階建てという時点で村では一番大きくて最も立派な家だということだった。白フン族との交渉も、この村長宅を会場として行われるという。
ハルシャは側近の者から事前の説明を聞いた。
白フン族は精悍な遊牧民族だ。五十年ほど前まではエフタルという名の国家を形成し、西のササン朝ペルシア帝国と東のグプタ朝の間で繁栄を誇っていたが、北から突厥という別の遊牧民族に攻撃を受けて、国家としてのエフタルは瓦解してしまった。国が形を保てなくなったからといって、そこにいた人々が全部消えて無くなるわけではない。それぞれの地方の有力者の下で勢力を保ち続けている。
「でも、その話から考えると、白フン族の中の内の一つの地方有力勢力との間で交易の約束事を決めたとしても、それとは別の地方有力勢力が来ちゃったら、その約束は効力を発揮できないんじゃないかな」
ハルシャは良い着眼点に自ら到達した。側近のその後の説明によると、そういう問題があるからこそ、今回の交渉では白フン族の中の、この村に近い場所を勢力としている三人の有力者に参加してもらい、三勢力に共通の約束事を決める交渉をするのだという。勿論今後の永遠の有効性を保証できるものではないが、現時点でできる範囲で最大にして最善最良の交易交渉の枠ということになろう。
「交渉相手は、まだ来ていないのかな」
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